第5話 石を置く理由
「囲碁の大会、出てみたら?」
アロハシャツの人にそう言われて、私は少し本気にしてしまった。
大会?
初心者の私でも出られるの?
だが翌週、原田さんは苦笑しながら言った。
「うーん。三崎さん、石がすぐ死んじゃうからねぇ。まだ難しいかな。」
また出た。
囲碁独特の、妙に物騒な言葉。
石が“死ぬ”とか、“殺される”とか。
最初に聞いた時は、少しぎょっとした。
がんになってから、“死ぬ”という言葉に敏感になっていたからだ。
でも囲碁の世界では、それが普通らしい。
「この石、もう死んでるねぇ」
なんて、みんな天気の話みたいにサラッと言う。
実際、私はよく石を殺される。
逃げているつもりなのに、気づけば囲まれているのだ。
「来月、地区大会があるんだよ」
原田さんは碁盤を見ながら続けた。
「川を挟んだ別地区との対抗戦。初級、中級、上級に分かれて打つんだけどね」
「へぇ……」
「まあ、生き死にが分かるようになれば、出られるかなぁ」
私は少し黙った。
そして、おそるおそる聞く。
「あの……出場できるかどうかって、いつ決まるんですか?」
「二週間後かな。そこでメンバー決めるから」
原田さんはニヤッと笑った。
「あと二週間、頑張ってみる?」
返事につまる。
私は思わず、碁盤を見つめた。
*
その時だった。
少し離れた席で、見慣れない男性が碁を打っているのに気づいた。
私と同じくらいの年齢だろうか。
工場の作業着姿で、盤面をにらみながら、
「あー失敗した……」
「うわ、これ困ったなぁ……」
と、ずっとブツブツつぶやいている。
「あれ? あの方、初めてですよね?」
私が聞くと、原田さんはちらっとそっちを見た。
「ああ、唐沢さんね。半年くらい前に入った人。仕事忙しくて、普段はなかなか来られないらしいよ」
「へぇ」
「でも大会に出たいんだって。ここ最近は、わりと顔出してるみたい」
サークルには三十人くらい所属しているらしい。
けれど、普段来るのは十人くらい。
大会が近づくと、
いつもは見かけない人まで急に熱心に通い始めるのだという。
唐沢さんは盤をにらんだまま、
「うわぁ……そこかぁ……」
と小さくつぶやいた。
その直後だった。
ドサッ。
鈍い音がした。
見ると、唐沢さんが畳に崩れるように倒れこんでいた。
「あ……ちょっと気持ち悪……」
声が途中で途切れる。
「唐沢さん!?」
「大丈夫!?」
「ちょっと水!」
サークルの空気が一気に波立った。
顔色は真っ青だった。
「救急車呼ぶか?」
「いや……少し休めば……」
とりあえず座布団を枕代わりにして寝かせ、水を飲ませながら様子を見る。
しばらくして、唐沢さんはゆっくり目を開けた。
「す、すみません……寝てなくて……」
聞けば、三日連続の夜勤明けだったらしい。
今朝仕事が終わり、そのあと用事を済ませ、そのまま寝ずに囲碁サークルへ来たのだという。
「いやいや、それじゃ倒れるよ!」
「若くても無理しちゃダメだよ~」
周りから次々声が飛ぶ。
すると唐沢さんは、照れくさそうに頭をかいた。
「今度の大会で、勝ちたくて。練習しなきゃって思って」
「でも、ちょっと熱入り過ぎじゃないかぁ?」
そう言われると、唐沢さんは困ったように笑った。
「いや~……実は、息子に頑張ってるとこ見せたいんですよね」
「思春期なんです。最近、全然しゃべってくれなくて」
波が引くみたいに、みんなの声が消えた。
唐沢さんは、窓の外を見ながら続けた。
「だから囲碁大会に出て、自分が頑張ってる姿見せたら、何か変わるかなぁって」
――ここにもいた。
私みたいな人が。
子どもとの距離に悩みながら、何か突破口を探している人が。
私は、唐沢さんの背中をぼんやり見つめた。
「……でも今日は帰って寝ます!」
唐沢さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「お騒がせしました!」
そう言って、ふらつきながら帰っていく。
その背中を見送りながら、私は思った。
みんな、それぞれ事情を抱えているんだな、と。
自分だけが、暗い井戸の底に取り残されているわけじゃない。
もしかしたら、いつも優しい原田さんも。
穏やかな“ひふみん”みたいな山川さんも。
みんな、どこかに小さなヒビを抱えながら。
心に棘を刺したまま。
それでも笑っているのかもしれない。
だからここへ来て、石を置くのかもしれない。
私は、碁盤に並ぶ白と黒の石を見つめた。
「原田さん」
「ん?」
「私、大会に出てみたいです」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
「あと二週間、生き死にが分かるように頑張ってみたいです」
すると原田さんは、ニヤッと笑った。
「じゃあ、特訓だね」
私は碁笥(ごけ)から黒石をひとつ取り上げた。
指先に、ひんやりとした感触が伝わる。
まだ、生き方も、生き残り方も、よく分からない。
でも――。
とりあえず、次の一手を置くしかないのだ。
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