第29話 封じられた変身は、用法・用量では間に合いません

第29話 封じられた変身は、用法・用量では間に合いません


 西の山道は、朝から薄く煙っていた。


 霧というより、乾いた灰を水に溶かしたような色だった。


 朱音は、景継の横顔を何度目かに盗み見た。


「若殿、休憩です」


「まだ歩ける」


「歩けることと、歩かせていいことは別です」


 景継は足を止めた。


 不満そうではある。けれど、逆らわなかった。


 それだけで朱音は少しだけ安堵する。


 額に触れる。熱はない。呼吸も乱れていない。だが、顔色はまだ万全とは言いがたい。


「脈は……まあ、ぎりぎり許容範囲です」


「ぎりぎりか」


「本来なら城で寝ていてほしい範囲です」


「それは何度も聞いた」


「何度でも言います。薬剤師なので」


 景継の口元が、わずかに緩む。


 その表情を見てしまうと、朱音は言葉に詰まりそうになる。


 いけない。


 これは患者管理。


 患者管理である。


 決して、それ以上の何かではない。


 そう自分に言い聞かせた時、前方の梢丸が片手を上げた。


「見えたよ。あれが灰涙鈴の封印地かな」


 山道の奥に、石門が立っていた。


 鳥居にも似ているが、もっと古い。柱には灰色の紋が刻まれ、その中央には、鈴の形に似た窪みがある。


 風はない。


 けれど、どこかで小さく鈴が鳴った気がした。


 ちりん。


 乾いた音だった。


 朱音の背筋が冷える。


「……嫌な音」


 トメが低く呟く。


「湿った祠より、こういう乾いた場所の方が性質が悪いこともある」


 竹蔵が肩に担いだ棒を持ち直した。


「鈴なら鳴るもんじゃろ。鳴らん鈴の方が気味悪いわ」


「竹蔵さん、今の音、鳴っていい類の音じゃないです」


「そうか。なら叩けば黙るか?」


「封印地を叩かないでください」


 わずかに空気が緩んだ。


 だが、その緩みはすぐに裂けた。


 景継が石門へ近づいた瞬間、柱の紋が赤黒く光った。


「若!」


 右京が前へ出る。


 朱音も駆け寄ろうとした。


 しかし、足元に灰色の線が走る。


 線は地面を裂くように広がり、一行の間へ割って入った。


「結界……!」


 朱音が叫ぶより早く、視界が歪んだ。


 石門の内側へ、景継、右京、護衛数名が引き込まれる。


 外側には朱音、梢丸、トメ、竹蔵が残された。


 透明な壁が、両者を隔てる。


「若殿!」


 朱音は結界に手をつく。


 冷たい。


 押しても、叩いても、びくともしない。


 景継は内側で刀に手をかけ、こちらを見た。


「朱音、下がれ!」


「下がれる状況じゃありません!」


 朱音は薬理解析陣(やくりかいせきじん)を起動する。


【対象:結界面】


【構造:封印陣由来】


【反応:内外分断】


【干渉:解析中】


 そこへ、甲高い羽音が降ってきた。


 ぱらぱらと、黒い影が石門の上から舞い降りる。


 蝙蝠だ。


 ただの蝙蝠ではない。翼の縁に灰色の紋があり、口元から薄い白い霧のようなものを吐いている。


 群れが一斉に鳴いた。


 きぃん、と耳の奥が痛む。


 足元の解析陣が歪んだ。


「っ……!」


 線が崩れる。


 朱音は左手を上げた。


「薬理解析陣、戦闘補助。外装展開――」


 紅い陣が足元に走りかける。


 しかし、羽音が重なった瞬間、陣の輪郭が霧のようにばらけた。


 変身が、組めない。


「変身陣が……崩れる?」


 封魔蝙蝠の群れが、朱音を囲むように旋回する。


 攻撃してくるわけではない。


 ただ鳴く。


 ただ羽ばたく。


 それだけで、朱音の足元に開きかけた外装展開の初期線が、ぐにゃりと曲がる。


「朱音、耳を塞ぎな!」


