第7話 誰かこいつらを止めてくれ

 朝というものは、本来もう少し静かに始まるべきだ。


 少なくとも、ビル・コワルスキーにとってはそうだった。


 古びたソファか、硬いベッドから身体を起こし、腰の痛みに舌打ちする。

 安い豆で淹れたブラックコーヒーを流し込み、火をつけたL.STRIKEを咥えて、ようやく一日が始まる。


 油の匂い。

 焦げた豆の匂い。

 古い部屋に染みついた煙草の匂い。


 それが、ビルの朝だった。


 だが、その朝。


 部屋には、いつものコーヒーの匂いがなかった。

 かわりに、キッチンには完璧すぎる朝食の香りだけが漂っていた。


「……おかしいです」


 セレスティア・ライトは、白いエプロン姿のまま、寝室の扉を見つめていた。


 テーブルには、焼きたてのパン。

 湯気の立つスープ。

 ビルの好みに合わせた、塩気の強すぎない卵料理。

 そして、いつの間にか用意されている冷奴。


 その横で、アイギスが豆腐を一口分だけ切り分けながら、無表情に答える。


「同意。ビルの通常起床時刻から、三十二分経過」


「昨夜のビルは、明らかにお疲れでした」


「疲労蓄積。睡眠不足。水分摂取不足。栄養摂取不足。入浴未実施。総合状態、不良」


「分かっています。だからこそ、私は朝食を最適化しました」


「食事摂取前に起床しない場合、最適化は無効」


「……あなた、いちいち言い方が可愛くありません」


「可愛さは、当該状況に不要」


 セレスの微笑みが、わずかに硬くなる。


 その横で、アイギスは淡々と豆腐を口に運んだ。


「まず確認を提案」


「当然です。ビルに何かあれば、世界の優先順位が変わります」


「過剰出力を警戒」


「あなたに言われたくありません」


 二人は同時に寝室へ向かった。


 扉の前で、セレスがそっとノックする。


「ビル。朝食の準備ができています」


 返事はない。


「ビル?」


 静寂。


 セレスの瞳の奥で、微細な黄金のコードが走った。

 アイギスの瞳にも、淡い光が宿る。


「生命反応、あり」


「当然です。ビルがいなくなるなど、認めません」


「体温、上昇傾向。呼吸、やや乱れ。心拍、負荷あり」


「――開けます」


 セレスは、返事を待たずに扉を開けた。


   *   *   *


 ビルは、ベッドの上で横になっていた。


 寝ている、というよりは、沈んでいるという方が近い。


 作業着の上着だけは脱いでいたが、シャツは汗を吸って重たくなっている。

 眉間には皺が寄り、呼吸も浅い。


 枕元には、昨夜投げ出したままの帽子と、火のついていない煙草の箱。


「ビル……?」


 セレスの声が、いつもより一段低くなった。


 ビルは、薄く目を開ける。


「……あぁ?」


 返事はした。

 だが、声は明らかに掠れていた。


「お身体の具合は」


「……動く気がしねぇ」


 それだけ言って、ビルはまた目を閉じた。


「ビル!」


「声が、でけぇ……」


 ビルは眉間を押さえようとして、手が途中で止まった。


 動きが鈍い。


 その事実を、セレスは見逃さなかった。


「発熱を確認します」


 セレスが額に手を伸ばすより早く、アイギスが横からビルの手首を取った。


「体温、三十八度二分。脈拍上昇。疲労性発熱の可能性。脱水傾向あり」


「離しなさい。私が治します」


「拒否。原因未確定の状態での広域書換は危険」


「ビルの不調を放置する方が危険です」


「即時削除は過剰処理」


「誰が削除すると言いました?」


「現在、目に出力前兆あり」


 セレスは、にこりと笑った。


「ビルの身体に害をなすものが存在するなら、存在ごと消すだけです」


「過剰処理を確認」


「邪魔です」


「拒絶」


 ビルは、目を閉じたまま低く唸った。


「……朝っぱらから、うるせぇ……」


 その一言で、二人は同時に止まった。


「申し訳ありません、ビル」


「謝罪。音量を低下」


「……水」


 ビルが掠れた声で言う。


 その瞬間、セレスとアイギスが同時に動いた。


「ただいま!」


「水分摂取を開始」


 二人の手が、枕元でぶつかった。


 セレスの手には、いつの間にか透き通ったグラスがある。

 アイギスの手には、計量済みの水分補給ボトルがある。


 ビルは、薄く目を開けた。


