第5話
第五話 逃げ道を作れ
鉱殻蜥蜴が、ゆっくりと頭を上げた。
赤黒い目が、レンを捉える。低い体。太い尾。石を重ねたような鱗。呼吸に合わせて、喉の奥から岩を擦る音がした。
低層で見る魔物ではない。
レンは短剣を握ったまま、後ろへ下がる。
戦うな。
逃げ道を探せ。
右は細い横穴。さっき抜けてきた道だ。ゴブリンがまだいるかもしれない。左は水場。足を取られれば終わる。出口側は、鉱殻蜥蜴の突進で半分崩れている。
完全に詰んではいない。
けれど、一手間違えれば終わる。
「ルキ。あれを斬れるか」
「今の出力では無理だ」
返事は短かった。
ルキの声に、さっきまでの軽さがない。小さな悪魔も、目の前の魔物が危険だと理解している。
「なら逃げる」
「正しい」
レンは少しだけ驚いた。
止められると思っていた。悪魔らしく戦えと言われると思っていた。だが、ルキは鉱殻蜥蜴を見たまま続ける。
「ただし、背を向けるな。あれは動くものを追う」
「知ってる」
レンは喉を鳴らした。
知っている。鉱殻蜥蜴の名前だけは、講習で聞いたことがある。鉱石に似た鱗を持ち、低層の刃物ではほとんど通らない。動きは遅いが、突進だけは別だ。
まともに受ければ、骨ごと潰れる。
鉱殻蜥蜴が一歩進んだ。
床が鳴る。
レンは水場を見た。浅い貯水跡。苔が多く、底は見えない。人間には危ない場所だ。だが、重い魔物なら、もっと危ない。
「あそこへ誘導する」
「滑らせる気か」
「それしかない」
レンは足元の影を見た。
黒い影はまだ薄い。さっきの戦闘で、かなり消耗している。長くは使えない。囮にできるのは、一度か二度。
「短く出せるか」
「短くなら」
「十分だ」
それ以上は聞かなかった。
鉱殻蜥蜴が鼻先を上げる。舌が空気を舐めた。魔力に反応しているのか、レンの足元を見ている。
レンは影を前へ伸ばした。
黒い線が石床を這う。細く、頼りない。だが、鉱殻蜥蜴の目が動いた。
食いついた。
レンは影を右へ振る。魔物の頭が動く。次に、影を左へ流した。水場の方だ。
鉱殻蜥蜴が動いた。
予想より速い。
巨体が低く沈み、床を蹴る。石が砕けた。レンは横へ飛ぶ。だが、足場が濡れていた。靴底が滑り、肩から壁にぶつかる。
肺の空気が抜けた。
鉱殻蜥蜴の頭が、さっきまでレンのいた場所を潰す。
石片が頬をかすめた。
痛い。
怖い。
だが、止まるな。
レンは壁に手をつき、体を起こす。
「左へ寄れ」
ルキの声。
レンは反射で動いた。
次の瞬間、太い尾が右側の壁を叩いた。石が爆ぜる。もし一拍遅れていたら、胴を持っていかれていた。
背中に冷たい汗が流れた。
「助かった」
「まだだ」
ルキが低く言う。
鉱殻蜥蜴は、もう体勢を戻している。水場まであと少し。だが、誘導するには、もう一度こちらを狙わせる必要があった。
レンは周囲を探す。
壁際に、ひびの入った古い台座がある。照明石を支えていた跡だ。石材は脆い。崩せば床に散る。
足場を乱せる。
「影をあのひびに」
「やれ」
レンは短く息を吐き、影を伸ばした。
黒い線が床を走る。台座のひびへ潜り込む。指で糸を引くように意識する。頭の奥が熱くなった。
魔力が減っていく。
鉱殻蜥蜴が再び沈み込む。
来る。
レンは影を引いた。
台座が軋む。ひびが広がる。さらに力を込めた瞬間、石材が崩れた。大小の破片が床へ散る。
鉱殻蜥蜴が突進する。
前足が石片を踏んだ。
鱗には効かない。傷もつかない。だが、足元がわずかに乱れた。
その一瞬に、レンは影を水場へ滑らせる。
黒い囮が、濡れた苔の上を走った。
鉱殻蜥蜴が追う。
前足が水に入った。
重い体が沈む。苔に足を取られ、巨体が傾いた。水しぶきが上がる。尾が暴れ、貯水室の壁を叩く。
レンは膝をついた。
息が荒い。視界が揺れる。影を出しすぎた。右腕の痺れが、肩まで上がっている。