 トメが布を投げた。


「あれは鳴き声で術をほどいてる!」


 梢丸が低く走る。


「右上!」


 朱音がしゃがんだ瞬間、封魔蝙蝠が頭上をかすめた。


 竹蔵の棒が唸る。


 一匹が叩き落とされ、地面に転がった。


「ちょこまか飛びおって! 虫か鳥かはっきりせい!」


「蝙蝠だよ!」


「なら蝙蝠らしく夜まで寝てろ!」


 竹蔵の怒鳴り声に、朱音は一瞬だけ現実へ引き戻された。


 だが、結界の内側で重い音が響く。


 石が動く音。


 朱音は顔を上げた。


 景継たちの前に、石の武者が立っていた。


 胸と腕に赤黒い紋を刻んだ、顔のない兵。


 血紋石兵(けつもんせきへい)。


 そう呼ぶしかない姿だった。


 石兵は刀を振り上げる。


 右京が受け止めた。


 鈍い衝撃音。


「若、下がってください!」


「下がれば、陣の中心が空く」


 景継は周囲を見ていた。


 足元の封印陣が、彼の動きに合わせて赤く明滅している。


「こやつらは、私を斬り殺す気ではない」


 景継の声が結界越しにかすかに届く。


「血を落とさせたいのだ」


 朱音の呼吸が詰まった。


 血。


 封印陣。


 景継の血が必要な仕組み。


 まただ。


 また、この人が狙われている。


「行かなきゃ……!」


 朱音は再び変身陣を展開しようとする。


 だが、封魔蝙蝠の羽音が重なる。


 紅い線が崩れる。


 焦りで指先が冷たくなる。


「朱音、息を浅くするんじゃないよ」


 トメが背後から叱る。


「音に持っていかれる」


「でも、若殿が!」


「助けたいなら、まず解きな」


 トメの声は厳しい。


「変身できないなら、まず変身しようとするな。音の正体を見な」


 朱音は歯を食いしばった。


 そうだ。


 感情で線を引いても崩されるだけ。


 解析する。


 何が、どこを、どう乱しているのか。


「低出力でいきます」


 朱音は膝をつき、解析陣を地面に近く開いた。


【対象:封魔蝙蝠】


【妨害反応:羽音由来】


【作用点:外装展開初期線】


【解析陣本体:使用可能】


【同期乱れ:大】


【対処候補:遮音/同期補正/展開順序変更】


「魔法そのものを封じてるんじゃない……」


 朱音は息を吸う。


「変身の最初だけ、音で崩してる」


 その間も、内側では戦いが続いていた。


 血紋石兵の腕が欠けても、石片が地面に落ちるだけで動きは止まらない。


 右京の太刀が肩を砕く。


 次の瞬間、石兵は反対の腕で景継の袖を裂いた。


 細い赤が散る。


 封印陣が、ぞわりと光った。


「若!」


 右京が叫ぶ。


 朱音の解析窓が赤く揺れる。


【対象:朔間景継】


【外傷反応:増加】


【体温:低下傾向】


【周辺封印反応:活性化】


 胸が強く痛んだ。


 すぐ行きたい。


 今すぐ飛び込みたい。


 だが、変身できなければ届かない。


 封魔蝙蝠を読まなければ、また崩される。


 その時、結界の高い部分から影が降った。


 梢丸だ。


 先ほどまで姿が見えなかったのは、結界の隙間や岩場の上から、内側を探っていたのだろう。


 着地した梢丸の顔に、いつもの軽口はなかった。


「朱音、まずい」


 朱音は顔を上げる。


「若殿は――」


「若さまの方、押されてる。石の兵が、若さまの血を狙ってる。右京たちだけじゃ、長くもたない」


 その言葉だけで、朱音の中の焦りが跳ね上がる。


「血を狙ってる……」


「斬りたいんじゃない。傷を増やして、陣へ落とさせようとしてる。若さまが動くたび、向こうの陣が赤くなる」


「行かなきゃ」


 朱音は反射的に左手を上げた。


 封魔蝙蝠が鳴く。


 変身陣が砕ける。


「っ、邪魔!」


「焦るな!」


