第五話 伝説の音
その日は、今でも鮮明に覚えている。
中学の冬だった。
「え!?何これ、ヤバっ!!」
美羽が興奮した声でスマホを突き出してきた。
画面に映っていたのは、動画サイト。
再生ボタンの上に表示された名前。
——りさこわも。
初めて聞く名前。
何気なく再生を押した、その瞬間。
——空気が、変わった。
優しく囁くような声なのに、芯がある。
静かなのに、逃げ場がない。
耳じゃなくて、
もっと奥——直接どこかを掴まれるみたいだった。
「……すごい」
「……なんだよこれ」
「……でしょ?」
そのまま次の動画。
また次。
どの歌も、派手じゃないのに強くて。
知らないはずなのに、ずっと前から知っていたような音だった。
「こういうのが、本物なんだと思う」
隆志は思わず口にしていた。
隣では、香織がその歌声を真っ直ぐ見つめていた。
「……私もこういう歌、歌いたい」
突然現れたその存在は、
自分たちにとって——共通の憧れになった。
けれど。
同じ音を追いかけているはずなのに、
少しずつ、向いている方向がズレていった。
香織は歌い方を研究し始めた。
少しでも彼女に近づきたくて、呼吸法や表現を片っ端から調べた。
隆志は、ギターと作曲にのめり込んだ。
「いつか、あいつのオケ作る」
本気で、そう言うようになっていた。
美羽だけが変わらず、
その間を繋ぐように笑っていた。
でも——
三人で集まる回数は、少しずつ減っていった。
♫♫♫
そんな中、突然発表があった。
りさこわもが、動画サイト主催の歌番組に参加する——。
その知らせは、一気に広がった。
「やば……マジかよ」
「これ、リアルタイムで観るしかなくない?」
久しぶりに、三人で隆志の家に集まった。
配信が始まる数分前。
画面には、番組のロゴとカウントダウン。
三人で並んで座っているのに、
前みたいに騒ぐことはなかった。
ただ、画面の数字を見つめていた。
——3。
——2。
——1。
暗転。
軽快なジングルとともに、配信が始まる。
司会者の軽妙なやり取りに、美羽が吹き出す。
「あははは!こいつらマジウケる!」
つられて、隆志たちも笑った。
その笑いは——
どこか少しだけ懐かしかった。
どの歌い手もレベルが高かった。
でも、
どこかで全員が“次”を待っていた。
「それでは、本日のラストエントリーになります」
司会の声が、少しだけ熱を帯びる。
「——“りさこわも”さんです」
「きた……!」
コメントが一気に流れる。
黒い背景とオリジナルのアバター。
本人の姿は——見えない。
「……顔、出さないんだ」
美羽が小さく呟く。
けれど。
それすら、どうでもよくなった。
息を吸う音が、
マイク越しに微かに聞こえた瞬間——
空気が変わった。
——そして、音が鳴る。
たった一音。
それだけで、わかった。
——違う。
背筋が、ぞくりと震える。
耳で聴いているはずなのに、
もっと奥——逃げ場のない場所を、直接掴まれる。
優しい。なのに抗えない。
囁くような声が、
そのまま心の内側に入り込んでくる。
息遣い。揺れ。
わずかなかすれ。
その全部が、
“意図して置かれている”みたいに正確だった。
「……なに、これ」
誰の声かも、わからなかった。
コメント欄も静かになっていた。
ただ——歌だけが流れている。
——サビ。
一気に、世界が開ける。
さっきまでの“近さ”が、
そのまま“広がり”に変わる。
伸びる声。
押し付けないのに、逃がしてくれない。
強いのに、優しいまま。
その矛盾が、成立してしまっている。
気づけば——涙が頬を伝っていた。
曲が終わっても、余韻は消えなかった。
「……あれ、どうやって作ってんだ」
隆志が、ぽつりと呟く。
答えなんて、誰も持っていなかった。
その番組が、彼女が"伝説"になった瞬間だった。
音楽雑誌でも引っ張りだこ。
それ以後の動画の再生数も、爆速に伸びていった。
けれど——
三ヶ月後。
りさこわもは突然、活動を引退した。
理由は不明。
チャンネルも、SNSも、すべて消えてしまった。
まるで——
あの“音”ごと、
最初から存在しなかったかのように。
♫♫♫
——春。
無事に受験も終わり、全員、同じ高校への進学が決まった。そのお祝いも兼ねて、久しぶりに隆志の部屋に三人で集まった。
「いやー。まさかウチとたかちーも受かるとはねー」
「香織先生、ありがとうございます!」
「やめてよ、二人とも」
他愛もないやり取り。
久しぶりに揃った、この空気。
それだけで、十分なはずなのに——
どうしてか、落ち着かなかった。
美羽もそれに気づいているのか、
この日はやけに明るく振る舞っていた。
隆志もそれに合わせるように笑っている。
少しずつ、空気は柔らいでいく。
——でも。
どこかが、噛み合っていなかった。
