28

周囲と同じようにスーツ姿ではあるものの、柊音無の席は長机のいちばん端、末席だった。ネクタイも締めていない。


別に周囲と違う格好をしたいわけじゃない。ただ、首にはすでに黒い電子首輪が嵌まっている。その上からさらにネクタイまで締めようものなら、想像しただけで息が詰まりそうだった。


束縛も、拘束も。訓練も、懲罰も。


十六歳までは、それが当たり前だった。すべてが日常だった。


けれど、十六歳を境にすべてが変わった。


不快な記憶を頭の隅へ追いやり、音無は意識を目の前の会議資料へ戻した。


それはStyxに関する、自分でまとめた内部資料だった。井上に提出する前に一度選別し、さらに井上の手でももう一度ふるいにかけられている。


今、この場に並んでいるのは、そうして二重に選別された情報だけだ。


真実ではある。だが、それは世間が受け入れやすいよう加工された真実でもあった。


音無には、その意図がよくわかっていた。


この男は聡明で隙がなく、正義感も強い。常に全体を見て判断する男だった。


だからこそ、既存のルールの中で利害を調整し、多くの人間が納得できる着地点を探ることに長けている。


白か黒かを選ぶ人間ではない。井上自身が、その髪色と同じ灰色だった。対立を調整し、均衡を保ちながら、既存の枠組みを壊さない範囲で、自分が正しいと信じる方向へ物事を動かしていく男だった。


武器密輸、人体実験、薬物による支配、カルトの浸透――そんな資料をそのまま会議の場に並べれば、この場にいる警察官は誰もが憤りを覚え、今すぐ特殊部隊を送り込みたくなるだろう。


だが、Styxが日本のみならず東アジア全域で展開する傘下企業や関連事業、そして子どもたちの脳から抽出された実験データが、今なお精神医療の現場を支えていると知れば――。


誰もがペンを置き、判断をためらう。


「……もう少し穏当なやり方はないのか」


もしあの馬鹿がここにいたなら、きっと机を叩いて声を荒らげる。


「それとこれとは別だろ! そんなもので帳消しになるわけないだろ!」


周囲がどう見ようと、最後まで自分の正義を曲げない。


――だが、ここにあの馬鹿はいない。


この会議室にいるのは、もう一人のキャリア組のエリートだった。


井上は決して正義感のない人間ではない。だが、トロッコ問題を前に立ち止まる男でもなかった。たとえ線路の上に縛られているのが自分だったとしても、自らの命と引き換えに大勢を救うことを、躊躇なく選ぶだろう。


だが、井上が選ばれる側に回ることは決してない。


レバーは、いつだって彼の手の中にある。


音無が待っていたのは、最初から井上ではなかった。


会議は何事もなく終わった。案の定、Racingと大場譲治については最後まで触れられることはなかった。


人の去った会議室には、空調の低いうなりだけが響いている。


音無は席を立たず、井上は黙って資料を片づける。


次に何を話すことになるのかは、二人ともわかっていた。


だからこそ、どちらも気が重かった。


「会議じゃRacingの件、まったく出ませんでしたね。まだMyosotisを犯人扱いしてる人も多そうですよ」


「公安はそんなことには興味がない。俺たちが知りたいのは、大場が何者だったのか、Styxがなぜあそこまで派手に大場を殺したのか、それだけだ。だからお前と泉上の線を追っていた。ここまで早く繋がるとは思わなかった」


「じゃあ、せめて誤解くらい解いてくれてもいいじゃないですか。完全に濡れ衣なんですけど」


「そんなものは重要じゃない。『泥棒を捕まえなくても国は滅びないが、左翼をのさばらせれば国が滅ぶ』。Myosotisを摘んだところで、Racingがいる。その先には、まだ――Parsley、Sage、Rosemary and Thyme」


井上は机の上の資料を揃えると、静かに音無を見た。


「お前をどうしても挙げたがってる捜査一課――とりわけあの課長に比べれば、公安のほうがずっと寛容だ。まだこちらにとって都合がいい。この場にいる連中なら、言われなくても分かっている」


「公安が見ているのは、本当にStyxだけですか」


井上は鼻で笑った。


二人は前後して会議室を出た。


黒い革靴の音が、廊下にコツコツと響く。首輪の鬱陶しい振動と重なり、その音は小槌で鼓膜を叩くように絶えず耳にまとわりついていた。


不思議なことに、外が騒がしいほど、思考は妙に研ぎ澄まされていく。


セーフハウスへ戻ると、音無はパソコンを立ち上げ、長年蓄積してきたデータベースを開いた。


Styx。


Styx。


Styx。


積み重ねてきた膨大な記録に、一行ずつ目を走らせていく。


十六歳――狙撃手から情報官へ転じた。それはStyxの決定ではなく、自らの判断だった。


下っ端の情報官として一から身につけたのは、情報ルートと暗号化したVPN経路を築き、膨大なデータの海から必要なものだけを拾い上げ、監視の目をかいくぐって持ち帰る術だった。


