Voyage 17 船長の資格
翌朝、ローザが来た。
朝食の途中で、ヴァーミリオン号から小舟が来た。ローザが一人で乗っていた。シーラビット号の甲板に上がって、たこまるの作った朝食を一口もらって、それから言った。
「リヴィア、今日、勝負をしない?」
「また?」
「また」
「星潮の海溝が近いのに、そんな時間ある?」
「今日は一日、海溝への入口手前で待機するしかない。入口の海流が乱れていて、夜になれば落ち着くとミルフィナが言っていた。時間はある」
「……何のための勝負?」
「あなたの確認のため」
「わたしの?」
「覚悟の確認」
ローザの声がいつもより真剣だった。
リヴィアは少し間を置いた。
「勝負の内容は?」
「簡単よ。先に降参した方が負け。内容は、言い合い」
「言い合い?」
「言葉の勝負。あたしがあなたに問いかけて、あなたが答える。答えられなくなったら、あなたの負け。あなたがあたしに問いかけてもいい。あたしが答えられなくなったら、あたしの負け」
「何のための勝負かを、もう少し説明して」
「明日、星潮の海溝に入る。そこで何が待っているか、分からない。オルカがいる。鍵が揃っているかも分からない。冠がどう応えるかも分からない。そういう場所に行く前に、あなたが自分の理由を持っているか確認したい」
「理由?」
「なぜ行くのか。何のために行くのか。それをあなたが自分で分かっているなら、どんな問いかけにも答えられる。分かっていないなら、答えられない。それが確認できればいい」
「もし答えられなかったら?」
「降参したことになる。でも、それはあなたの負けではなく、あなたがまだ準備できていないという意味になる」
「負けたら?」
「今日は海溝に入らない。明日以降、準備ができてから入る」
「時間が――」
「時間は確かにない。でも、準備のない状態で入っても意味がない。あなたはどう思う?」
ローザの質問に、リヴィアは黙った。
「やれ」
「たこまるが?」
「正しい問いかけだ。ローザが言っていることは、おれが昔から思っていたことと同じだ」
「何を思っていたの?」
「おまえが、伝説の娘として動いているのか、おまえ自身として動いているのか。それがずっと気になっていた」
「……どっちに見えてた?」
「最初は伝説の娘として動いていた。でも、この旅で変わってきた。今がどちらかを、おまえ自身が知っているかどうか、ローザが確認しようとしている」
「……やる」
「いい返事ね」
ローザが言った。
ミルフィナとネリネとピピとベルが、少し離れたところに座った。たこまるはリヴィアの肩の上にいた。
「始めるわ。リヴィア、あなたはなぜ星潮の冠を探しているの?」
「世界一の航海者として認められたいから」
「なぜ認められたいの?」
「シルヴェイル家の娘として生きるんじゃなく、リヴィア・シルヴェイルとして海を行きたいから」
「その違いは何?」
「シルヴェイル家の娘として生きるのは、両親の伝説を追うこと。リヴィア・シルヴェイルとして生きるのは、自分の航路を行くこと」
「自分の航路とは何?」
「自分が選んだ方向へ、自分の判断で進むこと」
「あなたはこの旅で、何度か他人の判断を借りた。たこまるの見立てを借りた。ローザの修正を受け入れた。それは、自分の航路ではないの?」
リヴィアは少し間を置いた。
「自分の航路を行くのは、全部一人でやることじゃない。判断を借りることも、修正を受け入れることも、全部わたしが選んだ。どの判断を借りるかも、どの修正を受け入れるかも、最後は自分で決めた。それが自分の航路よ」
「では、ミルフィナを乗せたのも、自分の判断?」
「自分の判断よ」
「なぜ乗せた?」
「最初は、なし崩し的だった。でも、乗せ続けると決めたのは、わたしよ」
「なぜ乗せ続けた?」
リヴィアが少し黙った。
「……役に立つから、という理由もある。人魚の力が必要な場面があった。でも、それだけじゃない」
「どうしてだけじゃないの?」
「ミルフィナが、ここにいたかったから。いたい場所にいる権利を、わたしが奪う理由がない」
