第9話 「木村さんですね」

 初出勤の朝。理子は緊張していた。

 三十分前に準備は終えていたが、なかなか立ち上がれなかった。


 弘明が起きてきていた。

「おはよう」

「おはよう。コーヒーを淹れようか?」

 理子は立ち上がった。


「ありがとう。でも理子、今日から仕事だろ?」

「そう、ちょっと緊張気味だからコーヒーを飲んで落ち着かせていたの」

「時間、大丈夫?」

「八時からだから……」

 家から三十分もあれば着く。

 現在七時十五分。弘明にコーヒーぐらいだったら淹れてあげられる。

 緊張に押しつぶされそうだったので出掛けるギリギリまで何かしていたかった。


「だったら行かなくちゃ」

「え?」

 理子はもう一度時計を見て計算してみた。

 大丈夫だと思った。


「学生のバイトじゃあないのだから、常に五分前行動、初日は早めに行って待っているくらいでないと」

「嘘、そんなの知らない」

「社会人の常識」

「えー、じゃあ、ヤバイ、行かなくちゃ」

 理子は慌てて立ち上がり、小走りに玄関に向かった。

 

「行ってきます」

「忘れ物は無い?」

「うん、昨日から何度も確認している」

「道路は気を付けてね」

「うん」

「帰りは雨かもしれないよ」

「大丈夫、折りたたみ傘持っている……」

 理子は思わず笑ってしまった。


「どうしたの?」

「だって、こんなの初めてだから」

「いつもと逆だよね」

 弘明も笑顔で言った。


 視界に入る景色も違っていた。

 前までは弘明の背景はドアで今はリビングへ続く廊下。

 それは清新だった。


「うん」

 笑ったら少しだけ気持ちが軽くなった。


「じゃあ、気を付けていってらっしゃい」

「はーい。行ってきます」

 掛け合う言葉も逆だった。


 理子はドアを開けた。

 差し込んだ光がいつもより明るく感じた。

 

 足を速めたので二十分前に工場へ着いた。

 少し走っただけなのに、もう一日分の体力を使った気がした。

 これから初仕事だというのに最後まで体力が持つか心配になる。


 面接時に指定された応接室に入りソファーに座った。

 すると息を整える間もなく面接を行った人事の人が入室してきた。

 ――弘明の助言を聞いておいて良かった。

 家を早く出ていなければ、この人を待たせてしまい、気まずかったかもしれないと理子は思った。

 

「木村さんですね」

 人事の人が言った。

 理子は一瞬きょとんとしてしまった。

 自分のことだった。

 木村とは理子の旧姓。

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