第10話 『最高に気持ちの悪い毒林檎』
三十四インチのモニターを睨みつける私の目は、ひどく熱を持ったまま乾ききっていた。
三十五度の自室。足元のパソコンのケースからはバォォォンというけたたましい排熱の音が低い重低音となって鳴り続け、汗まみれの太ももの上に置いた手が小刻みに震えているのが自分でも分かっている。
見つけ出そうとしていたアイツの過去へのアクセスは、すでに親の念入りな『お掃除』によって完全に息の根を止められてしまった。私がこれ以上PCの画面のこちら側に引きこもったまま、安全圏からネットのログを漁る作業を繰り返していてもアイツの本当の行方は一切わからない。あの大人が用意したお綺麗な仮想空間の網目の中で、永遠に無駄なスクロールを繰り返させられるだけだ。
警察みたいな大人というルール(社会の壁)も使えない。大衆の正義に訴え出たところで、今の私の妄想のような主張じゃ、逆に私がストーカーや異常者として処理されて弾き返されるのがオチだった。
「だったら……親が自ら動かしているリアルタイムのおままごとに、向こうが自爆するような爆弾を落としてやるしかないだろ」
熱気に淀む暗闇の部屋の中で、私は静かに唇の端を吊り上げ、机の隅に置きっぱなしになっていた自分のスマホを手元に引き寄せた。
もし今、私が直感的に弾き出した「過干渉の親が、アイツの家出計画を知って監禁した」という最悪の予測がすべて正しいのだとする。
だとすれば今頃、あの母親は親友のアカウントの裏側にべったりと張り付いている。言うことを聞かない娘の面倒な本音を完璧に白塗りにし、『旅行を満喫している愛されるお人形の娘と、それをサポートする素晴らしい母親』という完璧な見栄のショーケースを一人で演出して、自己満足の絶頂で脳内を麻薬で満たしているど真ん中のはずだ。
私は、そんな異常な承認欲求の塊に成り果てているあの大人に向かって、一番食いつきが良くて『理想の女子高生っぽい可愛い要素』に満ちた毒餌を口のなかに無理やり突っ込んでやることにしたのだ。
「私じゃ分からないような難しい引掛けじゃない。あのおばさんが一番大好きな、安っぽくてテンプレ通りの素直なバカ女の文体を私が偽造してやる」
指紋認証を解除して、メッセージアプリを開く。
親友とのトーク画面の入力欄に、一目で『お前の演技は完全に通用してるし、同級生の友達の私は全く気づいていない無害な味方ですよ』と向こうを完全に慢心させるようなテキストを、一つ一つフリック入力で打ち込んでいく。
『そういえばさ、あの場所に行ったら絶対買うって言ってた柄違いの限定ペアマグカップ!』
吐き気がした。本当に吐きそうだった。
柄違いのお揃いのペアマグカップ。私とアイツが作ってきた三年間の関係性において、これは世界で一番意味のわからない、同調圧力の権化みたいなくだらないアイテムの筆頭なのだ。
他のクラスメイト連中が修学旅行でお揃いの小物を見せびらかし合っていたのを見て、アイツがなんて言ったか。「お揃い? そんな同じ形状のコップ並べて液体すするとか何のアピールなの。マジで自我はないの? 頭沸いてるでしょ」とゴミを見るような視線をぶつけ、私すらそれに心から同調して一緒に笑い合っていた過去がある。
だからもし。アイツ自身の意識が一ミリでもあのスマホの向こう側に残っていて、その文章を直接アイツが読んだのだとしたら。
私がこれを送った瞬間に「は? お前脳みそ溶けたの。そういう媚びたギャグ一番キツイんだけど」と最高の悪態と本気のマジレスが即座に叩きつけられるはずなのだ。
でも、それが『アイツのスペックも本質も全く理解できていない親世代の母親』だった場合、一体この文章がどういう意味を持って映るだろうか。
「……私の考えた素直な良いお嬢様なら、『きゃー、絶対に買って帰るね!』くらいのクソみたいな返事を意気揚々と返すに決まってるだろ……」
