第11話 剣の余韻と聖女の務め

 控え室を飛び出してから、どれくらい走ったのだろう。


 聖堂へ続く回廊の角を曲がったところで、私はようやく足を緩めた。磨き上げられた石床に、乱れた靴音が二つ、三つと転がる。壁際までたどり着いた私は、そこに片手をついて、崩れ落ちそうになる身体をどうにか支えた。


「はぁ……はぁ……っ!」


 肩が大きく上下する。


 距離だけを見れば、決して長い道のりではない。けれど、決闘の余熱を抱えた身体には、それだけの駆け足ですら十分すぎるほど重かった。額に浮いた汗が前髪を濡らし、頬を伝って、顎先からぽたりと落ちる。


『どうした、エレナ。大した距離ではないだろう?』


 内側から響いた声は、あまりにも涼しかった。


 ついさっきまで同じ身体で剣を振るい、床を蹴り、あれほど激しく戦っていた人の声とは思えない。もちろん、魂の声に呼吸の乱れなんてあるはずがないのだけれど。


「あなたの走り方と、一緒にしないで……っ!」


 息を切らしながら抗議すると、エレンは少しだけ黙った。


『ふむ。まず呼吸だ。意識して吸え。吐く方を長くしろ』


「急にそんなこと言われて、できるわけないでしょっ!?」


 半ば涙声になった私の声が、人気の少ない廊下に小さく跳ねた。


 同じ身体のはずなのに。


 エレンが主導権を握っていた間の私は、まるで別の生き物だった。踏み込みは深く、剣筋には迷いがなく、床を蹴る足先から肩の返しまで、すべてが戦うために整っていた。


 しなやかで、鋭い。


 ただ速いのではない。走ることも、斬ることも、避けることも、エレンにとっては息をするのと同じ場所にあるのだと思う。


 だからこそ、私に主導権が戻った今、その差が身体の重さになって返ってきていた。


(あれ、本当に私の身体だったのかな……)


 情けない疑問が、汗の冷えはじめた肌にじわりと滲む。


『だが、汗がすごいぞ。このまま信者の前に出れば、聖女見習いとしての面目が丸潰れだ』


(それはそう……っ!)


 悔しいけれど、指摘はあまりにも正しかった。


 乱れた前髪。首筋に残る汗。聖衣の内側にこもった熱。今のまま人前に立てば、決闘場から大急ぎで帰ってきたことまで一目で見抜かれてしまう。


 私は乱れた呼吸を抱えたまま、顔を上げた。


 聖堂へ向かう道ではなく、自邸へ戻る道へ。


 身支度を整える時間は、まだぎりぎり残っている。湯を浴びて、衣を替えて、何事もなかったように微笑むくらいなら、きっと間に合う。


 そう思った途端、重かった足取りがほんの少しだけ軽くなった。


 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦


「……ふぅ……っ」


 熱い湯を浴びた瞬間、身体の奥に残っていた強張りが、白い湯気の中へほどけていった。


 浴室は湯気で白く霞んでいる。天井から降り注ぐ細かな湯の糸が、火照った肌をやわらかく打ち、額から首筋へ、肩から指先へと流れていく。


 濡れた髪は重みを増し、背中に張りついた。雫が髪先から落ち、床で小さく砕ける。その音を聞いているうちに、速すぎた鼓動が少しずつ落ち着いていった。


 さっきまで、同じ身体が剣を握っていた。


 炎の前へ踏み込み、歓声の中心に立ち、勝者として手を上げていた。


 その熱が、まだ私のどこかに残っている。


 けれど湯を浴びるたび、闘技場の砂埃も、汗も、緊張も、少しずつ流れていく気がした。


『落ち着いたか?』


「……少しだけね」


『なら、髪を乾かそう。時間はあまりないからな』


「もう…分かってるよぉ……」


 私は小さく唇を尖らせた。


 でも、エレンの言う通りだった。


 ゆっくり湯に浸かる時間なんてない。今日ばかりは、優雅な支度ではなく、戦場帰りの応急処置に近かった。


 身体を拭き、髪を整え、新しい聖衣に袖を通す。


 鏡の中の私は、さっきまで闘技場を走っていた人間には見えなかった。少なくとも、そう見えてほしい。


 頬に残る赤みを手のひらで押さえ、私はもう一度、深く息を吸った。


 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦


 聖堂の前へたどり着いたのは、ほとんど予定通りの時刻だった。


 大扉の向こうには、すでに人の気配が満ちている。整然と並ぶ足音。衣の擦れる音。低く交わされる囁き。扉の方へ何度も向けられる視線には、私の到着を待つ静かな期待があった。


