第6話:勝利の清算。禁断の複式簿記

アステリア公国の首都は勝利の熱狂に包まれていた。

広場では大樽の酒が振る舞われ騎士たちは武功を誇り民衆は聖女ベアトリスの名を叫んでいる

だがその喧騒から隔絶された地下の財務文庫には冷え切った空気と埃の匂いが立ち込めていた。


亡命計算官アルフォンスはうずたかく積まれた古い帳簿を前にただ黙々と算盤を弾いていた

そこへ荒々しい足音が響く。

まだいたのかどこの馬の骨とも知れぬ余所者が。そこは我ら財務文官の聖域だ。不浄な手で公国の帳簿に触れるな。


現れたのは旧三貴族と癒着し長年甘い汁を吸い続けてきた老文官たちだった。彼らはアルフォンスを包囲しその手から羽ペンを奪い取ろうとする。

しかしその動きは背後から響いた鈴を転がすような可憐な声によって止められた。


皆様そんなに声を荒らげないで。私はただ悲しいのです。


扉の向こうから現れたのは公女ベアトリスだった。

彼女は祈るように胸元で手を組み潤んだ瞳で文官たちを見つめる。その姿は民衆が崇める守ってあげたくなる聖女そのものだった。


民が勝利に沸く一方でこの国の金庫に説明のつかない空白がある。ねえ皆様。皆様の潔白を証明するために中立な第三者であるアルフォンス様に帳簿を預けてはいただけないかしら。私のいえ民のための切なる願いですわ。


その可憐な微笑みは拒絶を許さない正論の檻だった。ここで否と言えば聖女への不敬ひいては不正の自白を意味する。老文官たちは苦虫を噛み潰したような顔でその場に平伏するしかなかった。


感謝いたしますわ。ではアルフォンス様私の特別補佐官として真実を照らしてちょうだい。


文官たちが退室し分厚い扉が閉まった瞬間

ベアトリスの表情から聖女の甘さが霧散した

彼女は優雅にドレスの裾を払い一番豪華な椅子に深く腰掛けると不敵な笑みを浮かべる。


ふふあの狸たちの顔を見たかしら。聖女に縋られたら彼らは頷く以外に道はないのよ。さあアルフォンス私の期待に応えて。あの澱んだ数字を貴方の算盤で綺麗に削ぎ落としてちょうだい。


アルフォンスは表情を変えずただ算盤の珠を弾いた。


既に着手しております。彼らが用いていた単式簿記では資産の移動を追うことは不可能です。しかしこの複式簿記ならば。


アルフォンスの手元でバラバラだった数字が左右に整列していく。

貸方そして借方

二つの列が一致した瞬間三貴族が使途不明として処理していた軍事予算の還流先が鮮やかに浮かび上がった。


お見事ね!


ベアトリスは雌豹のような瞳でその損益計算書を見つめる。

夜が更け執務室には二人だけの時間が訪れる

アルフォンスが書類を整理し終えるとベアトリスが音もなく背後に立ちその首筋に白く細い指を這わせた。


素晴らしいわ。貴方は私の期待を超えてくれる。さて今夜の対価は何がいいかしら?


公女としての誇りと女としての情動が混ざり合う。

表の可憐な聖女とは真逆の熱を帯びた瞳がアルフォンスを射抜く。


私の計算を狂わせるのはこの世界で貴方の出す数字だけ。責任取ってくれるわよね。


彼女の吐息が耳元を掠め衣擦れの音が静寂に溶けていく。

窓の外で続く宴の喧騒を遠くに聞きながら二人は共犯者としての密やかな熱に身を投じていった。

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