第十七章 北鎮の首、黎明の果てに

ⅩⅦ-Ⅰ


 帝都郊外オクタヴィアン邸の前を通る馬車道と、邸内の渡り廊下の間の境界には、背の高い豊かな緑の生け垣が巡らされている。

 美しい庭園彫刻の施された木々の向こうへ伸びる回廊の、ホールも、仮の議場も、執務室も越えた奥の奥。

 屋敷の主オクタヴィアンの生活空間、その最奥にある客間の長椅子に、ヘレナは黙って座っていた。

 ここへ来て、五度目の朝を迎えようとしている夜のうちだった。


 白磁の花瓶が置かれたテーブルを挟んで正面の長椅子には、自分をここまで連れてきた子供が座っている。

 一心不乱にパステルを走らせていた画帖から少年はふと顔を上げると、窓を振り向いた。

 

「先生……?」


 不安そうな顔で窓の向こうを食い入るように見つめる、その視線を追う。真夜中だというのに、東の黎(くろ)い空の遠く向こうに赤い光が揺らめくのが見えた。

 するとにわかに回廊を慌ただしく駆ける軽い足音が近づいてくる。足音が到達するなり扉が乱暴に開かれると、駆け込んで来た二人の少年が叫んだ。

 

「戻るぞ! 家が燃えてるって!」


「えっ!?」


「早く戻らなきゃ! どうしよう、僕、衣装も本も全部家に置いたままなのに……!」


「俺もだよ! 今度の舞台の台本だってあるのに!」


 口々にそう騒ぎながら三人の少年は部屋を駆け出して行った。荒っぽく閉じられた扉の残響が室内にこだましている。

 そんな中こちらに目もくれず去っていった彼らの足音が遠ざかっていくのを聞き届けると、ヘレナは呟いた。


「やっぱり三人とも共謀なのね」


 己をここに縛り付けていた鎖の正体に確信を持てたことに、ヘレナはやっと安堵のため息を零した。


 

 


 今の今まで目の前で画帖に絵を描いていたあの少年に手を引かれた、四日前の午後、まだ日の光の眩しい中のレムナント邸。

 連れられるままにその角を曲がり、裏手へ回った時のことだ。

 

 ひと回り背の大きな少年が、屋敷のひさしが作った濃い影の中で小さな少年を羽交い絞めにし、その首に小刀(ナイフ)を押し当てていた。

 驚いて思わず声を上げようとすると、自分の手を引く小さな子供の手に軽く引かれ、止められた。弟を助けて、と。


「あんたを連れて来いって言われててね、大人しくしてもらおうか」


 物語か舞台で聞くような、いささかありふれた台詞にも感じる脅し文句。

 そう口にする少年の小刀を持つ手は、震えていた。

 刃先を小刻みに揺らしながら、興奮状態といった風で、目を血走らせている。

 演技であれば、迫真と呼べるものだろう。

 捕まって刃を向けられている子供は、目に涙を溜めて、蒼白な顔でこちらに懇願する。


「お……お姉さん、助けて……」


 哀れなほどに震える声だった。大仰、と感じてしまうほどに。

 何かおかしいとは思った。だが、それは勘でしかない。

 

 子供の犯罪は、今のアステリアにおいては少ないとはいえども、完全にないというわけではなかった。

 特に帝都に比べれば、地方では報告される頻度は高いという。

 しかし、わざわざこのタイミングで、しかも自分に声をかけるなど……。


 そうヘレナが思った時、屋敷裏手の小路をゆっくりとこちらへ進んでくる馬車が見えた。

 庭先のすぐそばまで来ると、馬車は停止し、御者が台から降りると恭しく扉を開く。

 乗れということだろう。よく見れば、その扉には家紋が刻印されていた。

 オクタヴィアンの紋章ではない。グラッサールの家紋だ。

 

 そこで合点がいった。

 少なくとも、小刀を手に脅しを口にした大きな子供はグラッサールで芸術支援を受けている子供だろう。

 恩ある主人に命じられ、自分をオクタヴィアンの元へ連れて行こうとしている。

 そして、他の二人。捕まっている子供と、自分の手を引く子供。

 三人ともが同じ場所の子供であるならば、これは台本通りの茶番劇というわけだ。

 

