46話「ここで悪魔との契約の代償をいただきます」

【朔人視点】

「……凛子さん」

 俺は慌てて自分のメガネをずらして涙を拭った。


 引き戸の前に立っていた凛子さんは、ゆらゆらとおぼつかない足取りで近づいてくると、そのままコトンと俺の胸に顔を埋めた。

 押し当てられた彼女の小さな肩が、小刻みに震えている。

「えっと……」


「……少しだけ、こうしてても、いい?」

 今まで聞いた、どの凛子さんでもない弱々しい声だった。

 自分の一番好きなキャラの死。きっと彼女も、俺と同じかそれ以上に、本当にユナのことが好きだったのだ。

「うん、いいよ」

 俺はどうしたらいいか分からなかった。

 気の利いた言葉なんて出てこないし、もちろん抱きしめる度胸なんてない。頭を撫でる勇気すらなかった。


 ただ突っ立ったまま、彼女に胸を貸す。


 静かな部屋に、凛子さんの鼻をすする音だけが響く。その悲痛な音につられるようにして、また俺の目からも涙が溢れてきた。

 ぽつり、と。

 俺の涙が、凛子さんの頭に落ちた。

「あっ、ごめん。涙が……」

 慌てて手で拭おうとすると。

「ううん……大丈夫」

 凛子さんが、そっと俺の腰に手を回してきた。

 ぎゅっと服を握りしめる彼女の温もりに触れ、俺は凛子さんの頭に落ちた涙を拭う流れのまま、優しくその頭を撫でた。


 サラサラの綺麗な黒髪を、震えそうな手でゆっくり、ゆっくりと撫でる。


 少しでも、目の前の凛子さんに元気を出してもらいたかった。俺は必死に頭を回し、少しおどけるように言葉を紡ぐ。

「でもほら、もしかしたら女神が復活させてくれるかも」


「……あの女神、すごい力はあるけど……毎回トラブルしか起こさないし、もう長いこと出てきてないし……」


「きっと、ここぞという時のための壮大な前振りだったのかも」

 俺が真面目な顔でそう言うと、凛子さんがゆっくりと顔を上げる。

「……そうだったら、嬉しいな」

 涙で濡れた顔のまま、凛子さんが少しだけ笑ってくれた。


 良かった。ちょっとだけ、いつもの凛子さんが戻ってきた。

「でも、もし次の十九巻で即復活してたら、こんなに大泣きしてた俺ら、めちゃくちゃ恥ずかしいね?」


「もう……その時は、二人だけの秘密だよ?」


「うん、そうしよう」

「朔くん、優しいね?」


「お役に立てて……あ、嘘、ごめん」

 ついユナの言葉が出そうになってしまい、俺はハッとして慌てて口をつぐんだ。


「ふふっ、大丈夫だよ。今日、朔くんがいてくれて良かった。一人だったらホントにヤバかった……それくらい、ユナには思い入れがあったから」

 少し明るさを取り戻した声で、凛子さんが至近距離から俺の目を真っ直ぐに見つめ返す。そして、静かに口を開いた。

「ねぇ、朔くん。私がユナのこと一番好きな理由……聞いてくれる?」


 和室の壁に二人並んで寄りかかり、座布団に腰を下ろす。


 ひとしきりユナの死を悼んだ後、凛子さんはポツリポツリとユナとの出会いを語り始めた。


 彼女が中一だった頃の話だった。以前、お父さんと一緒にジョギングをした時に、それとなく聞いていた過去の話。

「それでね、お母さんが亡くなったあとに読んだ五巻の最後に出てきた奴隷少女が、なんだか自分と重なって……続きがずっと気になってたの。この女の子は、幸せになれるんだろうかって」


「うん……」


「でね? 六巻が出て、初めて一人で本屋さんに行ったんだけどね?」


「うん」


「そこに最後の一冊を、先に手に取った男の子がいたの」


「えっ?」

 あの時の女の子って……。


 俺は思わず、メガネ姿の凛子さんをまじまじと見つめた。

「その男の子が、『女の子優先だから』って譲ってくれたの。私その頃、学校でいじめられてて女の子扱いされてなかったから、それがすごく嬉しくて」


「俺……そんなこと言ったかな……」


「うん、言ったよ。そこから私……ユナみたいになりたいと思って……頑張って来たんだよ?」


 あの女の子は凛子さんだったんだ。

 こんな運命的な出会いってあるんだろうか。


「だから私の中で……朔くんは恩人なの。譲ってくれたあの日が……私の起点なの」

 恩人。

 そんな大層な言葉に、なんて返したら良いか分からなかった。戸惑っていると、凛子さんがふふっと悪戯っぽく笑う。

「あれ? 朔くん……今だよ? 『お役に立てて嬉しいです』は」


「いや、俺はただ本を譲っただけだし……」


「ううん、ホントに感謝してるの。だから今、こうして一緒にいられるのがすごく、嬉しい」

 そう言って、凛子さんは顔を真っ赤に染めてはにかんだ。

 えっと……あれ?

 ひょっとして俺と凛子さんって、ホントに両想いなのか……?