「今だ。出口へ」
ルキが叫ぶ。
レンは立とうとした。
足が動かない。
魔力切れだ。体の芯が空になったような感覚がある。
「くそ……」
鉱殻蜥蜴は水場でもがいている。完全には落ちていない。少し時間が稼げただけだ。
出口側の崩れた通路までは、まだ遠い。
レンは短剣を杖にして立つ。
その時、背後の横穴から咳が聞こえた。
ゴブリン。
手負いの二匹が、まだ追ってきていた。苔の粉で咳き込みながらも、短刀を握っている。
レンは笑いそうになった。
笑えない。
本当に最悪だ。
前には鉱殻蜥蜴。
後ろにはゴブリン。
自分は魔力切れ寸前。
けれど、まだ使えるものが増えた。
ゴブリンはレンしか見ていない。
鉱殻蜥蜴は動くものに反応する。
水場は、足場が悪い。
レンはゆっくり後ろへ下がった。
「ゴブリンを使う」
「性格が悪いな」
「今だけ褒め言葉に聞こえる」
レンは鉱殻蜥蜴の近くへ寄る。
近すぎる。
尾が届けば終わる。前足が動けば潰される。水場の泥が靴に絡んだ。
ゴブリンが走ってきた。
レンは待つ。
胃が縮む。足が震える。逃げたい。今すぐ横に飛びたい。
だが、まだ早い。
ゴブリンの短刀が届く直前、レンは横へ転がった。
短刀が空を切る。
勢い余ったゴブリンが、鉱殻蜥蜴の横腹にぶつかった。
次の瞬間、鉱殻蜥蜴が吠えた。
太い尾が水を裂く。ゴブリン二匹がまとめて弾き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
骨の折れる音がした。
レンはその音を聞かないふりをした。
走る。
いや、走るというより、崩れた通路へ倒れ込む。石の隙間に肩を押し込み、体を滑らせる。
背後で鉱殻蜥蜴が向きを変えた。
遅い。
だが、十分に怖い。
太い尾が崩れた石に叩きつけられた。通路がさらに崩れる。石がレンの足首に当たった。
「っ……!」
痛みで目の奥が白くなる。
それでも、止まれない。
「影を出せ」
ルキの声が飛ぶ。
「もう、出ない」
「少しでもでいい!」
レンは歯を食いしばった。
足元の影に意識を落とす。ほとんど残っていない。黒い線が、かすれるように伸びた。
前方の石へ引っかける。
引く。
体が、ほんの少しだけ前へ進んだ。
その一歩で、崩落の外へ抜けた。
直後、背後の通路が完全に落ちる。
石の向こうから、鉱殻蜥蜴の咆哮が響いた。
レンは床に倒れた。
肺が痛い。足首も痛む。右腕は痺れている。魔力はほとんど残っていない。
それでも、生きている。
「……逃げ切った」
ルキが影から顔を出した。
小さな悪魔は、いつものように胸を張らなかった。少しだけ、レンを見ていた。
「勝ってはおらぬな」
「分かってる」
「逃げただけだ」
「それでいい」
レンは荒い息のまま、天井を見上げる。
低層にいていい魔物ではなかった。倒せる相手ではなかった。素材も取れない。何も格好よくない。
けれど、帰れる。
帰れるなら、次がある。
レンはゆっくり体を起こした。
足元の石の間で、何かが鈍く光っている。手を伸ばすと、硬い鱗片だった。鉱殻蜥蜴の鱗の一部らしい。崩落で削れ落ちたのだろう。
小さい。
だが、重い。
「売れるか」
ルキが聞いた。
「売れる」
レンは袋に入れた。
「逃げただけじゃなかったな」
ルキが鼻を鳴らす。
「ならば供物だ」
「治療費と修理費が先」
「契約者よ、悪魔の優先順位を学べ」
「お前が人間の家計を学べ」
軽く返したつもりだった。
だが、声はまだ震えていた。
レンは壁に手をつき、出口へ向かう。
「帰るぞ、ルキ」
「命令か?」
「助言だ」
「従う義務はないな」
「じゃあ置いていく」
「待て、契約者」
小さな悪魔が、慌ててレンの影へ飛び込んだ。
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