第12話 では、お風呂に入ります。(サービスお風呂回)
「王家の侍従長、ベルナール・オルドラン様にございます」
その名にミシェルの表情が険しくなる。シモンヌはレティシアの手をそっと握り、アリスもわずかに息を呑んだ。
王家の侍従長。
ただの伝令ではない。国王の身近に仕え、王宮内の儀礼と実務を取り仕切る者である。夜更けにその人物が訪れたということは、王宮がこの件を「若者同士の行き違い」で済ませるつもりはないという意思表示だ。
ジョルジュは静かに立ち上がった。
「来客用の応接室へ通せ。私が出る」
「父上、私も」
ミシェルがすぐに動く。
「来なさい。ただし、余計なことは言うな」
「……承知しました」
ミシェルの眉間にしわが寄る。どう見ても承知した顔ではなかった。
レティシアは内心でそっと祈る。
お兄様、どうか本当に黙っていてほしい。
王家の侍従長を斬るルートなど、考えたこともない。そもそもシナリオとして想定外だし、フラグも用意していない。
ロランは静かに一礼し、ジョルジュの後ろへ控える。ジョルジュはそこで、レティシアへ向き直った。
「レティシア。今夜はもう休みなさい。使者とは私が話してこよう」
「ですが、お父様……」
「今夜の用件は、お前個人への聞き取りではないはずだ。王城からの伝言だけだろう」
その声は穏やかだったが、同時に有無を言わせぬ響きがあった。
「今夜、お前はあまりに多くのものを背負わされた。これ以上、王家の都合に付き合う必要はない」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
ありがたい。
正直に言えば、今から王家の侍従長を相手に完璧な令嬢スマイルを維持する余力は残っていなかった。
現在のレティシアの精神メモリは、ほぼ限界である。ここに来客対応を差し込まれたら、確実に処理落ちする。
〈娘を休ませろ〉
〈パパ上ナイス判断〉
〈今日はもう十分働いた〉
〈心のHP削れてそう〉
その通りだ。
ステータス上はどうであれ、心のHPはかなり削れている。できれば今すぐ回復薬がほしい。前世基準で言うなら、布団と味噌汁と鮭おにぎりである。
ジョルジュはロランに目配せし、ミシェルとともに部屋を出ていった。
扉が閉まる。部屋に残ったのは、レティシア、シモンヌ、そしてアリスだった。
「レティシア」
シモンヌが柔らかく声をかける。
「ここはお父様にお任せして、あなたは部屋で休みなさい。もう遅いわ」
「ありがとうございます、お母様」
レティシアは小さく微笑んだ。
「ですが、今すぐ眠れる気はいたしません」
「そうでしょうね」
シモンヌは困ったように眉を下げた。
自分の進退に関わる来訪である。気にするなと言われて気にしないでいられるほど、レティシアの神経は太くない。いや、正確には太い方であるが、今日一日でかなり擦り切れた。
「このまま待っていても落ち着きませんので、先に湯浴みを済ませてまいります」
「そうね。その方がいいわ。アリス、お願い」
「はい、奥様」
アリスがすぐに一礼する。レティシアは立ち上がり、アリスに付き添われて部屋を出た。
廊下は静まり返っていた。夜更けの屋敷は昼間とはまるで違う顔をしている。磨かれた床に灯りが淡く映り、壁にかけられた肖像画の影が長く伸びていた。
湯浴み。そう、入浴である。
人間、どれほど余裕がなくても湯には浸かりたい生き物だ。むしろ、こんな日だからこそ風呂は欠かせない。
王太子に婚約破棄され、前世を思い出し、ステータス画面を開き、家族会議まで済ませた身である。せめて汗と疲労くらいは洗い流したい。
だが、問題がひとつある。
それは――配信だ。
〈入浴回!〉
〈視聴者サービスはよ!〉
〈( ゚∀゚)o彡゜おっぱい!おっぱい!〉
〈待て、全年齢対象作品だぞ〉
〈CERO Aはだてじゃない〉
たかが入浴にこの食いつきである。スケベ野郎どもめ。
だが、残念だったな。私には「プライバシーフィルター」という切り札がある。
と、思ったところで、レティシアはそこはかとない不安に駆られた。本当に配信はカットされるのか。そこには不安しかない。
レティシアは真顔で浴室の扉を見つめた。
信じていますわよ、プライバシーフィルター。
全年齢対象。CERO A。ここで仕事をしなければ、いつするの。――今でしょ!
