第31話 前途多難です。

 やがて馬車は、町の中央から少し外れた石造りの建物の前で止まった。


 かつてヴァレーヌを治めていた領主家の屋敷である。領地が王家の直轄となった後は、代官所として使われてきた。

 実家の公爵邸と比べるまでもなく、ずいぶんこぢんまりした建物で、これからはレティシアの領主館になる予定だ。


 二階建ての本棟に、小さな脇棟と厩舎が付いている。応接室や食堂、執務室といった必要な部屋は一通り揃っているらしいが、王都の裕福な商人の邸宅と比べても特別大きいとは言えなかった。


 もっとも、小さいことと粗末であることは別だ。

 さすがは領主館を担っていただけあり、壁は厚い石造りだし、玄関や窓枠には古いながらも丁寧な装飾が残っている。


 この小領地の領主館として、往時には相応の体裁を備えていたのだろう。ただし、近くで見れば、やはり過ぎ去った年月までは隠せない。

 外壁には細かなひびが入り、窓枠はところどころ歪んでいる。屋根には色の違う補修材が何枚も継ぎ足されていた。



 その様子を眺めるレティシアに続いて、後方の馬車から一人の男性が降りてくる。


 オスカー・ボレル。三十二歳。


 グランシエール公爵家の執事長ロラン・ボレルの息子であり、これからヴァレーヌ領主家の家令兼執事を務める人物だ。

 長年、父のもとで執事補佐を務めてきたため、屋敷の運営に必要な実務は一通り身につけている。


 オスカーは玄関へ向かうより先に、屋根、煙突、外壁、窓の順へ視線を走らせた。

 レティシアが尋ねる。


「いかがですか、オスカー」


「屋根は確認が必要でしょう。窓枠も数か所、交換した方がよさそうです。井戸と厨房を確認した後に、明朝から職人を探します」


「まだ中にも入っておりませんわよ」


「外から分かる問題は、先に押さえておくべきかと」


 父親ほど老練な貫禄はないが、それでも目の前の問題を一つずつ拾い上げていく手際には、ロランの息子らしさが感じられた。


〈新任執事有能〉

〈ロランの息子なら安心感ある〉

〈到着三十秒で修繕見積もり〉

〈この人も苦労しそう〉


 まあ、間違いなく苦労するだろう。

 今回の着任を前世に例えるなら、万年赤字の子会社を立て直すために、新しい経営陣が送り込まれたようなものだ。


 もちろん代表取締役社長は私。そしてオスカーは、本社管理部の次長から現地の管理本部長兼秘書室長兼総務部長へ昇進した、といったところか。


 それにしても肩書が長い。長すぎる。舌を噛みそう。

 



 玄関前には、代官所の職員と使用人たちが並んでいた。

 新しくヴァレーヌを治めることになった人物が、グランシエール公爵家の令嬢であることは彼らも知っている。

 もちろん年齢が十八歳であることも。


 それでも、知識として知っているのと実際に目の当たりにしたのでは、まるで印象が違ったらしい。

 アリスの手を借り、馬車から降りたレティシアを見た者たちの間にどよめきが走った。


 若い。


 彼らが想像していた以上に、ずっと若かった。

 整った顔立ちに美しく仕立てられた衣装。立ち居振る舞いには公爵令嬢としての品格があり、隙なく施された化粧によって実年齢よりもずっと大人びて見えた。


 それでも、どこからどう見ても美しい年頃の娘である。


 その場にいた者たちは、誰もが目を奪われた。しかし、感嘆のあとに浮かんだのは戸惑いだった。


 あまりに、いかにもなお嬢様なのだ。


 泥にまみれた街道も、国境の揉め事も、赤字の出納帳も知らずに育ったような少女が、本当にこの領地を治められるのか。


 誰も口には出さないが、向けられる視線には、そんな疑問がありありと滲んでいた。


〈ガン見されてて草〉

〈そりゃ十八歳の美少女領主が来たら驚くわ〉

〈俺だって見るわ。なんなら視姦する〉

〈おまわりさん、こいつです〉

〈思った以上にお嬢様だった件〉

〈これ絶対統治能力疑われてるだろ〉


 失礼な。


 ……と言いたいところだが、彼らの気持ちも分からなくはない。


 見た目だけなら、私はどう考えても荒れ果てた国境領を再建しに来た経営者ではない。茶会へ向かう途中で道を間違えた公爵令嬢にしか見えないだろう。

 まずは結果で納得してもらうしかなかった。


 