「それは、ミルフィナのための判断?」
「ミルフィナのためでもあるし、わたしのためでもある」
「わたしのためとは?」
「ミルフィナがいた方が、この船が好きだから」
甲板が静かになった。
ローザが少し間を置いた。
「正直ね」
「答えが正直すぎたかしら」
「正直すぎることはない。続けるわ。あなたは今、何のために星潮の海溝に入ろうとしているの?」
「冠を守るため。オルカに壊させないため」
「冠を手に入れて、世界一の航海者になりたいわけではないの?」
「それは最初の理由。今は違う」
「いつ変わった?」
「……クラゲの島で壁画を見た時。人魚と人間が一緒に海を渡っていた時代の話を知った時。その時代を取り戻すことが、冠の本来の意味だと分かった時」
「取り戻すことが、あなたの目的になったの?」
「取り戻すかどうかは、冠が決めることよ。でも、壊させてはいけない。壊れれば、その可能性が永遠になくなる」
「可能性を守るために、行くの?」
「そうね」
「その可能性の中に、ミルフィナが自由に歌える海がある?」
リヴィアは少し悩んだ。
「……ある」
「それがあなたの、一番の理由?」
「一番かどうかは分からない。でも、大きな理由よ」
「なぜミルフィナが自由に歌える海を守りたいの?」
「ミルフィナの歌は、海を動かす。クラゲを動かした。クジラを止めた。セレナの追跡を振り切った。あの歌が、狭い王宮の中だけで使われるのは、もったいない。あの歌は、もっと広い海で聞かれるべきよ」
「それはあなたの判断?」
「わたしの判断よ」
「ミルフィナ自身の希望とは別に?」
「ミルフィナも同じことを思っていると、わたしは思っている。でも、それはミルフィナが決めることよ」
「矛盾しているように聞こえる。あなたがミルフィナのために動きながら、ミルフィナが決めることと言っている」
「矛盾していない。わたしがミルフィナのために動くのは、わたしの選択よ。ミルフィナに強制しているわけじゃない。ミルフィナが違う選択をしたら、わたしはそれを尊重する。わたしが動く理由は、わたしの中にある」
ローザが少し黙った。
「……最後に一つ」
「どうぞ」
「あなたは、船長として、全員をどこへ連れていくつもり?」
リヴィアは空を見た。
「目的地は星潮の海溝よ。その先は、状況次第。でも」
「でも?」
「その先も、わたしが船長でいる間は、この船はわたしが選んだ方向へ行く。乗組員が望む方向を聞きながら、最後はわたしが決める。それが船長の仕事よ」
「乗組員が望まない方向へ行くこともある?」
「ある。でも、その時はちゃんと説明する。なぜその方向へ行くのかを、言葉で伝える。黙って引っ張らない」
「昔のあなたは、黙って引っ張ろうとしていた?」
「……していた部分があった。船長だから全部背負わなきゃいけないと思っていた。でも、それは違うと分かった」
「いつ分かった?」
「たこまると喧嘩した時よ」
「その時、何を学んだ?」
「一人で全部やることと、船長として判断することは別、ということ。船長は判断する人間であって、全部一人でやる人間じゃない」
「では今のあなたは、判断する船長?」
「そうよ。少しずつ、なってきた」
「少しずつ、というのは?」
「まだ完璧じゃないから」
「完璧な船長になったら、星潮の海溝に入れるの?」
「完璧になる前に入る。完璧じゃないまま、判断する。それが今のわたしにできること」
リヴィアがそう言うと、ローザはしばらく黙っていた。
「合格」
「……何が?」
「少なくとも今の答えは、空裂きのシルヴェイルの娘の答えじゃないわ」
ローザは、少しだけ笑った。
「シーラビット号の船長、リヴィア・シルヴェイルの答えよ」
リヴィアは、すぐには言い返せなかった。
照れくさくて、悔しくて、でも少しだけ、胸の奥が軽くなった。
「……分かってるわよ」
「分かってない顔をしてる」
「うるさい」
長い沈黙があった。
波の音だけが、二隻の船の間を通り抜けていく。
先に息を吐いたのは、ローザだった。
「降参」
「え?」
「あたしの負け」