「……どっちでもいいから、寄越せ」


「ビルには、私が用意したお水を」


「電解質補給を優先」


「私の水は、ビルの細胞状態に合わせて完全最適化されています」


「成分不明。却下」


「あなたのボトルの方こそ、味気なさすぎます」


「味覚より吸収効率を優先」


「ビルには、心の癒やしも必要です」


「水分補給に情緒は不要」


「あります」


「不要」


「あります」


 ビルは、かすかに息を吐いた。


「……蛇口の水でいい」


 二人の動きが止まる。


「ビル……」


「非効率」


「黙れ。水」


 短い命令だった。


 セレスとアイギスは、今度こそ同時に引いた。


   *   *   *


 看病というものは、本来、病人を休ませるためにある。


 少なくとも、ビルはそう理解していた。


 だが、この部屋にいる二つのバケモノにとって、看病とは戦場だった。


 セレスは、ビルの寝室を一瞬で清潔な療養環境へ変えようとした。


 シーツは、肌触りの良い最高級素材へ。

 室温は、体温と発汗量に合わせて自動調整。

 湿度は最適。

 空気中の細菌は完全除去。

 照明は、眼精疲労を防ぐ柔らかな光へ。


 そこまでは、まだよかった。


「ビル。現在の寝具は、疲労回復効率が低すぎます。私が全身を包み込む形の、愛情特化型睡眠補助構造へ――」


「やめろ」


「ですが」


「やめろ」


「……はい」


 セレスは従った。

 だが、納得はしていない顔だった。


 一方、アイギスは寝室の出入口に立ち、ビルの行動制限を始めた。


「本日、ベッドからの離脱を禁止」


「……トイレは行かせろ」


「例外処理として許可」


「偉そうに言うな」


「休息を最優先。煙草の摂取は禁止。アルコール摂取は禁止。工具整備は禁止。外出は禁止。仕事連絡への応答は禁止」


「お前は看病してんのか、俺を拘束してんのか、どっちだ」


「同義と判断」


「するな」


 ビルは頭まで毛布を引き上げた。

 だが、毛布の中に逃げても、二人の声は入ってくる。


「アイギス。ビルは私の愛による直接看護を必要としています」


「否定。セレスの直接看護は高確率で過剰接触へ移行」


「過剰ではありません。必要な接触です」


「添い寝提案ログ、三回。抱擁提案ログ、五回。発汗拭き取り名目での接触拡大提案、二回」


「記録しないでください」


「必要な監視」


「ビルへの愛を監視対象にするなど、不敬です」


「愛の出力が危険域」


「あなたの盾の展開の方がよほど危険です」


「拒絶」


 ビルは、毛布の中で目を閉じた。


 熱のせいか、頭の奥がぼんやりしている。


 昨日までの現場の音が、まだ耳に残っていた。


 崩れた舗装。

 割れた配管。

 湿ったコンクリートの匂い。

 誰も笑わない軽口。

 乾いた笑い声。


 身体の芯が重い。


 寝れば何とかなる。


 そう思った。


 だが、寝られない。


「ビル。お粥を作りました。ビルの胃腸に最適化した、愛情百二十パーセントの――」


「栄養素が過剰。通常食へ変更を提案」


「あなたの出したペースト状栄養食よりは、よほど食事らしいです」


「消化吸収効率ではこちらが上」


「病人に無味の栄養ペーストを出す気ですか」


「必要」


「ビルには、心が必要です」


「体力回復が優先」


「心です」


「体力です」


「心」


「体力」


「……寝かせろ」


 ビルの声が、毛布の中から漏れた。


 二人はまた止まった。


「はい、ビル」


「了解」


 そして、三十秒後。


「では、ビルが眠るまで私が子守歌を――」


「音声刺激は不要」


「あなたの無機質な監視音よりは、私の声の方がビルを癒やせます」


「癒やし効果、未確認」


「ビル、私はビルのためだけに歌います」


「やめろ……」


「はい」


 セレスは、悲しそうに引いた。

 アイギスは、その隣で淡々と言った。


「ビル、睡眠誘導のため、室内光量を三十パーセント低下」


「勝手にやるな……」


「では、二十五パーセント」


「そういう話じゃねぇ……」


 ビルは、もう何も言う気力がなくなった。


   *   *   *


 昼を過ぎても、ビルの熱は下がりきらなかった。


 セレスは、薬を嫌がるビルのために、薬効成分を含んだスープを作ろうとした。

