第5話 いっぱいちゅき♡

 その日。


 九条蒼眞は少しだけ疲れていた。


 朝から九条家関係の予定が立て込んでいたのだ。


 加えて、

 講義後には会食も入っている。


 面倒だった。


「珍しいな」


 隣を歩く蓮が言う。


「お前がそんな顔してるの」


「変わらん」


「いや、今日ちょっと静か」


 蒼眞は答えなかった。


 自覚はあった。


 多少疲れている。


 だが、

 周囲に指摘されるほどではないと思っていた。


 その時だった。


「蒼眞きゅーん!」


 ぱたぱたと桃花が走ってくる。


 いつもの明るい声。


 だが。


「……あれ」


 桃花が足を止めた。


 しわピカ顔。


 蒼眞は少し眉を寄せる。


「どうした」


「蒼眞きゅん、今日ちょっとちがう」


「何がだ」


「うーん……」


 桃花はじっと蒼眞を見る。


 観察するみたいに。


「いつもより静か」


「気のせいだ」


「ちがうもん」


 即答だった。


 蓮が吹き出す。


「強ぇな桃花ちゃん」


 桃花は蒼眞から視線を逸らさない。


「疲れてる?」


「別に問題ない」


「……むりしてる?」


「していない」


「うそ」


 また即答。


 蒼眞が黙る。


 図星だった。


 桃花のしわピカ度が少し上がる。


「ちゃんと寝た?」


「寝ている」


「何時間?」


「……四時間」


「少ないよぉ……」


 桃花がしょんぼりする。


 まるで自分のことみたいな顔だった。


 蒼眞は少しだけ目を細める。


「お前が気にすることではない」


「気にするもん」


 桃花は小さく頬を膨らませた。


 それから、

 鞄をごそごそ漁る。


「はい」


「?」


 差し出されたのは、

 小さな包みだった。


「クッキー?」


「うん。昨日焼いたの」


「……また作ったのか」


「今日は蒼眞きゅんにあげようと思って持ってきた」


 蒼眞の動きが少し止まる。


 蓮が横で、

 “重いなぁ……”という顔をしていた。


 桃花は続ける。


「甘いの食べると元気出るでしょ?」


「……まあな」


「だから食べて」


 まっすぐな声だった。


 蒼眞は静かに包みを受け取る。


「ありがとう」


「えへへ」


 桃花が笑う。


 その顔を見ていると、

 少しだけ肩の力が抜ける気がした。


「蒼眞きゅんって」


 桃花がぽつりと言った。


「いつも助けてくれるでしょ」


「別に普通だ」


「でもわたし、そういうとこ好き」


「…………」


「いっぱいちゅき♡」


 少しだけ照れたみたいに笑う。


 蒼眞の思考が止まった。


 隣で蓮が顔を覆う。


「あー……はいはい」


「…………」


「おい生きてるか」


 蒼眞は数秒沈黙したあと、

 静かに視線を逸らした。


「……そういう言葉を簡単に使うな」


「へっ」


 桃花がしゅんとする。


「ご、ごめん……」


 その顔を見て、

 蒼眞は小さく息を吐いた。


「……いや」


「?」


「お前が使うのは、別に構わん」


 蓮が天を仰ぐ。


「終わってんなこいつ」


 桃花はぱぁっと顔を明るくした。


「ほんと!?」


「ああ」


「えへへ」


 嬉しそうに笑う。


「いっぱいちゅき♡」


 追撃だった。


 蒼眞、再停止。


 蓮が肩を震わせる。


「コンボ入ったな」


 そして御曹司は今日も敗北する。

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