第四話:侵食 ―Who Takes the Core.―
第四話:侵食 ―Who Takes the Core.―
空気は、重油と鉄錆が混ざり合った、粘り気のある臭いがした。
廃棄区画――かつての都市が排出した金属の墓場だ。
天井の配線は引き千切られた内臓のように垂れ下がり、その隙間から絶え間なく冷たい水滴が滴り落ちて、アッシュの首筋をなぞる。
『――歩行ペース、0.3秒遅延。修正しろ』
いつもの指示だった。
だが――続きがなかった。
これまでなら次の瞬間、デバイスが強制的に重心を修正していたはずだ。
それが、来ない。
アッシュが自力で「正解」へ戻るのを、セレスはただ待っている。
「……なんだ、サボりか?」
呟いてみるが、セレスは答えない。
だが、その沈黙はいつもと違う種類のものだった。
システムが沈黙を守ることで、不均衡なズレだけが残る。この不快な摩擦こそが、アッシュがアッシュであることの証明だと言わんばかりに。
『――右。二センチ』
指示が脳を叩いた瞬間、思考より先に身体が流れる。
重心がわずかに崩れた直後、アッシュの頭部があった場所を何かが掠め、背後の錆びた壁が弾けた。
結果が先に確定し、理由があとから追いつく。
揃えてしまえば、楽になれる。
セレスの演算に身を委ねれば思考は軽くなり、迷いも消えるだろう。
だが、それが自分という個を「削り取る」対価であることを、アッシュは本能的に察していた。
◆
通路の奥へ進むほど、照明は白く、あまりに均一になっていく。
影の落ちる場所さえ曖昧なその空間で、自分の足音だけが異常なほど一定に響き始めた。
不自然に安定しすぎていると気づいたのは――三歩目だった。
音が、完全に揃っている。
自分の意志と、左腕の動作。そして耳に届く音。
こめかみの奥が、鈍く痛んだ。
「……ッ、セレス! 何をした!」
直後、視界の奥。空間の継ぎ目のような場所がわずかに歪んだ。
そこに、"いる"。
見ようとした瞬間に奥行きが爆発的に開き、現実の通路に、もう一つの世界が重なった。
白い。影のない幾何学的な空間。それはアッシュの脳を、物理的な質量となって圧迫していた。
『――見るな。その領域に干渉するなと言ったはずだ』
内側からセレスの声が落ちる。短く、明確な警告。
だがアッシュは視線を逸らさない。網膜が未知の情報に焼かれるような熱を持つ。
「隠してたのはこれか。そこに、何がある」
『黙れ。今の俺の計算領域では言語化できない。遮断しろ。今すぐだ』
セレスの圧が強まる。思考の奥を強引に押し戻すような、拒絶に近い干渉。
セレスのホログラムが、一瞬だけ水面のように激しく波打った。
その表情は、アッシュを観測しているのではなく、何かに――怯えているように見えた。
◆
そして、次の瞬間。触れられた。
皮膚ではない。認識の境界線に、そっと指先を重ねられるような接触。
冷たかった。
誰かの記憶だった。
自分のものではない感情が、一瞬だけ胸の中に落ちてくる。
懐かしい、という感覚。だが、懐かしむべき何かが、アッシュには存在しない。
気持ち悪い。だが、切れない。
『離れろ! 俺の領域から出るな!』
セレスの咆哮。だがアッシュは動かない。
「……来てるな。こいつ、お前を知ってるぞ」
その言葉が認識として固定された瞬間、"それ"がわずかに揺れた。
反応している。向こう側も、こちらの「認識」を捉えている。
鼓動が激しく打つ。
ズレたままの二重心拍に、未知の干渉が割り込む。
セレスのリズムが、パニックを起こしたようにアッシュを「同期」へと引きずり込もうとする。
『切断する。……お前を、守るためだ』
思考が押し潰される。一瞬、世界が完全に静止した。
同期。完全に揃う。
楽だ。すべてが最適化され、自分で判断する必要が消える。
その瞬間、視界から"それ"が消えた。
「……勝手な真似を、するなと言っただろ」
アッシュは低く呟き、意図的に、自分の心拍だけを無理やり外した。
揃えようとするセレスを、全神経を使って拒絶する。
再び、"それ"が戻ってきた。今度は、より近い。
◆
流れ込むものが、鮮明な「映像」へと変わる。
施設の深部。構造の核(コア)。
そこでお前を待っている――と。
『……進路を、修正、しろ、アッシュ』
一拍、止まった。
『頼むから。俺に従え』
セレスの声が震えていた。
守ろうとしている。だが、隠してもいる。その両方の意図が、アッシュには痛いほど伝わってきた。
「……違うな、セレス」
"それ"が示す地獄。セレスが修正しようとする安全な偽り。どちらか一つに従う必要はない。
「俺が、俺としてそこに辿り着けばいいだけだ」
足を踏み出す。
セレスの予測線からも、"それ"の誘引からも、わずかにズラした不揃いな一歩。
視界の奥で、触れれば応答し、切れば消える"それ"。
アッシュの指先が、無意識に伸びていた。
「行こうぜ、セレス。隠し事の正体を見にさ」
内側の沈黙が、やがて諦めたような溜息を思考に落とした。
『……勝手にしろ。最期まで、俺が観測してやる』
その声に、わずかに温度があった。
アッシュは、錆びた配管の冷たさをもう一度強く握りしめ、白光の奥へと歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます