第四話:侵食 ―Who Takes the Core.―  

第四話:侵食 ―Who Takes the Core.―

 

 空気は、重油と鉄錆が混ざり合った、粘り気のある臭いがした。

廃棄区画――かつての都市が排出した金属の墓場だ。

天井の配線は引き千切られた内臓のように垂れ下がり、その隙間から絶え間なく冷たい水滴が滴り落ちて、アッシュの首筋をなぞる。

『――歩行ペース、0.3秒遅延。修正しろ』

 いつもの指示だった。

だが――続きがなかった。

 これまでなら次の瞬間、デバイスが強制的に重心を修正していたはずだ。

それが、来ない。

アッシュが自力で「正解」へ戻るのを、セレスはただ待っている。

「……なんだ、サボりか?」

 呟いてみるが、セレスは答えない。

だが、その沈黙はいつもと違う種類のものだった。

システムが沈黙を守ることで、不均衡なズレだけが残る。この不快な摩擦こそが、アッシュがアッシュであることの証明だと言わんばかりに。

『――右。二センチ』

 指示が脳を叩いた瞬間、思考より先に身体が流れる。

重心がわずかに崩れた直後、アッシュの頭部があった場所を何かが掠め、背後の錆びた壁が弾けた。

 結果が先に確定し、理由があとから追いつく。

揃えてしまえば、楽になれる。

セレスの演算に身を委ねれば思考は軽くなり、迷いも消えるだろう。

だが、それが自分という個を「削り取る」対価であることを、アッシュは本能的に察していた。

 通路の奥へ進むほど、照明は白く、あまりに均一になっていく。

影の落ちる場所さえ曖昧なその空間で、自分の足音だけが異常なほど一定に響き始めた。

不自然に安定しすぎていると気づいたのは――三歩目だった。

 音が、完全に揃っている。

自分の意志と、左腕の動作。そして耳に届く音。

こめかみの奥が、鈍く痛んだ。

「……ッ、セレス! 何をした!」

 直後、視界の奥。空間の継ぎ目のような場所がわずかに歪んだ。

そこに、"いる"。

見ようとした瞬間に奥行きが爆発的に開き、現実の通路に、もう一つの世界が重なった。

 白い。影のない幾何学的な空間。それはアッシュの脳を、物理的な質量となって圧迫していた。

『――見るな。その領域に干渉するなと言ったはずだ』

 内側からセレスの声が落ちる。短く、明確な警告。

だがアッシュは視線を逸らさない。網膜が未知の情報に焼かれるような熱を持つ。

「隠してたのはこれか。そこに、何がある」

『黙れ。今の俺の計算領域では言語化できない。遮断しろ。今すぐだ』

 セレスの圧が強まる。思考の奥を強引に押し戻すような、拒絶に近い干渉。

セレスのホログラムが、一瞬だけ水面のように激しく波打った。

その表情は、アッシュを観測しているのではなく、何かに――怯えているように見えた。

 そして、次の瞬間。触れられた。

皮膚ではない。認識の境界線に、そっと指先を重ねられるような接触。

冷たかった。

 誰かの記憶だった。

自分のものではない感情が、一瞬だけ胸の中に落ちてくる。

懐かしい、という感覚。だが、懐かしむべき何かが、アッシュには存在しない。

気持ち悪い。だが、切れない。

『離れろ! 俺の領域から出るな!』

 セレスの咆哮。だがアッシュは動かない。

「……来てるな。こいつ、お前を知ってるぞ」

 その言葉が認識として固定された瞬間、"それ"がわずかに揺れた。

反応している。向こう側も、こちらの「認識」を捉えている。

 鼓動が激しく打つ。

ズレたままの二重心拍に、未知の干渉が割り込む。

セレスのリズムが、パニックを起こしたようにアッシュを「同期」へと引きずり込もうとする。

『切断する。……お前を、守るためだ』

 思考が押し潰される。一瞬、世界が完全に静止した。

同期。完全に揃う。

楽だ。すべてが最適化され、自分で判断する必要が消える。

その瞬間、視界から"それ"が消えた。

「……勝手な真似を、するなと言っただろ」

 アッシュは低く呟き、意図的に、自分の心拍だけを無理やり外した。

揃えようとするセレスを、全神経を使って拒絶する。

再び、"それ"が戻ってきた。今度は、より近い。

 流れ込むものが、鮮明な「映像」へと変わる。

施設の深部。構造の核(コア)。

そこでお前を待っている――と。

『……進路を、修正、しろ、アッシュ』

 一拍、止まった。

『頼むから。俺に従え』

 セレスの声が震えていた。

守ろうとしている。だが、隠してもいる。その両方の意図が、アッシュには痛いほど伝わってきた。

「……違うな、セレス」

 "それ"が示す地獄。セレスが修正しようとする安全な偽り。どちらか一つに従う必要はない。

「俺が、俺としてそこに辿り着けばいいだけだ」

 足を踏み出す。

セレスの予測線からも、"それ"の誘引からも、わずかにズラした不揃いな一歩。

視界の奥で、触れれば応答し、切れば消える"それ"。

アッシュの指先が、無意識に伸びていた。

「行こうぜ、セレス。隠し事の正体を見にさ」

 内側の沈黙が、やがて諦めたような溜息を思考に落とした。

『……勝手にしろ。最期まで、俺が観測してやる』

 その声に、わずかに温度があった。

アッシュは、錆びた配管の冷たさをもう一度強く握りしめ、白光の奥へと歩き出した。

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