組織構成、構成員リスト、資金源、行動パターン、国際犯罪ネットワークとの接点――そうした情報を、一つひとつ暗号化済みのオフラインドライブへ蓄積していった。


誰も気にも留めない。Styxでは、D級情報官など存在しないも同然だった。検索履歴を書き換え、複数部署のデータベースへ足跡を残さず潜り込む。D級に押し付けられる煩雑な情報整理や分析業務は、そのための格好の隠れ蓑だった。


情報官へ転じたからといって、StyxがSSS級狙撃手という刃を手放すはずもない。その後も、誰にも代えの利かない狙撃任務は、変わらず自分のもとへ回ってきた。


睡眠はとうに贅沢だった。薬で無理やり意識を繋ぎ止める毎日だった。情報を拾い集めるだけで精一杯で、それが何を意味するのかを考える余裕など、あの頃の音無にはなかった。


ただ何度も自分に言い聞かせていた。


今はまだ役に立たなくても、「きっと警察官になる人」がいつか自分の前に現れた時、それらはきっと何より強い武器になるのだと。


その人は井上ではなかった。


その人が決断する前に、自分が先に答えを出さなければならない。


画面のカーソルが点滅を繰り返していた。音無はページをスクロールさせながら、内容へ目を走らせた。Styx傘下企業、事業展開、経済効果――そうした記述はすべて読み飛ばした。それは井上のような「レバーを引く側」の人間が考えるべきことだ。


音無は、線路に縛られるほうの人間だ。


知りたかったのは、ただ一つ。


自分やほかの子どもたちから得られた実験データは、いまどこにあり、何のために使われているのか。


――93.7%。


それは何を意味するのか。


「無条件に同情するつもりはない。過去を隠していたからといって、それだけでお前を憎むつもりもない――」


あの夜、泉上光は確かにそう言った。


だが、それが理由で隠していたわけではない。正確に言えば、音無自身も知らなかった。


93.7%という数字を耳にしたのも、その時が初めてだった。


ただ、Racingがこめかみを指したあの仕草だけは、妙な胸騒ぎを残した。


そんなことを考えながら読み進めていた音無の視線が、ある一節で止まった。


『――提供された縦断的神経マッピングデータを基に、第三相臨床試験を完了。脳波および行動反応を観測した結果、本治療法は双極性障害などによる躁状態にあり、強い攻撃性を示す患者に対して高い有効性を示した。現在、本データを基に承認申請へ向けた準備が進められており、数年以内の実用化を見込んでいる――』


音無は無言でその一文を読み返した。


一度では足りず、何度も。


首元の電子首輪は明滅を繰り返していた。だが、自分が監視されていないことだけは確信していた。


ここにいる連中は、正しい結果のためなら手段など気にしない。


もし疑われているのなら、とっくに適当な罪を着せられて、身柄を確保されていたはずだ。


音無はさらに古い資料を開いた。


記録は二〇〇五年前後まで遡る。手書きの記録をスキャンしたものも混じっており、文字はところどころかすれていた。


当時は、とにかく片っ端から保存していただけだった。いつかそれらを繋ぎ合わせることになるとは、思ってもいなかった。


Styxはその頃から、海外で子どもを買い集め、あるいは誘拐によって連れ去り始めていた。


同時に、各地では「心のケア」を掲げた互助会を設立し、子どもを失った家族の心の支えとして活動していた。


だが、その実態は資金集めを目的としたカルト団体にすぎない。心理相談や精神的支援を名目に、詐欺まがいの手口で資金を集めていた。


さらに東アジア各地へ闇金融の網を張り巡らせ、返済不能に陥った家庭から、借金のカタとして子どもを奪っていく。


精密で、残酷なシステム。


巨大な肉挽き機。


二〇〇五年を境に、その巨大な仕組みは強引に動き始め、一見まともな世界を内側から蝕んでいった。


線路の片側――アウシュヴィッツへ続く側の線路に縛られた子どもたちは、Myosotisとなり、Racingとなった。


またある者は論文の図表となり、統計となり、精神疾患の患者の枕元に置かれる新薬へと姿を変えた。


その薬は、すべてを知り、嘆き、それでもさまざまな理由から沈黙を選んだ人々の目の前で、患者を救っていく。


次に追うべきは二〇〇五年に何があったのか――そのはずだった。


だが、音無は顔を覆った。


――もう一方の線路は、本当に天国へ続いているのだろうか。


――そこもまた、アウシュヴィッツだった。

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