第9話 こんなはずではありませんでした。

 レティシアの乗る馬車がゆるやかに速度を落とした。

 

 窓の外にはグランシエール公爵邸の灯りが見える。重厚な門が開かれ、馬車は敷地の中へ進んでいった。

 目を閉じたまま背もたれに身を任せていたレティシアに、アリスがそっと声をかけた。


「お嬢様、到着いたしました」


「ええ」


 目を開いたレティシアは呼吸を整え、背筋をすっと伸ばす。

 馬車が止まり、御者が扉を開けると、冷たい夜気が車内へ流れ込んだ。アリスに手を借りて地面へ降り、顔を上げた瞬間、息が止まった。


 屋敷の玄関前に、父ジョルジュと母シモンヌが立っていた。


〈実家イベントきた〉

〈出たキボンヌw〉

〈悪役令嬢の両親、だいたい冷たい説で草〉

〈毒親イベント?〉


 やめてほしい。

 とはいえ、その「だいたい」には心当たりがある。なにしろそういう設定にしたのは私自身なのだ。


 しかし実家に帰るだけで不穏になる人生とはいったい何なのか。何を期待してこんなイベントを設定したのか。

 人の家庭環境をエンタメにするんじゃない。過去の自分を小一時間、問い詰めたい。


 こうなったら腹を括るしかない。

 説教上等。そのつもりで、レティシアは両親の顔を見る。

 しかし、二人の表情は、彼女の知るものとはまるで違っていた。


 フェルメリア王国でも指折りの大貴族、グランシエール公爵家。その当主夫妻は、屋敷の灯りを背に受け立っていた。

 表情は硬く、すでに王城の騒ぎを聞き及んでいるのは明らかだった。


 ゲームどおりなら、ここから先に待っているのは叱責だ。

 家名を傷つけた、王家に泥を塗った、聖女候補に余計な真似をした。身に覚えのない罪であっても、保身に走った両親は無慈悲にレティシアを責めるのだ。


 悪役令嬢を孤立させ、破滅へ追い込むための分かりやすい毒親設定である。

 だから覚悟はしていた。生き残るためならば、どんな仕打ちにも耐えてみせる、と。



「レティシア!」


 先に動いたのは母だった。シモンヌは公爵夫人らしい優雅さも忘れ、ドレスの裾を揺らしてレティシアへ近づき、そのまま強く抱きしめた。


「あぁ、私のかわいいレティシア……無事なのね、よかった……」


「お母様……?」


 レティシアは固まった。叱責でも罵倒でもなく、それは抱擁だった。

 遅れてきた父ジョルジュも、いつもの冷静な表情を崩していた。険しい顔ではあるが、その怒りはレティシアに向けられたものではない。


「レティシア。よく戻った」


 低い声が、夜の中に落ちる。


「辛かっただろう」


 その一言で、レティシアは言葉を失った。


 ゲームと違う。目の前の両親は、自分を責めるどころか、まるで壊れ物を扱うように抱きしめている。


「あなたは何も悪くないわ」


 シモンヌが震える声で言う。


「怖かったでしょう、レティシア」


 胸の奥が、変なふうに痛んだ。

 断罪の場では泣かなかった。王太子の前でも貴族たちの前でも、背筋を伸ばしていられた。それどころか、視聴者からのコメントに突っ込みを入れる余裕すらあった。

 それなのに、母の腕の中でそう言われた瞬間、こらえていたものが揺らぎ始める。


「お父様……お母様……」


 声が少しだけ震えた。その時、視界の端から文字が流れた。


〈パパ上、ママ上きたー!〉

〈なんか普通に心配してるし〉

〈美人令嬢と美人ママの抱擁。眼福眼福〉

〈これで毒親?〉

〈キボンヌで草〉


 正直に言おう。私も困惑している。

 こんなはずではなかった。というか、そもそも悪役令嬢の両親が実は娘を愛していた、なんてルートを作った覚えはない。


 あと、キボンヌではなくシモンヌだ。しつこい。


 レティシアは心の中だけでそう返し、母の腕の中で小さく息を整えた。


「あの、お父様、お母様。わたくしは……」


「分かっている」