 マコ姉が言っていた『両片想い』という言葉が脳裏をよぎる。


 楓は、俺が凛子さんを好きなのを知っている。もし、マコ姉も凛子さんの俺への気持ちを知ってて、二人で結託して盛り上がっていたのだとしたら……。


「えっと、その……俺も、すごく嬉しい」

 俺はしどろもどろになりながらも、なんとかそれだけを返した。


 俺はただ本を譲っただけだし、今の俺にとっては凛子さんの方がよっぽど恩人で、どれだけ感謝してもしきれない存在なんだ。

「だからね、朔くん。私、朔くんのことが……えっと」

 もじもじと視線を泳がせながら、凛子さんがその先の言葉を紡ごうとする。


​ ――ダメだ。


 身勝手なのは重々承知だが自分から言いたい。ちゃんと結果を残して、あの時俺に声をかけて良かったって、心の底から思ってもらいたい。

「あのね、凛子さん。俺も、ホント感謝してるんだ。凛子さんがいなかったら、今頃ずっと引きこもってたかも知れないし。だからその、ちゃんと結果を見せたいと言うか……」

 心臓が早鐘のように鳴っている。


(えーい、もう言ってしまえ!)

「俺、凛子さんのことが好きだから。ちゃんと結果を残して、俺から告白したい!」

 静かな和室の中で、俺の言葉がはっきりと響いた。


 至近距離で、真っ直ぐに見つめ合う。

 顔が、ありえないくらい熱い。

 ポカンと目を見開いていた凛子さんは、みるみるうちに顔を限界まで赤く染め上げると、少しだけ恨めしそうに唇を尖らせた。

「さ、朔くんズルいよ……私のほうが、長いこと、好きなのに」


「そ、そこは、その……女神の慈愛と言うか、引いてくれると助かります」


「私、ホントは女神でも何でもないからね?きっとあの罰ゲームの時だって、嘘告されてたのが朔くんじゃなかったら声かけてないし」


「俺にとっては女神だから。それに、最初に自分のこと女神って言い出したの凛子さんだからね? 女神の称号がなくなったら悪魔だけ残っちゃうよ?」

 俺が少しだけからかうように言うと、凛子さんはぷいっと顔を背けた後、ふふっと悪戯っぽく笑った。

「分かった。そんなこと言うんなら、ここで悪魔との契約の代償をいただきます」


「なんで?」


「いいの! ……じゃあ代償は『告白する権利』……次の学力テストで勝ったほうが、ご褒美に『告白出来る』ってのはどう?」

 ――勝ったほうが、告白できる。


 なんだそれ。あの最低だった罰ゲームの嘘告と、全く真逆の勝負じゃないか。


 でも、元々そのつもりで勉強を頑張ってきたんだ。望むところだ。

 俺は真っ直ぐに凛子さんの目を見て、力強く頷いた。

「分かった。受けて立つよ」


 その後もしばらくの間、俺たちは壁に寄りかかり、肩を寄せ合って座っていた。


 言葉はなくても、ただ隣に彼女の温もりを感じているだけでいい。これまでの人生で、間違いなく一番心地よい時間だった。


 それからも、夏休みはあっという間に進んでいく。


(絶対に、負けたくない)


 お盆にお互いが親の実家に帰省した数日間を除いて、俺たちは毎日欠かさず朝活を続けた。


「お互い好きって知ってるのに告白勝負って、謎なんだけど……」


「楓ちゃん、あれが『ランクアップした鈍感主人公』と『初恋拗らせ乙女ヒロイン』の顔だよ?」


「マコ姉、今回も勉強になります!」


 ときどき楓が寝ぼけ眼で参加しては、マコ姉と二人、ニヤニヤ顔で冷やかしてくる。


 楽しみにしていた花火大会は、残念ながら雨で中止になってしまったけれど。「来年は、一緒に行きたいね」なんて、少し照れくさそうに笑い合いながら、俺たちはひたすら勉強に励んだ。


 終盤には楓も一緒に美容室に行った。カットが終わった楓は大はしゃぎ。兄の目から見ても三割増くらいで可愛くなっていた。レイさん恐るべし。


 本当に充実した、かけがえのない夏休みだった。

 そして迎えた、二学期の始業式。


 学校の始業時間に合わせて、朝活の集合時間は六時半に変更になった。


 制服に着替え、凛子さんと肩を並べて歩く念願の登校。他愛のない会話を交わしながら学校へ向かい、少し新鮮な気持ちで自分たちの教室の扉を開ける。

 ふと見渡すと、一条由夏の机がなくなっていた。


 ホームルームで先生から詳しい説明はなかったけれど、どうやら長期停学処分を受けて、そのまま自主退学したらしい。


 少しだけ教室内がざわついていたけれど、俺の心は不思議なほど凪いでいた。もう、今の俺には全く関係のないことだ。

 その翌日には、早速勝負の『学力テスト』が実施された。


 手応えは……我ながら、なかなかの出来だったと思う。夏休みの間、凛子さんと一緒に積み重ねてきた努力は、すべて答案用紙にぶつけてきた。


 そして、数日後。

 運命の、順位発表の日がやってくる。

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