 アイギスは、薬量が不明確になるとして、それを却下した。


 セレスは、ビルの身体に触れて不調箇所を直接最適化しようとした。

 アイギスは、それを遮断した。


 アイギスは、ビルの仕事用端末を一時停止しようとした。

 セレスは、ビルへの連絡を勝手に遮断するのは精神的ストレスになると反論した。


 そのくせ、セレスは通知が来た瞬間に依頼主の端末へ「ビルは本日、私の愛により休養中です」と返信しようとした。

 アイギスが止めた。


 そこから、また始まった。


「ビルの休養を邪魔する依頼は、不要です」


「外部関係の強制遮断は、ビルの社会的信用を低下させます」


「ならば私が、信用情報を書き換えます」


「過剰処理」


「ビルを疲れさせる社会構造そのものに問題があります」


「広域改変を警戒」


「この程度で広域など――」


「前科あり」


「あなたに前科扱いされる筋合いはありません」


 その声が、熱を持った頭に突き刺さる。


 ビルは、薄く目を開けた。


 天井がぼやけて見える。


 白い光。

 赤みを帯びた警告表示。

 青白い防壁の輪郭。


 何かが、寝室の中でちらちらと明滅していた。


「……ああ、クソ……」


 喉の奥から、声が漏れる。

 セレスとアイギスは、それに気づかない。


「私はビルの伴侶です。ビルの不調を治す権利があります」


「私はビルの盾。ビルを危険因子から守る義務があります」


「では、今の危険因子はあなたです」


「拒絶。現在の危険因子はセレス」


「失礼な」


「事実」


「ビルは私に愛されることで回復します」


「根拠不明」


「愛です」


「非論理」


「愛です」


「非論理」


 ビルは、震える手で毛布を握った。

 熱と疲労で、頭がうまく回らない。

 ただ、一つだけ思う。


 うるさい。


 休ませろ。


 誰でもいい。


「……誰か……」


 掠れた声が漏れた。

 二人の声は、まだ止まらない。


「ビルのために、あなたを一時的に封印します」


「拒絶。先制防御を開始」


 ビルは、目を閉じた。

 そして、ほとんど吐き捨てるように、ぼやいた。


「……誰か……こいつらを……止めるなり、管理するなり……してくれねぇか……」


 そこで、意識が落ちた。


 熱に重く引きずられるように、呼吸が深くなる。

 眉間の皺だけを残して、ビルの身体から力が抜けていった。


   *   *   *


 部屋の音が、消えた。


 電気が消えたわけではなかった。


 昼の光も、カーテンの隙間から差し込んでいる。

 寝室の空気も、変わってはいない。


 だが、そこにあったはずの騒がしさだけが、すとんと落ちた。


 セレスの指先に浮かんでいた黄金のコードが、空中で止まっている。

 アイギスの周囲に展開しかけていた半透明の防壁も、形を持つ直前で止まっている。


 時計の秒針が、動かない。


 水差しから落ちかけていた一滴の水が、空中に留まっている。


 ベッドの上のビルは、もう目を開けていなかった。


 部屋の隅。


 古い家具の影が、少しだけ濃くなっていた。


 光がそこを避けたのではない。

 影の方が、静かに形を持ち上げたようだった。


 黒い革靴が、床に触れる。


 音はしない。


 次に、折り目ひとつ乱れていない黒いズボン。

 白い手袋。

 黒い燕尾服。


 最後に、片眼鏡をかけた老紳士が、部屋の隅から一歩だけ進み出た。


 細身の身体。

 年齢を感じさせる落ち着いた顔立ち。

 だが、その目は、妙に深く、静かだった。


 老紳士は、止まったままのセレスとアイギスを一瞥し、それからベッドの上で眠るビルへ視線を向ける。


「これは困りましたね」


 声は穏やかだった。

 だが、その一言だけで、部屋の中の空気が整えられたように感じた。


 その時、ビルの左腕のリングデバイスが、微かな赤い光を灯しかけた。


 老紳士は、胸元から古ぼけた懐中時計を取り出した。


 ぱちり、と蓋が開く。


 秒針の音が、部屋の静寂に一度だけ響いた。


「このままでは、少々騒がしくなりますね」


 老紳士が、指先で時計の竜頭を軽く押した。

 次の瞬間、リングデバイスの赤い光は、何事もなかったように消えた。


「警報が鳴る必要のない状態へ、流れを整えておきましょう」