口の中がカラカラに乾いていくのを感じながら、私は唾液を飲んだ。
あの母親からすれば、同年代の仲のいいお友達と可愛い限定アイテムをお揃いにする約束なんてものは、「何の不満もなくごく普通の学生生活を楽しんでいる理想的な姿」でしかない。
これが親友同士しか持ち得ない致命的なトラップだなんて微塵も疑うわけがないのだ。自分が一番好きな展開のセリフを他人の私が振ってくれたおかげで、親は嬉々として自ら見事な地雷の返答を送信してしまうはずだ。
「これだけじゃまだ毒が足りない。あのアタオカ親を絶対にご機嫌に飛びつかせるためには、もっと頭の悪い女子高生っぽいエサが必要だ……」
私は汗で滑りそうになる親指を必死に動かし、キーボードの下から大量の絵文字を呼び出した。
そして三十五度の暑さとは違う気色悪さに顔をしかめながら、入力した文章の末尾にこってりとした安っぽい装飾をたくさん追加していく。普段なら、私たちが人を煽るためにすら絶対に使わないくらい胸焼けのするアイコンの数々。
[そういえばさ、あの場所に行ったら絶対買うって言ってた柄違いの限定ペアマグカップ、やっぱ私もお揃いで欲しいなー! 買えそうならお願いしたい🙏✨絶対うれしい〜!💖😭]
画面上の入力エリアに完成した、見事なくらい頭が空っぽに見える文字と記号の文章。
自分で自分の手を粉々に砕いて切り落としたくなった。本当に嘔吐感を覚えるくらい、自分が入力している文字に激しい自己嫌悪を感じたのだ。
なんだよ、このふざけた絵文字の数と安っぽいハートマークは。
周りの連中に同調するのが死ぬほど嫌いだと息巻いていた自分自身で、私たちの不可侵の領域に率先して安っぽい泥を塗りたくっているんじゃないか。
私が今やっているこの女子高生のごっこ遊びが、結果的に「くだらない他人に媚びを売るような薄っぺらい人間」に自分から成り下がってしまったような逃げ場のないグロテスクさに感じて、本当に胸糞が悪かった。
自作PCのケースから、低くてうるさいファンの排熱音がずっと耳元にこびりついている。
「だけど、これを撃ち込まないとあの見えない大人の防御をひき剥がすきっかけが一生掴めないんだ」
私の安っぽいプライドなんかもうどうでもいい。
アイツは親の過干渉と戦って、学力と法律を使ってたった一人で自由をもぎ取ろうと血を吐くような努力をしていたのだ。あんなにボロボロになってまで隠していた逃亡の記録と強い決意が。
たった一人の大人のつまらない自己満足のせいで箱に閉じ込められ、何もなかった良い子の顔に真っ白く漂白されて消されるなんて。そんな胸の悪くなる最後だけは、私は一瞬だって絶対に許せるわけがない。
アイツをあんな暗くて気味の悪い見栄の世界から引きずり出して、もう一度あのクーラーの効かない私の隣の物理世界まで、力ずくで引っ張り戻してやりたい。このクソみたいな文章は、親が作った偽装という見えない殻を内側から爆破させるための、私からの直接の宣戦布告だ。
スマホを握る親指が、少しだけ緊張で震えながら液晶の緑色の丸に被さった。
向こうの親が自分の作った可愛い偽家族の世界に自己陶酔しきっているのなら、必ずノーブレーキで食いついてくる。あの完全無欠なフリをしているアリバイに対して絶対のエラーを叩き出させるために、私は一番頭の悪くて無警戒な女の子になりきって最悪の猛毒の文字を完成させたのだ。
「私が見殺しにしたまま終わらせるわけないだろ。あの女の気色悪い作り話、こっから外から全部嚙みちぎってやる」
暗い画面をひたすら睨みつけながら、私は手汗まみれの親指でその薄気味の悪い長文と向き合った。
そして。熱気が漂う三十五度の真夜中、迷うことなく私はスマホにあるメッセージの『送信ボタン』を真っ直ぐに力強く押し込んだのだった。
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