第10話 魔石鑑定士メル、泥を嫌がる
北門を出ると、土の匂いが濃くなった。
昨日までと同じ道のはずだった。けれど、道の端に残った泥が、まだ乾いていない。
雨が降ったわけではない。朝露だけでもない。踏まれた跡の底だけが、暗く湿っていた。
リオはしゃがんだ。指で触れようとして、やめる。腰の布を一枚出し、道端の泥だけをすくった。少し離れた足跡の泥には、別の布を使う。
「分けるのか」
ラウルが言った。
「場所が違います」
「泥だろ」
「同じかどうか、まだ分かりません」
リオは布をたたみ、紐で縛った。
「どこの泥か分かるように、印をつけてもいいですか」
「なら、結び目で分けろ。あとでミナに札を書いてもらえ」
「はい」
リオは結び目をひとつ作り、布包みを懐にしまった。
低地と呼ばれてはいるが、広い土地ではなかった。北門から森へ向かう道の脇が、皿のように浅くへこんでいる。中央には黒いぬかるみが残り、縁には背の低い草が生えていた。そのすぐ外側には、膝ほどの茂みが続いている。中央が、ひどく荒れていた。土が掘り返され、草が倒れ、枝が折れている。小牙猪が六体いたにしては、狭い。住みついていた場所というより、どこかから押し込まれて、足を取られた場所に見えた。
「巣じゃねえな」
ラウルが言った。
「はい」
「ここで寝てた跡がない」
リオは膝をついた。土の窪みに、短く硬い毛が残っている。小牙猪のものだろう。
毛の根元には、土とは違うざらつきが絡んでいた。灰ではない。砂でもない。布でつまむと、毛だけが取れず、細かなものが布目に残った。リオは毛を別の布に包んだ。
「それも持って帰るのか」
「はい」
「何か分かるのか」
「分かりません」
ラウルは笑わなかった。
低地の中では、小牙猪の足跡が何度も乱れていた。来た跡は濃い。奥へ戻る跡は、薄い。戻らなかった、というより。戻れなかったように見えた。
「……嫌な跡だな」
ラウルが低く言った。リオは低地の縁へ回った。
端に、細い跡が残っている。小牙猪より小さい。爪の跡は浅いのに、ところどころ妙に深く沈んでいた。
「小牙猪じゃねえ」
ラウルが先に言った。
「小物の魔獣だ。けど、妙だな」
「何がですか」
「散ってねえ」
ラウルは低地の縁を指した。
「すぐ横に草むらがある。小物ならそこへ逃げる。なのに、跡が縁に沿って同じ向きに続いてる」
リオは足跡の先を見た。
細い跡は、茂みへ逃げ込まず、低地の縁をなぞるように続いていた。追われて散った跡ではない。何かを避けながら、同じ方へ押し流されたような跡だった。
「こいつらも、奥から来たんでしょうか」
「分からん」
ラウルは森の奥を見た。
「だが、普通の逃げ方じゃねえ」
森の奥で、鳥が鳴いていなかった。ラウルもそこで黙った。
「……昨日は、もう少し鳴いてたな」
リオは足跡の端の泥を取った。結び目を三つ。低地の中央の泥は、結び目を二つ。布包みが増えるたび、ラウルは見ていた。
「帰ったら、低地の説明は俺がする。お前は、見たものだけ言え」
ラウルはそう言って、北門の方へ歩き出した。ギルドへ戻る道は、行きより長く感じた。
北門をくぐると、町の音が戻ってくる。荷車の車輪。遠くの鍋の音。工房から聞こえる金属音。受付で誰かが文句を言う声。いつもの辺境ギルドだった。でも、受付の札は閉じられていなかった。
討伐完了の札の横に、細い札が一枚増えている。
北門低地異常確認。
その下に、ミナの字で、泥、毛、足跡、灰、と書かれていた。
「おかえり」
ミナが顔を上げた。
「持ち帰ったものは?」
「泥が三つ、毛が一つ」
リオは机の上に布包みを並べた。
「結び目一つは道端。二つが低地。三つが足跡の端。毛は奥側です」
「ミナ、札」
「分かった」
「毛はどこで?」
「低地の奥側です」
ミナは札に、泥の場所を三つに分けて書き足した。
布包みを手元へ寄せかけ、指を止めた。
「泥はメル。毛と足跡はグレン。低地はラウル」
「ああ」
「炉室の灰は、ボルグさんに持ってきてもらう。泥と並べて見る」
食堂の方では、リッカが湯気の残る椀を運んでいた。
炉室から、ボルグが出てきた。手には浅い皿が二つある。
「エダが分けて残してた」
片方には、いつもの軽い灰。もう片方には、灰受けの端に残っていた、重い細かなもの。ボルグは皿を机に置いた。
指で灰を押さえる。潰さない。爪の先で、少しだけ寄せた。
「熱の立ちはある。だが、座りが悪い。夜も、今朝もだ」
リオは炉室の方を見た。壁の向こうで、辺境炉が低く鳴っている。聞き慣れた音。けれど、低地の泥を見た後では、同じ音に聞こえなかった。
ミナが札に、メルの名を書き足した。
その時、入口の戸が開いた。灰色がかった髪の少女が、眠そうな目で中をのぞいた。片手には小さな革鞄。もう片方の手には、手袋がぶら下がっている。
「呼んだ?」
「呼んだわ。見てほしいものがある」
眠たげな目から、眠気だけが消えた。メルは手袋をはめた。布包みの結び目を順に見る。
「場所ごとに分けてあるんだね」
それだけ言って、最初の布を開いた。
道端の泥。低地の真ん中の泥。足跡の端の泥。小牙猪の毛。メルは順番に布を開いていく。匂いは嗅がない。指で押しつぶさない。布の端をつまみ、光にかざす。最後に、ボルグが持ってきた灰皿を見た。そこで、メルの眉が寄った。
「これ、炉の灰?」
「ああ」
「いつの?」
「夜明け前だ。エダが分けた」
「昨日の灰は?」
「ある。灰の状態で分けてある」
ボルグは灰皿を見た。
「リオ。……分けとけって言っといて、正解だったかもな」
メルは低地の泥を、違う灰の横へ置いた。混ぜずに、並べる。しばらく見てから、針の先を灰の端に置いた。
「こっちが近い」
「泥じゃなくてか」
ラウルが言った。
「泥じゃない」
メルは灰を見たまま答えた。
「灰の残り方に近い」
ミナの筆が止まった。ボルグが灰かき棒を握り直す。ラウルは口を閉じた。
「魔石粉なの?」
ミナが聞いた。
「違う」
メルはすぐに答えた。
「じゃあ、土?」
「土だけなら、こんな残り方しない」
メルは低地の泥を見た。
「魔石と関係あるのか」
ラウルが聞いた。
「関係ないとは言わない」
「どっちだ」
「石そのものじゃない」
メルは布の端をつまむ。
「でも、石の力が荒く抜けた後に似てる」
その指先が、布目に残った薄い跡で止まった。
「抜けた後なのに、まだ残ってる」
工房の方から、ザックが出てきた。
手には、セラの左靴を持っている。
「右はいま直してる。こっちの泥は落としてねえ」
「貸して」
メルが言った。
ザックは靴を渡した。メルは靴底だけを見る。左靴の底は、右ほど荒れていなかった。けれど、溝に残った泥の中に、同じ細かなざらつきがあった。
低地の泥。炉の灰。セラの左靴。メルは、針の先を灰の端に戻した。
「同じものなの?」
ミナが聞いた。
メルはすぐには答えなかった。灰と泥を、交互に見る。それから、針の先を置く。
「同じとは言わない」
リオは、その言い方に引っかかった。否定ではない。断定でもない。無理に名前をつけない言い方だった。
「でも」
メルは、左靴の泥を見た。
「似てる」
ミナは札を四つに分けた。
「炉、石、靴、北門」
リオは、机の上の布包みに目を落とした。
ボルグが灰皿を持つ。メルが泥の布包みを取る。ザックが靴を抱える。ラウルが北門の札を持つ。メルは泥の布包みを見たまま、しばらく黙っていた。
「普通の粉も見たい」
「普通の粉?」
ミナが聞く。
「魔石を削った時の粉。あと、いつもの灰」
ボルグが炉室へ戻り、小さな皿を一つ持ってきた。皿の上には、細かな粉が少しだけ乗っている。
「今日の補充分を削った時のやつだ」
メルは低地の泥から落ちた粉と、皿の粉を並べた。
「似てるのか?」
ラウルが聞いた。
「似てるところはある」
メルは答えた。
「でも、同じじゃない」
「何が違う」
「石の粉は、石の顔をしてる」
誰もすぐには返せなかった。
メルは低地の泥を指した。
「こっちのは、炉に入れてないのに、石の力が抜けた後みたいな顔をしてる」
「それは、どういうこと?」
ミナが聞いた。
「分からない」
メルは即答した。
「だから、嫌」
ミナは新しい札を取った。
泥の粉、メル預かり。
そう書いて、布包みの横に置いた。
メルは灰の皿を見た。
「一昨日の灰は?」
ボルグの顔から、ほんの少しだけ色が消えた。
「あるが、灰の状態で分けてねえ」
メルは少しだけ眉を寄せた。
炉室の奥で、辺境炉が低く鳴った。ごう、ではない。こつ、とも違う。低く、腹の底で何かが噛んだような音。いつもの音だった。たぶん、いつもの音だった。けれど、リオには一拍だけ遅れて聞こえた。
メルは灰の皿から目を離さない。
「昨日の灰、全部見る」
その声は小さかった。
「いつものも、違うやつも」
ミナの筆が、札の上で止まった。
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