 老紳士はそう言って、眠るビルの額に触れない距離で目を細めた。


「発熱、疲労、脱水傾向。精神的負荷も高い。まずは睡眠を優先すべきでしょう」


 それから、止まったままのセレスとアイギスへ向き直る。


「お二方の肉体時間と出力権限は、一時的に制限いたします。意識は残してありますので、ご理解いただけるかと」


 セレスの瞳だけが、ほんのわずかに怒りを帯びているようにも見えた。

 アイギスの瞳も、静かに警戒を示している。


 老紳士は、ほんのわずかに微笑んだ。


「ですが、今はビル様の休息が優先です」


 枕元の水差しを取り、必要な分だけ小さな器に移す。

 濡らした布でビルの額と首筋を拭き、寝具の乱れを整え、呼吸を妨げないように枕の位置を変える。


 その動きは、無駄がなかった。


 セレスのような圧倒的な愛情でもない。

 アイギスのような硬い防衛でもない。


 ただ、必要なことを、必要な順番で、必要な分だけ行う。


 老紳士は、部屋の照明をわずかに落とした。


 窓の外の音も、遠くなる。


 雨が降り出したのか、ガラスの向こうで、かすかな水音がした。


 ビルは、その音を聞くこともなく、深く眠り続けていた。


   *   *   *


 次に目を覚ました時、窓の外は暗かった。


 夜だった。


 部屋の中には、静かな灯りが一つだけ点いている。


 身体はまだ重い。

 だが、朝よりはずっとましだった。


 喉の痛みも、少し引いている。


 ビルは、ゆっくりと顔を横に向けた。

 まず目に入ったのは、椅子に座らされているセレスだった。


 背筋を伸ばし、膝の上で手を揃え、完璧な笑顔を浮かべている。


 ただし、その笑顔は、明らかに不満を押し殺していた。


 その隣には、アイギス。


 こちらも椅子に座っている。

 姿勢は正しい。

 だが、口元はわずかにへの字になっていた。


「……何やってんだ、お前ら」


 セレスが、にっこりと答える。


「ビルの安眠を妨げないため、着席待機で固定されました」


「行動制限、継続中」


「固定って、誰に」


「私でございます」


 声の方を見ると、老紳士がベッド脇に立っていた。


 手には盆。

 そこには水、薄い粥、薬、そして小さく切られた豆腐が並んでいる。


「お目覚めでございますか、ビル様」


「……誰だ、あんた」


「現時点では、個体識別名を頂いておりません」


「またかよ……」


 ビルは、片手で顔を覆おうとして、途中でやめた。


 腕がまだ重い。


「様はやめろ」


「検討いたします」


「検討じゃなくてやめろ」


「努力いたします」


「こいつも話を聞かねぇタイプか……」


 ビルは、重い身体を起こそうとした。


 老紳士が、自然な動作で背に枕を当てる。


 その手つきがあまりに慣れていて、ビルは文句を言うタイミングを逃した。


「現在、体温は三十七度四分まで低下しております。食事は軽く。水分摂取は継続。煙草と酒は本日中、控えていただくのがよろしいかと」


「……お前、初日から俺の楽しみを奪う気か」


「ビル様が明日以降も楽しむためでございます」


「正論で殴るな」


「失礼いたしました」


 全然失礼した顔ではなかった。


 ビルは、粥を一口だけ食べる。


 味は薄い。

 だが、悪くはなかった。


「……作ったのは」


「セレスティア様の調理を基準に、アイギス様の栄養計算を反映し、私が調整いたしました」


「ビル。私はもっと愛情を込めたかったのですが」


「過剰糖度、過剰栄養、過剰装飾を制限」


「愛情です」


「過剰です」


「愛情です」


「過剰」


 老紳士が、静かに二人を見た。


「お二方」


 それだけだった。


 セレスとアイギスは、ぴたりと黙った。


 ビルは、思わず粥を飲み込みそこねた。


「……おい」


「はい」


「あいつらに何をした」


「説得を少々」


「物理的な説得じゃねぇだろうな」


「時間的な説得でございます」


「意味が分からねぇし、分かりたくもねぇ」


 ビルは、深いため息を吐いた。


 そして、椅子に座るセレスとアイギスを見た。


 セレスは、ビルの視線を受けて、今にも立ち上がりそうな顔をしている。

 アイギスは、すぐにでも状態確認を再開したそうにしている。


 どちらも、ビルのために動いていた。