 固まる領主邸の者たち。

 その中央に立っていた中年男性が、ややあってから気を取り直して一歩前へ進み出た。


「失礼しました、ヴァレーヌ女伯爵閣下。ご着任を、心よりお待ち申し上げておりました」


 中肉中背。茶色い髪をきちんと撫でつけ、地味ながらも清潔な官服を身につけている。しかし顔立ちも服装も、驚くほど特徴がない。

 王都の官庁に十人並んでいたなら、翌日には誰が誰だったか分からなくなりそうな人物だった。


 ただし、その表情だけは非常に分かりやすい。


 満面の笑みである。


〈めっちゃ嬉しそう〉

〈心からの笑顔〉

〈歓迎されてるじゃん〉

〈いやこれ違うだろ〉

〈絶対帰れるの喜んでるだけ〉


 レティシアは背筋を伸ばして男の前へ立った。


「レティシア・グランシエールです。代官殿ですね?」


「はい。王家よりヴァレーヌの管理を任されております、ラルフ・エルマンでございます」


「ずいぶん長くお待たせしてしまったようですわね」


 レティシアが微笑みながら探りを入れる。ラルフの笑顔が一瞬だけ固まった。否定すべきか、正直に認めるべきか迷ったらしい。

 やがて彼は観念したように頭を下げた。


「はい。正直に申し上げれば、心より安堵しております」


〈やっぱりw〉

〈認めたw〉

〈正直者で草〉

〈今日は解放記念日〉


「三年間、お疲れさまでした」


「恐れ入ります」


 ラルフの声には、隠しようのない喜びがにじんでいた。


 聞けば、王都には妻と四歳になる娘がいるらしい。

 ラルフがヴァレーヌへ赴任したとき、娘はまだ一歳だった。年に一度ほど休暇で王都へ戻っていたものの、家族と過ごせる時間はごくわずかだったという。


「娘は、私の顔を覚えていると妻は申しておりますが……」


「それは、早く戻って差し上げなければなりませんわね」


 事情が事情である。レティシアとしても責める気にはなれなかった。むしろ、三年もよく勤めたものだと思う。


「正式な引き継ぎには二日ほど頂戴したく存じます。必要な資料は、すでにまとめてございますので」


「かしこまりました。よろしくお願いいたします」


 引き継ぎだけは随分と準備がいい。おそらくは、王都へ戻った後に問い合わせを受けたり、資料不足を理由に呼び戻されたりしないためだろう。


 前世であれば、携帯を着信拒否にしとけば逃げられただろうが、ここではそうもいかない。一度呼び出されれば、往復で十日は娘に会えなくなる。


〈引き継ぎ資料完璧そう〉

〈絶対に戻ってきたくないマン〉

〈動機はともかく有能〉

〈難癖つけて呼び戻してやろうぜ〉


 やめて差し上げろ。刺されるぞ。



「長旅でお疲れでしょう。まずは屋敷の中をご案内いたします」


 ラルフに促され、レティシアたちは玄関をくぐった。

 