リヴィアはすぐには頷けなかった。
「……わたしが答えられなかった場面があった。ミルフィナをなぜ乗せ続けたか、少し詰まった」
「詰まったけど、答えた。降参はしなかった。それでいいわ」
「でも、答えの内容がよかったから?」
「そうね。それと」
ローザはリヴィアを見た。からかう色は、もうほとんどなかった。
「完璧じゃないまま判断する、というのが、今のあなたの言葉だったから」
「ローザが?」
「あたしは、準備が整ってから動く。でも、あなたは違う。動きながら、自分の形にしていく」
「……ローザにそう言われるとは思わなかった」
「あたしも言うとは思わなかった。でも、言いたかった」
そこで、たこまるが一歩前に出た。
小さな体なのに、その声だけは妙に重かった。
「ローザ。おれからも聞いていいか」
「どうぞ」
「おまえは、なぜこの旅に関わっている。星潮の冠が目的なら、リヴィアたちとここまで動く理由はない」
ローザは少しだけ黙った。
「観察していたわ」
「何を」
「リヴィアが、どういう船長になるかを。昔からの腐れ縁として、それを見たかった」
「それだけか」
「……もう一つある。あたし自身の話」
ローザは視線を海へ落とした。
「あたしは、強い船長として認められたくて、海賊をしている。実力で示してきた。でも、最近、それだけでいいのかと思っていた。何のために強くなるのか。そこに答えが欲しかった」
「リヴィアから、その答えを探していたか」
「探していた。見つかったかは、まだ分からない。でも、今日の言葉は参考になった」
「どの言葉が?」
「自分が動く理由は、自分の中にある。その言葉」
「おれも同意する」
その言葉を合図にしたように、ミルフィナが立ち上がった。
彼女はリヴィアの前に立ち、まっすぐに見つめた。
「リヴィアさん」
「……何」
「私は、あなたと同じ海を見たいです」
「……そうね」
「星潮の海溝の先も、その先も」
「一緒に見る」
「約束しますか」
「約束する」
ミルフィナは、ゆっくりと頷いた。
「では行きましょう。準備はできています」
「ローザとの勝負が終わったばかりよ」
「終わりました。リヴィアさんが答えました。だから、もう準備はできています」
リヴィアは少しだけ息を吸った。
まだ怖さはある。分からないこともある。完璧な答えを持っているわけでもない。
けれど、今ここで進む理由だけは、もう分かっていた。
「……そうね。できてる」
たこまるが、八本の足のうち一本をぴしりと上げた。
「ネリネ、今夜の入口の海流の状況を確認しろ。ミルフィナ、海溝周辺の流れを事前に読んでおけ。ピピ、大砲の準備。ベル、船体の最終確認。ローザ、ヴァーミリオン号の配置を話し合う」
「たこまる、指揮してる」
リヴィアが突っ込む。
「補助だ。指揮はおまえがする」
「ありがとう」
「礼を言うな。当然だ」
「当然でも言う」
「……勝手にしろ」
それから一日、準備をした。
ネリネが海流の変化を記録した。ミルフィナが星潮の海溝周辺の流れを歌で感じた。
ピピは磨き終えた大砲の砲身を叩いて、にっと笑った。
「いつでも撃てます! 船長が合図したら、空でも海でも道を開けます!」
「空は撃たなくていいから」
「じゃあ、必要なところだけ撃ちます!」
ベルは船腹に手を当て、板のきしみを確かめていた。
「……大丈夫。シーラビット号、まだ走れます」
その短い言葉で、リヴィアの胸の奥が少しだけ軽くなった。
ローザとリヴィアが、ヴァーミリオン号の配置と連携の手順を決めた。
夕方、全員で食事をした。たこまるが腕を振るった。ローザも一緒に食べた。
「おいしいです」
ミルフィナが笑みを浮かべた。
「当然だ」
「今日は、特においしいです」
「気合いが入っている」
「分かります」
「分かるか」
「はい。食事に、気持ちが出ます」
「……よく分かるな」
「たこまるさんのことを、少し知ってきたので」
「そうか」
たこまるは、それ以上は言わなかった。でも、足を少しだけ動かした。
夜になった。
星潮の海溝の入口手前で、シーラビット号が止まっていた。
