11.いい加減にしなさい

数日後。


「今日もよろしくお願いします」


施術ルームに入ってきた山口さんは、いつものように笑っていた。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


私も笑顔で返す。

でも胸の奥は、少しだけ落ち着かなかった。


(ちゃんと伝えなきゃ)


もし断られたら。

もし「やっぱりやめます」と言われたら。

そんな不安が、頭の片隅にずっとあった。

施術が始まり、空気が落ち着いてきた頃。

私は呼吸を整えてから、そっと口を開いた。


「あの……この前のお話なんですが」


「はい?」


「家族に相談したところ、もしよろしければ……その猫ちゃん、うちでお迎えしようかという話になりました」


一瞬、沈黙。

次の瞬間だった。


「えっ、本当に!?それは助かるわぁ!」


山口さんの声がぱっと明るくなる。

その反応に、私は少しだけ息を呑んだ。

あまりにも――軽かった。


「やっと肩の荷が下りるって感じよ〜。もうね、あの子がいるだけでストレスだったから!あぁ、これでやっと楽になれるわ。本当にありがとうね!」


(……違うでしょ。“楽になる”ために手放すの?)


言いたかった。

でも言えなかった。

私はただ、黙って施術を続けるしかなかった。

プロとして。

接客業として。

けれど心の中では、小さな怒りが静かに積もっていった。





そして数日後


その日は、朝からどこか落ち着かなかった。

リビングには新しく用意した猫用の食器。

小さなトイレ。

ふわふわの毛布。

陸斗なんて、朝から何度も窓の外を確認していた。


「まだかな」


「陸斗、落ち着いて」


「だって気になるじゃん」


そんな会話をしているうちに、インターホンが鳴った。


ピンポーン――。

私はドアを開けると、山口さんがキャリーバッグを持って立っていた。


「こんにちは」


「……どうぞ」


私は静かに迎え入れる。

リビングには静江さんと陸斗。


「初めまして」


静江さんが落ち着いて頭を下げた。


「どうもぉ」


山口さんは軽く会釈を返す。

その手元にあるキャリーバッグ。

私は自然と視線を向けた。

中に、小さな影が見える。

その瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。


(この子が……)


キャリーの隅で、小さく丸くなっている。

怯えているのか、ほとんど動かない。


「もう本当、大変だったんですよ。この子」


山口さんがため息混じりに言った。


「暴れるし、言うこと聞かないし。ケージから出すとすぐどっか行くし」


まるで、“困った物”の話をするような口調。


「ご飯もちゃんとあげても全然落ち着かないし、ほんと手がかかる子で、もう疲れちゃって」


私は無意識に拳を握っていた。

けれど山口さんは気づかない。


「だから、こうして引き取ってもらえて本当助かります!やっと清々するって感じ!」


その瞬間。

部屋の空気が変わった。


「――いい加減になさい」


私ははっと顔を上げる。

静江さんだった。


「……え?」


山口さんが戸惑ったように目を瞬かせる。

静江さんは、まっすぐ山口さんを見ていた。


「さっきから聞いていれば…悪い子。手がかかる。清々する……あなたは、その子を何だと思っているの?」


一つ一つ、確かめるように言葉を置く。

山口さんの笑顔が固まった。


「え、いや……だって本当に大変で!」


「大変なのは当然でしょう?…その子は命なのよ」


私は息を呑んだ。

静江さんが、こんなふうに感情を露わにするのを初めて見た気がした。


「いい? 命というのはね“都合”で手放すものじゃないの」


山口さんの顔色が変わる。


「人間も動物も、生きているというだけで素晴らしいのよ。あなたは今、その大切な命を、自分の都合で邪魔者扱いしている」


「そんなつもりじゃ……」


「もう一つ言うわ。良い子、悪い子で命の価値を決めるなんて、あまりにも身勝手よ」


山口さんの視線が揺れる。


「その子は、あなたに選ばれて来たわけじゃない。あなたたちが、連れてきたのよ。ならば最後まで向き合う。それが本来の責任でしょう」


山口さんは何も言い返せなかった。ただ黙っている。

さっきまでの軽い空気は、もうどこにもなかった。

そして静江さんは、キャリーバッグへ視線を向けた。


「この子は、今日からうちで責任を持ってお世話します。そしてあなたは…"一つの命を捨てた"。その事実を、一生忘れずに生きなさい。それが、あなたにできる最後の責任よ」


山口さんはただ気まずそうに目を逸らし、小さな声で呟く。そして俯いたまま言った。


「……すみませんでした。この子をよろしくお願いします」


そのまま足早に帰っていく。

玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

静かになった部屋で、私はそっとキャリーバッグへ近づいた。


「大丈夫だよ」


小さく声をかける。

中では、小さな命が不安そうに身を縮めている。

私はゆっくり指先を近づけた。


「もう、大丈夫。これからは、ちゃんと幸せにするからね」


その瞬間。

小さな猫が、震えながらも少しだけこちらを見上げた。


――その日から。



私たち家族の生活は、大きく変わり始めた。

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