 トメが朱音の腕を掴んだ。


「焦ったら、あの羽音に持っていかれる。助けたいなら、まず解きな」


「でも!」


「分かっとる。だからこそじゃ」


 トメは布を朱音の耳元へ押し当てた。


「聞くんじゃない。読むんだよ」


 梢丸が空を見た。


「鳴き声、三拍で切れる。飛ぶ高さは左から右。次の切れ目、半呼吸だけ空く」


 竹蔵が蝙蝠をもう一匹叩き落とす。


「左じゃ!」


「竹蔵、それ右!」


「わしから見て左じゃ!」


「全員から見て合わせて!」


「注文の多い蝙蝠退治じゃのう!」


 その無茶苦茶なやり取りで、朱音の呼吸が一つ戻った。


 大丈夫。


 まだ考えられる。


 まだ読める。


「梢丸、切れ目をください」


「三、二、一――今」


 羽音が、ほんの一瞬だけ薄れる。


 朱音はその隙へ解析の針を通した。


【同期乱れ:三拍周期】


【初期線崩壊:外周部より発生】


【補正候補:中心線先行/外装展開順序変更】


「分かった」


 朱音の声に、力が戻る。


「魔法を封じてるんじゃない。外から線を引くから崩される」


「じゃあ?」


「内側から組む。中心線を先に通して、外装は後回し」


 封魔蝙蝠が一斉に降下する。


 竹蔵が前に出た。


「つまり、よく分からんが、時間が要るんじゃな!」


「はい!」


「なら、殴ればよい!」


 竹蔵の棒が唸った。


 梢丸は飛行周期を読み、朱音の周囲を駆ける。


「次、右上。しゃがんで。今、立って。朱音、次の鳴き声は長い」


 トメは朱音の背後で布と薬草袋を構え、耳を守る。


「息を乱すな。線を乱される前に、あんたが乱れるんじゃないよ」


「はい」


 朱音は低く答えた。


 足元の薬理解析陣が、今度は中心から細く伸びる。


 外へ広げない。


 内側で組む。


 順番を変える。


 羽音が来る。


 線が揺れる。


 だが、崩れない。


「いける……!」


 その瞬間だった。


 結界の内側で、赤黒い光が膨れた。


 血紋石兵の一体が砕けながら、景継の足元へ倒れ込む。


 石の腕が、封印陣へ血を誘うように伸びる。


 景継がそれを蹴り払おうと踏み込んだ。


 揺れる。


 景継の膝が、わずかに落ちる。


「若殿!」


 朱音が叫んだ瞬間、結界が悲鳴のような音を立てた。


 灰色の壁に亀裂が走る。


「朱音、下がれ!」


 梢丸が手を伸ばす。


 けれど、足元が消えた。


 結界の境目が、朱音の下だけ割れたのだ。


「っ――!」


 朱音は薬箱を抱え込む。


 梢丸の手が空を切った。


 世界が傾く。


 結界の内側へ落ちる。


 叩きつけられる寸前、朱音は身を丸めた。


 肩に衝撃が走る。


 息が詰まった。


 それでも、すぐ顔を上げる。


 目の前に、赤黒い紋があった。


 血紋石兵。


 その奥に、景継がいた。


 右京が支えている。


 景継は肩で息をしていた。袖は裂け、血がにじんでいる。まだ立っている。だが、明らかに苦しい。


 石兵たちは、なおも迫っていた。


 朱音はまだ黒髪のままだ。


 変身はできる。


 封魔蝙蝠の妨害は、もう読めた。


 けれど、ここで変身すれば。


 景継に見られる。


 右京に見られる。


 護衛たちにも、全部。


 景継の膝が、またわずかに揺れた。


 その瞬間、朱音の中で何かが切れた。


 正体なんて、どうでもいい。


 目の前で、この人がまた血を流している。


 それだけで十分だった。


 朱音は左手を上げた。


「薬理解析陣、戦闘補助――」


 赤い陣が、今度こそ足元から立ち上がった。

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