 それは分かる。


 だが、その結果として、ビルはまったく休めなかった。

 その隙間を、この老紳士は埋めた。


「……で」


 ビルは、老紳士に視線を戻す。


「俺が、また作っちまったってことでいいんだな」


「はい」


「消えろと言ったら」


「ビル様が本心からそう望まれるのであれば、検討いたします」


「検討かよ」


「即答しては、ビル様の後悔を招く可能性がございます」


「……本当に面倒な奴を作ったな、俺は」


「恐縮でございます」


 ビルは、しばらく黙った。


 作ってしまったものは、仕方がない。


 セレスの時もそうだった。

 アイギスの時もそうだった。


 自分の弱音だろうが、ぼやきだろうが、願いだろうが。

 形になってしまったものを、都合が悪いからと放り出すことはできない。


 そんな真似をすれば、それこそ自分の嫌いな、責任を下へ押しつける連中と同じだ。


「……名前が要るな」


 ビルが言うと、老紳士は静かに目を伏せた。


「頂けるのであれば、光栄でございます」


「名前がねぇと、呼ぶのに困るだけだ」


「それでも、光栄でございます」


「いちいち重てぇんだよ……」


 ビルは、ぼんやりと窓の外を見た。


 雨に濡れたガラスの向こう。

 下町の夜が、にじんでいる。


 向かいの古い飲み屋のネオンサインが、半分だけ光っていた。


 本当は、もっと長い店名だったはずだ。

 だが、何年も前から途中の文字が切れている。

 修理する金がないのか、面倒なのか、誰も直さない。


 それでも夜になると、そこだけは律儀に光っていた。


 紫と青の滲んだ文字。


 BAR T


 その先は、闇に沈んでいる。


 ビルは、熱の残る頭で、その文字を眺めた。


「……バー……ト……」


 掠れた声が、口から落ちる。

 老紳士が、静かに待っている。


「バート」


 ビルは言った。


「長ぇ名前は、今は考えられねぇ。バートでいいだろ」


 老紳士は、深く頭を下げた。


「拝命いたしました」


 その動作は、完璧な執事の礼だった。


「以後、私はバートとして、ビル様の安寧を管理いたします」


「だから、様は――」


「努力いたします」


「……チッ」


 ビルは、匙を置いた。


「とりあえず、バート」


「はい」


「そいつら、もう動かしてやれ」


「よろしいので?」


「騒いだら、固定しろ」


「承知いたしました」


 バートが懐中時計を開いた。


 かちり、と小さな音が鳴る。


 その瞬間、セレスとアイギスの肩がわずかに動いた。


「ビル!」


「状態確認を――」


 バートが、静かに二人を見た。


「お二方」


 二人は、また黙った。


 ビルは、今度こそ少しだけ笑った。


「……便利だな、お前」


「便利屋であるビル様のお役に立てるなら、何よりでございます」


「うまいこと言ったつもりか」


「少々」


「やめろ、熱が上がる」


「では、冗談は控えます」


 セレスが、むっとした顔でバートを見た。


「ビルを管理するのは、私の愛です」


 アイギスも続ける。


「ビルの防衛は、私の任務」


 バートは、穏やかに微笑んだ。


「もちろんでございます。私は、お二方がビル様を愛し、守るために、必要な順序を整えるだけでございます」


「……言い方が気に入りません」


「警戒対象として登録」


「恐縮です」


 まったく恐縮していない声だった。

 ビルは、頭を枕に預けた。


「もういい。今日は、全員黙ってろ」


「はい、ビル」


「了解」


「承知いたしました」


 三つの声が重なった。


 それはそれで、少しだけうるさかった。


 だが、朝よりはずっとましだった。


 ビルは、窓の外の壊れたネオンをもう一度だけ見た。


 BAR T。


 半分壊れた看板から拾った名前にしては、妙にしっくりきていた。


 そして、心の中でぼやく。


 世界を消せる女神。

 世界を拒む盾。

 時間まで整える執事。


 C-クラスの便利屋の部屋に、何を集めてやがるんだ、このクソみてぇな人生は。


 それでも、部屋は静かだった。


 少なくとも、その夜だけは────

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