 ジョルジュが静かに遮る。その声は、これ以上無理に言葉を探さなくてよいと告げていた。


「お前の侍女たちは、日々の報告を欠かしていない。王太子殿下が挙げた罪状が事実であるなら、私たちが知らぬはずがないのだ」


 レティシアは、はっとする。


 侍女たち――アリスを含む三人の専属侍女。

 学園でも屋敷でも社交の場でも、彼女たちは交代でレティシアのそばにいた。

 身の回りの世話だけではない。令嬢の言動を記録し、必要なことを公爵家へ報告するのも彼女たちの大切な職務である。

 

 だから父と母は知っている。レティシアはミシュリーヌに嫌がらせをしていない。学園で権力を振りかざしていない。王太子を不当に束縛していない。そして、王太子が並べた罪状が、すべて事実無根であることも。


〈侍女ネットワークつよい〉

〈公爵家の監査体制ガチ〉

〈アリスたん以外の侍女はよ〉

〈王太子、裏取り不足すぎる〉


 裏取り。そう、裏取りである。会議でも公開断罪でも、証拠と資料は大切だ。

 前世の職場にもこの報告体制がほしかった。いや、あったとしても未読通知の山に埋もれていた気はするが。


「あなたがどれほど努力してきたか、私たちは知っています」


 シモンヌがレティシアの頬に手を添えた。


「王太子妃となるために、どれほど自分を律してきたかも。ですから、あなたがそんなことをするはずがないと分かっているわ」


 その言葉はゲームにはなかった。

 悪役令嬢レティシアは孤立するはずだった。父にも母にも見放され、家の中にも居場所を失い、少しずつ追い詰められていく。

 そのはずだった。けれど今、レティシアは母に抱きしめられ、父に信頼されている。


 もうゲームとは違う、まったくの別ルートに入っているのかもしれない。


 別ルート。その言葉に少しだけ胸が軽くなる。ただし、別ルートだから安全とは限らないが。

 前世の私は知っている。分岐先には、たいてい別の地雷が埋まっているものだ。それでも、毒親イベントよりはずっといい。抱きしめてくれる両親がいる。今はそれだけで十分だった。


〈溺愛ルート〉

〈毒親イベント回避〉

〈マクド行ってくる〉

〈いってら〉

〈王太子、敵に回す家を間違えたな〉


 いいな、マクド。私も食べたい。ナゲットはマスタードソース派。


 溺愛ルート。流れるコメントに、レティシアは内心で小さく頷いた。

 たしかにそう呼ぶしかないかもしれない。


 しかし同時にくすぐったくもある。前世の職場では、人間関係が殺伐としていた。殺るか殺られるか、生命タマの取り合いが日常だったゲーム開発の世界において、無償の愛など幻である。少なくとも、ツチノコと同じくらいには。



 その時、正門の方角から激しい馬蹄の音が響いた。ジョルジュが顔を上げ、アリスが半歩前へ出る。門番たちが慌ただしく動き、夜の庭先に一頭の馬が駆け込んできた。


 馬上にいたのは、騎士服姿の青年だった。


 ミシェル・グランシエール。レティシアの六歳上の兄で、若くして近衛騎士団の副団長を務めるほどの剣才の持ち主。王太子ユリウスの幼馴染でもある。

 勤務中だったのだろう、濃紺の騎士服のまま、髪も少し乱れていた。普段なら隙のない所作をする兄が、今は礼儀も体裁もかなぐり捨てている。


〈なんか来た〉

〈援軍?〉

〈馬蹄SEでイケメン確定〉


 イケメンの登場音。不本意ながら否定しきれない。前世の私は、こういう登場演出が嫌いではなかった。伊達にBL本の山を築いていない……って、やかましい。


 ミシェルは馬から飛び降り、そのまま一直線に駆け寄ってくる。母の腕から離れたレティシアを、そのまま強く抱きしめた。


「無事か、レティシア。あの馬鹿に何かされたのか」


「あの馬鹿……」


 おそらく、ユリウスのことだ。近衛騎士団副団長としては、かなり危険な呼び名である。だが幼馴染であり、妹を傷つけられた兄としては、それくらい言いたくなる気持ちもわかる。