「……ねぇ。バンド名、どうする?」
ふと、香織が口を開いた。
その言葉に——
表情が、わずかに止まった。
「……子どもの頃、約束したでしょ。
私たちでバンドやろうって」
「……そんなこと、言ったっけ」
「言ってたよ。隆志の方から言い出したんだから」
ほんの少しだけ、空気が冷える。
「……元々、ウチらそれで集まってたんじゃん!」
間を埋めるように、美羽も笑いながら口を挟んでくる。
けれど——
その声も、どこか軽すぎた。
お互いしばらく何も言わなかった。
やがて、手元にあったギターを持ち上げる。
そして——
一フレットずつ、弦を鳴らしていく。
いつもと同じ仕草。
——なのに。
自分でもわからないほど、迷いが混じっていた。
しばらくして、美羽が気まずさを振り払うように手を叩いた。
「よし!せっかくだしさ、久しぶりに撮ろうよ!」
その一言に、空気が少しだけ動く。
「いいね。やろうやろう!」
「……まぁ、いいけど」
隆志は短く頷き、ギターを構える。
香織も、久しぶりにマイクを持った。
——ただ、それだけのはずなのに。
やけに、遠く感じた。
「いくよー。はい、3、2、1……」
軽く息を吸って、歌い出す。
——数小節。
ふと、違和感が走る。
音が——合っていない。
外しているわけじゃない。
でも、どこか噛み合わない。
香織が視線を向けてくる。
何かが、無性に気持ち悪かった。
「……ちょっとストップ」
音が止まる。
ギターの余韻だけが、わずかに残った。
「今のさ」
ギターを抱えたまま口を開く。
「悪くないけど……なんか違う」
「……違うって?」
「もっと、こう……力抜いた方がいい」
言葉を探すように、少し間を置く。
「りさこわもなら——もっと余白使うと思う」
——その一言で、
空気が、完全に変わった。
「……何それ?」
「……は?」
「なんで、その子の名前出すの?」
香織の低い声が、真っ直ぐに飛んできた。
「私の歌じゃダメってこと?」
「ダメだなんて言ってないだろ」
「じゃあどういう意味?」
言葉が止まらない。
「“あの子ならこうする”って基準で言われても困るんだけど」
「私、あの子じゃないし」
香織の表情が、完全に歪んでいる。
だが、負けじと反論していく。
「……でもさ」
「ああいうのが、“正解”なんじゃないのか」
「……正解?」
香織の声が、更に低くなった。
「正解ってどういう意味?」
「…めんどくさお前」
「は?なんなのその態度!」
空気が張り詰め、隆志は顔を逸らす。
そのとき——
壁に貼ってあったポスターが、音もなく剥がれ落ちた。
グラスの中の氷が傾き、カランと乾いた音を立てる。
——その二つだけが、不自然に響いた。
「……隆志、変わっちゃったよね」
「……なんだそれ」
「だってそうじゃん」
「前の隆志は、そんな風に押し付けること——絶対言わなかった」
「お前が俺の何を——」
「じゃあなんで、“正解”なんて言ったの?」
初めて、言葉がぶつかった。
「……私は、ずっと間違ってたって言いたいの?」
「だからダメなんて言ってないだろ!」
「言ってるようなもんじゃん!」
どんどん、引き返せなくなる。
「ちょ、ちょっと待って!二人とも!」
慌てて止めに入る美羽の声も、無理やり絞り出したような明るさだった。
「せっかく久しぶりに集まったのにさ、ケンカとかマジやめよ?」
「ほら!二人とも笑顔!ね!?」
そう言って美羽は、二人の頬をぐいっと掴んで、無理やり上げる。隆志は振り払おうとするが、美羽は絶対に離さなかった。
「今日のとこは軽く遊ぶだけにしよ!ね?」
隆志も香織も、
すぐには言葉を返せなかった。
数秒の沈黙。
「……悪い」
隆志が、ぽつりと呟く。
それ以上は、何も言わなかった。
——結局、その日はまともに一曲も撮れなかった。
その出来事は、香織も深く覚えている。
♫♫♫
——ステージでは、四組目のバンドが豪快に音を鳴らしている。
歓声に包まれる会場。
その中で、香織だけが浮かない顔をしていた。
「——かおたん!」
美羽の声で、我に返る。
「どうしたの? ずっと上の空」
「……ごめん。ちょっと考え事」
隣では、雪穂が静かに見ていた。
「……勝つんでしょ」
雪穂が、そっと香織の手を取る。
「——アタシらで。一緒に」
その言葉に、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
美羽が無理やり顔を割り込ませて笑わせる。
くだらない。
でも、救われる。
——何があっても。
この場所には、みんながいる。
だからこそ、勝つ。
隆志の隣に立つのは、あの子じゃない。
私だと——
証明するために。
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