 けれど、演技だとしても。

 こうして今後も手を変え品を変え、この政局を動かすために子供を使って来るというのなら――


 ヘレナの心臓が、どくりと脈打った。

 脳裏に、見送ったばかりのクラリスの小さな背中と、彼女の語った言葉がよぎる。


 グラッサールの子供たち。つまり、「才ある」子供たちだ。

 そして、彼らは貧民街出身の子供たちかもしれない。


『あの場所にいた子供たちは、どんな子供たちだろうと、すべてが追い詰められ、罪を負わされ……』


 その声を振り払うようにヘレナは強く頭を振った。


 否定できずとも、肯定してはならないと、決めた。

 どのような状況下の子供であろうと、大人の都合で、他人の思惑で、その存在を好きに扱うことが許されては、ならない。

 

 子供たちが一瞬きょとんと目を見開き、目の前の大人のその仕草に困惑顔をした。

 そうして、ヘレナはまなじりを決し、顔を上げた。


「わかりました。では、行きましょうか……」

 

 ――彼らに、罪を負わせては、ならない。


 



 ヘレナは長椅子から立ち上がると、窓辺に立ち、仄かに赤の混ざる遠い夜空に目を凝らした。

 先ほどの少年たちの言動の通り、炎が揺らめく光で間違いないようだった。

 グラッサール邸が燃えているということなんだろうか。何が起こっているのだろう。


 しかし今はそれより、交代でこの部屋にいた子供は三人ともいなくなり、やっと訪れたこの脱出の好機を生かさねば。


 この五日、ずっと子供が交代でここにいた。

 小さな方の子供は、ヘレナでも突き飛ばして無理に出ようと思えばできそうだったが、到底、そんなことはできそうになかった。


 おそらく、この邸内にありながらもオクタヴィアンがずっと姿を見せずにいるのは、こちらが子供を押し退けて出ることなどできないと読まれているからだ。

 悔しいが、その通りだった。


 もてなしと言っていいほど十全な食事、滞在するにあたってなんら不足がない部屋、身体はもちろんなんの拘束もされていない。

 鎖などいらないのだ。子供という名の錠前、引き留めるための脆弱な障害物。

 それだけで、この部屋はヘレナを閉じ込めるための完全な檻(おり)と化していた。

 

 この数日間、子供たちが交代するほんの僅かな不在の時間に廊下に出て、回廊の窓から出られないかと何度か様子を窺った。

 しかし窓の外、生け垣の向こうの馬車道との間には、屋敷の外周に沿って数人の兵士が立ち番をしているのが見えた。


 ヘレナはそれを思い出しながら、子供の去ったひとりの部屋でそっと扉を開け、改めて廊下を窺った。

 子供が騒いで出て行ったという変化が訪れても、回廊の奥や窓の外に警備の人間が立っているのは相変わらずだった。

 

 では、今ならば、窓から降りるのがいいだろうか。

 監視のない今なら阻まれることもない。

 ヘレナは窓を開けると、バルコニーに出て下を覗き込んだ。

 二階ではあるが、ソルクレールの自室のバルコニーの高さと比べれば、ずっと低い。

 不自由することのないよう毎日完璧に整えられる客間には、続きの部屋に豪奢な寝室も、大きな寝台を覆う真新しいシーツもあった。

 天井近くまで高さのあるこの大窓にかかったカーテンも加えて繋いだ縄を作れば、余るほど足りる。

 今度は、結ぶ場所からバルコニーまでをちゃんと計算に入れて。


 急いで寝室へ材料を取りに行こうと、ヘレナは踵を返し振り向く。

 

 しかし――そこには、大きな深紫の影が佇んでいた。


 皇族のみが身に着けることを許された深紫(こきむらさき)の大司教の祭服は、その長身を際立たせている。鎌首をもたげた、巨大な蛇のように。

 平常そのものの表情の中に光る紫苑の眼光は、ヘレナの身体を凍らせ、足を竦(すく)ませた。


「窓から二度も出ようとは、ソルクレールの姫もお転婆なものだ。まあそう慌てず、もう少し、ゆっくり休んでいくといい。出発の時は、間もなく訪れようからな」




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