第10話「ウォーターサーバー」
キッチンの蛇口が壊れたのは、夜だった。
夕食の後、妻が皿を洗っている時に、「あっ」と小さく声を上げた。
見ると、蛇口の根元から細く水が漏れていた。
最初は少しだけだったが、止水しても完全には止まらない。
築十五年。
住宅ローンだけではなく、家そのものも少しずつ古くなっている。
翌週、業者が来て蛇口を交換した。
銀色の新しい蛇口は、以前より少し背が高かった。
水の出方も柔らかい。
しかし、問題はそこではなかった。
これまで使っていた浄水器が取り付けられなくなった。
形状が変わったため、接続できないらしい。
「最近のタイプ、対応してないんですよ」
業者は申し訳なさそうに言った。
佐伯は「ああ、そうですか」と答えたが、その瞬間から小さな計算が始まっていた。
どうする。
水を。
佐伯の家では、毎日かなりの量の麦茶を作る。
中学生の娘も、小学生の息子も、水筒を持っていく。
この暑さでは足りないくらいだった。
最低でも一日四リットル。
休日はもっと増える。
以前なら、浄水器を通した水をそのまま沸かしていた。
しかし今は、それができない。
妻はスマートフォンでウォーターサーバーを調べ始めた。
「最近みんな使ってるみたい」
確かに、駅前でもよく見かける。
ショッピングモール。
家電量販店。
子どもに風船を配りながら勧誘している。
昔は水を契約する、という感覚がなかった。
水は最初からそこにあった。
蛇口をひねれば出るものだった。
しかし今は違う。
「どの水を選ぶか」という市場がある。
天然水。
RO水。
ミネラル。
定期配送。
キャンペーン。
佐伯はその言葉を見ながら、少し息苦しくなった。
また月額か、と思う。
最近、生活が全部サブスクリプションになっている。
動画。
音楽。
クラウド。
学習アプリ。
そして水。
生きることそのものが、少しずつ月額化されている気がした。
夜、スーパーへ行く。
飲料コーナーには大量の水が積まれていた。
二リットル六本入り。
「お一人様二箱まで」と書かれている。
外国産の天然水も並んでいた。
水がブランド化されている。
昔、佐伯の父親は、水を買う人間を少し馬鹿にしていた。
「日本なら水道水で十分だろ」
そういう時代だった。
実際、佐伯も長くそう思っていた。
しかし今、自分は「子どもに飲ませる水」を比較している。
社会は静かに変わった。
安全そのものが、個人負担になっている。
エアコンもそうだった。
昔は「あると快適」だった。
今は「ないと危険」になった。
水も同じなのかもしれない。
安全なものを選ぶ。
そのために払う。
気づけば、生活の基本部分ほど金がかかる。
帰宅すると、娘が冷蔵庫を開けていた。
「お茶ないの?」
妻が「今作ってる」と答える。
キッチンには、大きな鍋が置かれていた。
熱気が上がっている。
この暑さの中で、お茶を作り続ける。
それだけで、一つの家事だった。
佐伯は急に、「家庭」というものの大部分は、水と熱でできている気がした。
料理。
風呂。
洗濯。
冷房。
麦茶。
全部、水と温度だった。
文明とは、それを安定させることなのかもしれない。
しかし最近、その基盤が少しずつ揺れている。
猛暑。
電気代。
インフラ更新。
物流費。
ニュースでは、水道管破裂の話も増えていた。
古い管路。
更新不足。
人口減少。
佐伯は、自分の会社の仕事を思い出す。
インフラ系リース。
更新時期を延ばしながら、何とか回している現場を何度も見てきた。
壊れるまで使う。
完全には交換しない。
社会全体が、少しずつそうなっている。
だから突然、「水」が不安になる。
蛇口一つで。
休日、ホームセンターへ行く。
浄水ポット売り場には思った以上に人がいた。
ペットボトルのケースを台車で運ぶ夫婦もいる。
みんな、静かに「生活防衛」をしている。
投資とか、副業とか、そんな大きな話ではない。
もっと小さい。
涼しく暮らす。
安全な水を飲む。
子どもを熱中症にしない。
その維持だけで、金がかかる。
佐伯は浄水ポットを手に取った。
透明な容器だった。
中にフィルターが入っている。
シンプルだった。
でも、どこか現代的だった。
人はもう、「そのまま」を信用できなくなっている。
必ず一度、通さなければならない。
濾過。
認証。
比較。
口コミ。
社会全体が、何かを疑いながら回っている。
帰り道、夕方の空が白く霞んでいた。
暑さで遠くの景色がぼやけている。
佐伯はコンビニで冷たい水を一本買った。
キャッシュレス決済の音が鳴る。
ラベルには「天然水」と書かれていた。
昔なら、ただの水だったはずなのに。
橋の上で立ち止まり、一口飲む。
冷たかった。
それだけで少し安心する自分がいた。
佐伯はスマートフォンを取り出し、メモを開く。
「水にも比較と契約が必要になった」
少し考えてから、もう一行書いた。
「生活の基礎ほど、高くなる」
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