 広間は小さいながらも、きれいに掃除されていた。調度品も最低限は揃っているが、壁紙は色褪せ、床板は歩くたびに小さく軋む。

 廊下の天井には大きな雨染みが広がっており、なぜか壁際には木桶がいくつも重ねられていた。


 レティシアが視線を向けると、ラルフは気まずそうに咳払いした。


「これは……雨天の際に使用するものでございます」


「……何に使用するのかは、お聞きしない方がよさそうですわね」


「ご賢察、痛み入ります」


 つまり、雨漏りである。


〈雨漏り標準装備〉

〈桶の数に不穏しかない〉

〈飲み水ゲット〉

〈沸かせばワンチャンいける〉


 いや、飲むなよ。


 オスカーはラルフから屋敷の鍵と使用人名簿を受け取ると、すぐに現地の使用人へ確認を始めた。


「井戸は現在も使用できますか」


「はい。水量にも問題はございません」


「厨房のかまどと煙突は?」


「かまどは使えますが、煙突は一部詰まりがございます」


「では明日、清掃しましょう。今夜は小さいかまどだけを使用してください」


「承知いたしました」



 その横では、クララが女性使用人たちを集めていた。


 クララは三人の侍女の中では最年長だ。そのため、今回の赴任にあたってはヴァレーヌ領主館の侍女頭を任されていた。


「使用できる寝室と、使用できない寝室を分けてください」


 現地の女中たちへ、無表情かつ平坦な声で指示を出す。


「掃除は領主様の寝室と食堂から始めてください。客間は後で構いません。それが終わり次第、井戸と厨房の確認を」


 決して声を荒らげてはいない。むしろ淡々としている。それなのに使用人たちは一斉に動き始めた。


〈侍女頭クララ爆誕〉

〈無表情で淡々と言われると逆らえない〉

〈仕事できる無表情キャラ〉

〈こう見えて恋人いるんだぜ……〉


 オスカーが領主館全体を管理し、クララが館内の女性使用人をまとめる。二人とも口数が少ないため、相談らしい相談をしているようには見えなかった。


「寝室は二階の南側を使用します」


「窓が完全には閉まりません」


「板で覆いを。隙間は布を詰めて。今夜だけ風を防げれば結構です」


「承知しました」


 短いやり取りだけで、必要な情報は伝わっているらしい。


〈業務連絡短すぎw〉

〈仕事できる人同士の会話感〉

〈もうこの二人だけでいいんじゃね?〉

〈じゃあアレットたんは僕がもらう〉


 あげません。アレットは貴重な癒し枠です。


 というより、彼女は行儀見習いとして子爵家から預かっている令嬢であって、ただの使用人ではない。いずれは相応しい嫁ぎ先を紹介して送り出してあげるべき娘だ。

 どこの誰ともわからない馬の骨に、あげられるわけがないだろう。


 それはアリスも同じだ。まあ、クララだけは自分で相手を見つけたが。



 そのアレットは掃除道具の確認へ向かい、アリスはレティシアの荷物を運ぶ場所についてクララと相談を始めた。


 少し遅れて厨房を見に行ったリオネルが戻ってきた。


「調理器具は古いですが、使えないほどではありません。なお、今夜の食事はすでに用意されておりました」


「それは何よりですわ」


 ばたばたと慌ただしいが、少なくとも眠る場所と食事は何とかなりそうだ。しかし問題は、その眠る場所である。


「わたくしの部屋は、どちらになりますの?」


 レティシアが尋ねると、ラルフはわずかに視線を泳がせた。


「候補の部屋が幾つかございます」


「候補?」


「一つは日当たりが良いのですが、窓が完全には閉まりません」


「もう一つは?」


「窓には問題ございませんが、雨天時には雨水が滴ります」


「三つ目は?」


「ございません」


〈ないんかーい〉

〈最初から二択と言え〉

〈風か水か選べと〉

〈属性選択かな?〉

〈室内でアウトドア満喫〉


 レティシアはしばらく黙り込んだ。


 王家との交渉。女伯爵への叙爵。家族や友人との別れ。三日間の馬車移動。

 それらを乗り越え、ようやく新しい領地へ到着して最初に突きつけられた問題は、寝室の窓と雨漏りだった。


「問題ございません。すぐに南側のお部屋を使用できるようにいたします」


 オスカーが淡々と告げる。


「窓は今夜だけ板と布で塞ぎ、明日、職人へ修理を依頼します。雨漏りよりは対応が容易ですので」


「お任せしますわ」


「承知いたしました」


 頼れる家令がいてくれて本当によかった。

 レティシアは心の底からそう思った。


「それにしても……領地経営以前のところから始める必要がありそうですわね」


 小さく息を吐き、廊下の先へ足を踏み出す。

 その瞬間、足元の床板がぎしりと不吉な音を立てた。

 レティシアが静かに足を戻し、オスカーも床へ視線を落とした。


「床板の確認も、修繕項目に加えておきます」


「……よろしくお願いいたします」


〈うぐいす張りかな〉

〈んなわけあるか〉

〈新居ガチャ大爆死〉

〈匠を呼べ〉

〈ビフォーアフター〉


 こうしてレティシアは、ヴァレーヌ女伯爵として最初の一歩を踏み出した。

 ただしその一歩は、床板を確かめながらのひどく慎重なものとなった。

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