ふるっ!
その時、視界の端に小さな表示が浮かんだ。
【浴室へ移動しました。プライバシーフィルターが作動します】
【映像および音声の配信は一時的に遮断されます】
【対象年齢:全年齢】
直後に視界を流れていたコメントがぷつりと途切れ、嘘のように静かになった。
消えた。
本当に消えた。
レティシアは浴室の前でしばし動きを止めた。
「お嬢様?」
アリスが不安そうに声をかけてくる。けれど、心の底から安堵しているレティシアの耳には届いていなかった。
動作するかどうか不安だった新機能が、本番環境で無事に動いた時の安堵に似ている。前世なら、ここで誰かが小さくガッツポーズをしていただろう。
もっとも、今回の本番環境は私の人生である。せめてデバッグ環境で試してから出してほしかった。
レティシアは小さく息を吐いた。
ともあれ、これで心置きなく湯浴みができる。人間の尊厳と清潔さは、どうにか守られた。
結局、湯浴みは短く済ませた。
本当なら湯に沈んだまま一刻ほど現実逃避をしたかった。だけど、そうもいかない。来客用の応接室では父が王家の侍従長と話をしているのだ。気にならない方がおかしい。
湯から上がったレティシアは、アリスに髪を整えられて部屋着に着替えた。
部屋着といっても、前世の感覚でいう寝巻きではない。飾り気を抑えた、簡素な室内用のドレスだ。
きちんとしている。きちんとしすぎている。前世の自分なら、帰宅後三秒で伸びたTシャツとジャージに着替えていただろう。
公爵令嬢は大変だ。
寝る前ですら、気品を要求されるのだから。
そうしてアリスに伴われ、レティシアは浴室を出た。
湯気の余韻がまだ肌に残っている。ほんの少しだけ、今日の重さが薄れた気がした。
その瞬間だった。視界の端に小さな文字が浮かぶ。
【浴室から退出しました。プライバシーフィルターを解除します】
【映像および音声の配信を再開します】
ピロン♪
妙に軽い音が鳴った。
直後、視界の端を白い文字が勢いよく流れ始める。
〈あ、映った!〉
〈湯上がりレティシア様きた〉
〈フィルター仕事しすぎだろおおお!〉
〈CERO A強すぎ〉
〈くそっ、鉄壁すぎる〉
〈湯上がり髪下ろしレティシア様かわいいから許した〉
〈すっぴんかわええ〉
〈化粧落としたら年齢相応なのね〉
〈髪しっとりしてるの良い〉
〈王城の使者どうなった〉
〈これはビールが旨い〉
戻ってきた。実に自然に、実に図々しくコメント欄が戻ってきた。それも立て続けに。
そして最後のコメント。
なぜ今、ビールなのか。それは禁句だろう。
湯上がりで少しだけ軽くなった体に、前世の記憶が容赦なく突き刺さる。
キンキンに冷えたジョッキに軽快な喉越し。口いっぱいに広がるほろ苦さ。
……ああ、ビールが飲みたい。ここはビール以外に考えられない。あの黄金の液体を、もう一度味わいたい。
レティシアは遠い目をした。
「お嬢様?」
アリスが心配そうに顔を覗き込む。
「いえ、何でもありません」
いくら恋しくても、ない物ねだりをするわけにはいかない。
だってわたくし、公爵令嬢なので。
※挿絵です。クリックで飛べます。
https://kakuyomu.jp/users/chikuwa660/news/2912051600606299854
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