「お兄様、わたくしは大丈夫です。怪我もありません」


「本当だな?」


「はい」


「泣かされたか」


「泣いてはいません」


「ならば、なお悪い」


 ミシェルは低く言った。


「泣けないほど、追い詰められていたということだ」


 レティシアは思わず兄を見上げた。

 解像度が高い。あまりにも高い。たとえるなら、4K画質相当だ。まさか、泣かなかったことを心配されるとは思わなかった。

 王太子殿下とは、見ているものが違いすぎる。同じ環境で育った幼馴染のはずなのに、どうしてここまで差がついたのか。


 ゲームのミシェル・グランシエールは、聖女候補ミシュリーヌの攻略対象の一人である。王太子の幼馴染であり誠実な近衛騎士。ルートによっては王太子の過ちを諫め、ミシュリーヌを守る側に回る人物でもある。

 けれど今、目の前にいるミシェルは、攻略対象というより妹を心配して駆けつけた兄以外の何者でもない。


〈兄ちゃん、めっちゃイケメン〉

〈あれ? こいつ攻略対象じゃん〉

〈攻略対象が妹ガチ勢なんだが〉

〈ここからミシュリーヌとくっつくとかないな〉


 身内が攻略対象というのも、なかなかに落ち着かない。

 レティシアは内心でそう呟いた。ミシュリーヌとくっつくかどうかについても、今のところかなり怪しい。


 少なくとも断罪の場で見たミシュリーヌの様子からすれば、彼女が誰かに積極的に好意を向けているようには見えなかった。もっとも、それを今ここで考えている余裕などないが。


 ミシェルはようやくレティシアを離したが、その手はまだ妹の肩に置かれたままだ。怒りを抑えようとしているのか、指先に力が入っている。


「父上。話は聞きました」


 ミシェルがジョルジュを見る。


「ユリウスが、大広間でレティシアとの婚約破棄を宣言したと」


「そのようだ」


 ジョルジュの声は静かだった。静かすぎて、かえって恐ろしい。


「詳しい話は中で聞く。玄関先で済ませる話ではないからな」


 その一言で、場の空気が変わった。それはもはや娘を思う父親の顔ではなく、グランシエール公爵家当主としてのそれだった。



「シモンヌ、レティシアを中へ。ミシェル、お前も来なさい」


「はい、父上」


「アリス」


 ジョルジュに名を呼ばれ、控えていたアリスが一礼する。


「お前も同席しなさい。王城からの帰路、レティシアのそばにいたのだろう」


「かしこまりました」


 アリスは静かに頭を下げた。


 レティシアは、ふとアリスのもう一つの職務を思い出す。きっと今夜のことも、後で丁寧に報告書にまとめられるのだろう。願わくば、ステータスオープンのくだりはどうか省いてほしい。


〈グランシエール家、全員レティシア陣営〉

〈王太子、完全にやらかしたな〉

〈家族会議きた〉

〈これもう通常ルートじゃないだろ〉


 そう。これはもうゲーム通りではない。

 すでにこのルートは制作者である私の手を離れている。この先どうなっていくのか全く予測不可能である。



 レティシアは母に手を取られながら、屋敷の中へ向かう。

 ゲームでは、ここで孤立するはずだった。けれど今、自分は一人ではない。父がいる。母がいる。兄がいる。アリスもいる。そして、この先には公爵家としての戦いが待っている。


 屋敷の大扉が開かれ、暖かな光が夜の中へこぼれた。その光の中へ踏み出す直前、ジョルジュが静かに言った。


「レティシア。これはもう、お前一人だけの問題ではない」


 低く、冷たい声だった。


「ここからは、公爵家としての話をしよう」

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