 ついさっきまで廊下を走り、慌ただしく湯を浴び、髪を整えていたことなど、悟らせるわけにはいかない。


 私は胸元にそっと手を添え、ひとつだけ深く息を吸った。


 大丈夫。


 そう自分に言い聞かせてから、扉を開いた。


「お待たせ致しました」


 唇に柔らかな微笑みをのせて告げると、場の空気がふわりとほどけた。


「エレナ様、本日もよろしくお願いいたします」


 信者たちが深々と頭を下げる。


 私は一人ひとりの顔を見るように、ゆっくりとうなずいた。


「こちらこそ。では、始めましょうか」


 この集まりは、説法でも教導でもない。


 誰かが抱えている小さな悩みを持ち寄り、集まった人たちで知恵を出し合う場だった。苦しみの名を明かせる人は明かし、明かせない人は伏せたまま、それでも言葉を交わす。


 最後に私が添えるのは、答えではない。


 その人が、自分の足で一歩進むための、ほんの小さなひと声だけだ。


 聖女見習いの言葉は、私自身が思っているよりも、ずっと重い。


 先に答えを示してしまえば、人々はそれを唯一の正解として持ち帰ってしまう。だから私は、いつも待つ。言葉が交わされるのを。迷いが少しずつ形を変えていくのを。


 人は、互いに支え合って生きていくもの。


 その当たり前を、祈りより少しだけ近い場所で守るために、私はこの時間を大切にしていた。


 最初に口を開いたのは、前列に座っていた青年だった。


 きっちり切り揃えたおかっぱ頭をわずかに俯かせ、膝の上で組んだ指を何度も入れ替えている。顔は真っ赤で、今にも逃げ出したそうだった。


「あの……私の悩みは、その……恋、なのですが」


 周囲が静かになる。


 青年は一度唇を結び、それから意を決したように続けた。


「どうすれば、彼女と近づけるのでしょうか……。どうしても、距離を感じてしまって。……プレゼントを贈れば、少しは近づけるでしょうか?」


 真剣な問いだった。


 だからこそ、斜め後ろから飛んできた明るい声が、少しだけ場の温度を変えた。


「うーん。プレゼントもいいとは思うけどぉ──あなた、その髪型を先にどうにかした方がよくない?」


 言ったのは、軽やかな装いの女信者だった。


 青年の肩がびくりと揺れる。


 すると今度は、反対側から野太い声が割り込んだ。


「プレゼントに頼るなど、心にやましさがある証拠ではないか。そんなことでどうする。きっと君には、神がいま試練を――」


 腕を組んだ老信者が、眉間に深い皺を刻んで唸る。


 話が説教の方角へ転がりかけたところで、穏やかな笑い声がそれをやわらかく押し戻した。


「なに言ってんだい。プレゼントってのはねぇ、真心だよ。坊やの気持ちは、きっとちゃんと届くはずさ」


 しわの深い手を膝に重ねた老婆が、目尻を下げて微笑んでいる。


 ばらばらに投げられた意見が、ゆっくりと場の中央へ集まっていく。


 髪型。


 贈り物。


 下心。


 真心。


 どれも少しずつ違っていて、どれも完全には間違っていない。だからこそ、私はすぐに答えを選ばず、青年の表情を見た。


 彼は俯いたまま、膝の上で指を固く握っていた。


 怖いのだと思う。


 嫌われることが。


 近づこうとして、かえって遠ざかってしまうことが。


 私は青年に向かって、静かに微笑んだ。


「そうですね」


 ざわめきの上に、そっと声を置く。


「プレゼントを、相手の気持ちを動かすための道具にしてしまうのは、あまりよくないと思います。でも――相手のことを考えて選んだ、真心のこもった贈り物なら、きっと素敵です」


 青年の指が、膝の上で少しだけ止まった。


「ただ、贈り物だけで距離が縮まるわけではありません。大切なのは、相手が何を喜ぶのか、何を負担に感じるのかを、ちゃんと見ようとすることだと思います」


 私はそこで、少しだけ眉尻を下げた。


「それと……見た目も、立派な個性ですから。こちらは好みが出るところなので、一概には言えないのですけれど」


 場のあちこちから、小さな笑いがこぼれる。


 青年は恐る恐る顔を上げた。


 私は、できるだけまっすぐに彼を見る。


「私は、素敵だと思いますよ」


 青年はしばらく目を瞬かせ、それから赤くなった顔を深々と下げた。


「……ありがとうございます。少し、考えてみます」


「はい。あなたの気持ちが、優しい形で届くといいですね」


 集会は、そうしてゆるやかに進んでいった。


 一人の悩みに、いくつもの声が寄り添う。時にからかい、時に諭し、時に笑いが混ざる。最後に私が一言を添えるたび、誰かの胸元に結ばれていた小さな糸が、ひとつずつほどけていくようだった。


 これが、私の日課だった。


 聖女見習いとしての務めは、祈りや儀礼だけでは終わらない。むしろ、こうした名もない時間の積み重ねこそが、私にとって一日の支柱になっている。


 ――そのとき。


 大扉の軋む音が、穏やかな空気を裂いた。


 信者たちの視線が、一斉にそちらへ向かう。


「エレナ様、集会中に失礼いたします」


 遠慮がちに、けれどはっきりと告げたのは、修道女のマリアンだった。扉の隙間から半身をのぞかせ、深く頭を下げている。


 その傍らに、もう一人。


 背を丸めた老人が、杖を握って立っていた。


 頬に刻まれた皺は深く、伏せがちな目元には、長い夜を越えてきた人だけがまとう影が落ちている。乾いた指が、杖の頭を所在なげに握り直した。


 言葉は、まだない。


 それでも、聖堂の空気は先ほどまでとは違っていた。


 何かがあったのだと、私はすぐに分かった。

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