リヴィアが操舵輪を握った。前を見た。暗い海の先に、さらに暗い場所がある。そこが、星潮の海溝だ。
「入るのは夜明けよ。今夜は休む。全員、寝られるなら寝て」
「船長は?」
ネリネが尋ねた。
「少しだけ、ここにいる」
「一人でいますか」
「たこまるがいる」
「……では」
ネリネが引いた。
たこまるが肩に乗ってきた。
「怖いか」
「怖い」
「それでいい」
「なんで?」
「怖くない者は、危険を軽く見ている。怖い者は、真剣に見ている」
「そうかな」
「そうだ。怖くて、それでも行く。それが今日のおまえの言葉だ」
「ローザとの言い合いで言ったこと?」
「そうだ。完璧じゃないまま判断する。怖くても行く。それがおまえの動き方だ」
「たこまるは、この旅でわたしが変わったと思う?」
「変わった。最初は、伝説の娘として動いていた。今は、リヴィア・シルヴェイルとして動いている」
「いつから変わった?」
「少しずつだ。ミルフィナが来てから、少しずつ」
「ミルフィナが来たから?」
「ミルフィナが来たことで、おまえは守る対象を持った。伝説を追うのではなく、守りたいものができた。守りたいものができると、人は変わる」
「……そうかもしれない」
「それがおまえの船長としての資格だ」
「資格?」
「守りたいものがあり、そのために判断する。それが船長の資格だ。おれが思う」
「難しいことを言う」
「簡単なことだ。守りたいものがある。だから行く。それだけだ」
ミルフィナが甲板に出てきた。毛布を羽織っていた。
「まだ起きていましたか」
「少しだけ」
「私も、眠れなくて」
「緊張してる?」
「しています。でも、落ち着いています。不思議です」
「緊張していても落ち着いてる、というのは、わたしも分かる気がする」
「なぜですか」
「行くと決めているから。決めたあとは、緊張していても落ち着いてる」
「そうです。その通りです」
二人で、暗い海を見た。
「明日、うまくいくかしら」
「分かりません。でも、全力を出せます」
「全力を出して、それでもダメな場合は?」
「その時は、その時に考えます」
「楽観的ね」
「そうですか? 現実的だと思っています」
「どう違うの」
「今から失敗したあとのことを考えるより、今できることを全力でする方が現実的です」
「……そうね」
「リヴィアさん」
「何」
「今日、ローザさんとの言い合いで、ミルフィナがいた方が船が好きだと言いましたね」
「……言った」
「聞いていました」
「聞こえてたのね」
「全部聞こえていました」
「恥ずかしい」
「なぜですか」
「思っていたことが全部出た」
「出てよかったです。私も、嬉しかったので」
「嬉しかった?」
「はい」
「また言うの、そういうこと」
「言います。本当のことだから」
「……そういうところよ」
「どういうところですか」
「あなたが、思ったことをそのまま言うところ。最初は慣れなかったけど、今は」
「今は?」
「好きよ」
リヴィアが、小さな声で言った。
ミルフィナが少し黙った。
「リヴィアさんも、言えるようになりましたね」
「練習したから」
「誰かの影響ですか」
「あなたの影響よ」
「そうですか」
「そうよ」
「では、私たちはお互いの影響を受けていますね」
「そうね」
「それが嬉しいです」
「わたしも」
たこまるが帽子の中から言った。
「おまえら、明日は早起きだ。いい加減寝ろ」
「分かってる」
「分かっているなら、今すぐ寝ろ」
「もう少しだけ」
「もう少しが長くなる。おまえらのもう少しは信用できない」
「うるさいわね」
「うるさくて結構。寝ろ」
「……じゃあ、寝る」
「私も」
二人で船室に向かった。
たこまるが操舵輪のそばに残った。一人で、暗い海を見た。
星が出ていた。星潮の海溝の方向に、少し多く星が見えた。気のせいかもしれない。
「明日だな」
たこまるが小さな声で呟いた。
波が返事をするように、シーラビット号を揺らした。
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