第2話 変わらない男
柴崎黎人は、人生のだいたいを誰かのせいにして生きてきた。
学校に馴染めなかったのは、教師が自分を理解しなかったから。
友人ができなかったのは、周りの人間が浅くて愚かだったから。
仕事が続かなかったのは、上司が無能で、職場の空気が悪く、社会が自分のような繊細な人間を受け入れなかったから。
40歳になった頃には、言い訳の種類だけはかなり豊富になっていた。
ただし、言い訳が増えても収入は増えなかった。
黎人は実家の2階にある自室で暮らしていた。暮らしていた、というより、沈殿していたと言ったほうが近い。
畳の上には服、菓子の袋、空のペットボトル、いつ洗ったのかわからないタオルが積もっている。カーテンはほとんど開けない。部屋の隅には古い漫画と、途中で飽きた健康器具と、何年も前に買った安い筋トレ用品が埃をかぶっていた。
黎人はそれらを見ない。
見ると嫌な気分になるからだ。
嫌な気分になることは、なるべく見ない。それが彼の生活方針だった。
彼がよく見ていたのは、ひびの入った古いスマホの画面である。画面の端は黒く滲み、バッテリーは膨らみ、充電ケーブルは曲がった角度でないと反応しない。それでも黎人は使い続けた。
新しいものを買う金がなかったからではない。
正確には、親に頼めば買ってもらえたかもしれない。だが頼むと、必ず小言がついてくる。
働け。
外へ出ろ。
病院へ行け。
少しは部屋を片づけろ。
それらの言葉は、黎人にとって攻撃だった。
だから頼まなかった。
頼まない代わりに、心の中で親を責めた。自分の子どもが困っているのに察しない親が悪い。言わなくてもわかるべきだ。わからないなら親として失格だ。
そんなことを考えながら、黎人は布団の中で動画を眺めていた。
昼なのか夜なのか、部屋の中ではわかりにくい。スマホの画面だけが明るく、そこに流れる短い動画とコメント欄だけが、彼にとっての世界だった。
コメント欄では、誰かが誰かを責めていた。
黎人はそれを見るのが好きだった。
自分以外の誰かが叩かれていると、少しだけ気分がよくなる。自分の部屋が汚くても、収入がなくても、将来の予定がなくても、その瞬間だけは自分が正しい側にいるような気がした。
「こいつら、ほんと何もわかってないな」
黎人は画面に向かって呟いた。
声はかすれていた。まともに人と会話していない期間が長いと、声も使い方を忘れる。
その日、両親は朝から出かけていた。
家の中は静かだった。下の階で母が食器を片づける音も、父が新聞をめくる音もない。黎人はその静けさに安心していた。
誰も自分を呼ばない。
誰も階段の下から名前を叫ばない。
誰も扉の前でため息をつかない。
それは、黎人にとって理想的な時間だった。
古いスマホは、充電器につながれたまま熱を持っていた。画面の裏側が妙に膨らんでいることには、黎人も気づいていた。気づいていたが、気づかなかったことにした。
危ないかもしれない。
そう思うたびに、彼は別の考えを持ち出した。
メーカーが悪い。こんな壊れやすいものを作るのが悪い。そもそも親が新しいスマホを買ってくれないのが悪い。自分で買えない社会が悪い。
結論はいつも同じだった。
自分は悪くない。
黎人は布団に潜ったまま、動画を見続けた。
まぶたが重くなる。
スマホの熱が手のひらに伝わっている。
画面の中では、また別の誰かが炎上していた。
それを眺めながら、黎人は眠った。
最初に変化したのは、匂いだった。
焦げたような匂い。
次に、小さな音がした。
ぱち、と何かが弾ける音。
黎人は目を開けなかった。夢の中でも、面倒なことは後回しにした。
だが、次の音は大きかった。
ばちり、と火花が散り、布団の中でスマホが異様な熱を持った。
「あつっ」
黎人はようやく目を開けた。
布団の上で、スマホが煙を上げていた。充電ケーブルの根元が焦げ、膨らんだ本体の隙間から火が出ている。
彼は慌ててスマホを投げた。
投げた先が悪かった。
床に積まれた紙袋と古雑誌の山に、火のついたスマホが落ちる。
乾いた紙はよく燃えた。
「え、え、ちょ、待てよ」
黎人は布団から這い出ようとした。
足元に服が絡まった。何枚も重なった服とタオルが、彼の動きを邪魔する。立ち上がろうとして膝をつき、手をついた場所に空のペットボトルが転がり、さらに体勢を崩した。
火は、彼の動きよりずっと早かった。
雑誌から服へ。服からカーテンへ。カーテンから壁へ。
煙が部屋を満たす。
黎人は咳き込みながら、ドアへ向かった。
だが、散らかった部屋は迷路のようになっていた。ほんの数歩の距離が遠い。足の裏に何かが刺さり、彼は悲鳴を上げた。
「なんでだよ、なんでこうなるんだよ」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも彼は責めた。
スマホを。
親を。
メーカーを。
片づけろとうるさかった母を。
もっと早く助けに来ない父を。
自分だけをこんな目に遭わせる世界を。
煙で視界が白く濁る。
熱が肌を刺す。
ドアノブに手を伸ばしたつもりだったが、指は空を掴んだ。
黎人は膝から崩れた。
最後に見たのは、黒く焼けていく天井だった。
そして、思った。
自分は何も悪くない、と。
次に目を開けたとき、彼は白い石の床に座っていた。
周囲には知らない人間がたくさんいる。
金色の椅子に座る老人。黒いローブの大男。鎧を着た兵士。見慣れない服を着た女たち。
誰もが自分を見ていた。
黎人はしばらく状況を理解できなかった。
火事はどうなったのか。
ここはどこなのか。
なぜ自分は床に座っているのか。
目の前の人間たちは、何を言っているのか。
言葉が聞こえる。
だが、意味がわからない。
外国語のようで、外国語ですらない。音だけが耳に入って、頭の中でほどけて消える。
黎人は口を開いた。
助けてくれ、と言いたかったのかもしれない。
ここはどこだ、と言いたかったのかもしれない。
あるいは、なんで自分がこんな目に、と文句を言いたかったのかもしれない。
だが、喉から出たのは掠れた音だけだった。
周囲の人間が顔をしかめる。
黎人は腹が立った。
自分は何もしていない。
なのに、なぜそんな目で見られなければならないのか。
黒いローブの男が何かを言い、手をかざした。光が体をなぞる。黎人はそれを見て、さらに混乱した。
魔法のようだった。
いや、魔法そのものだった。
もしかして、異世界か。
黎人の頭に、そんな考えが浮かんだ。
動画や漫画でよく見る展開である。現実でうまくいかない男が、別の世界で特別な力を得て活躍する。見返してやる。認めさせてやる。自分を馬鹿にした奴らを後悔させてやる。
黎人は、少しだけ期待した。
だが、その期待は周囲の反応で冷えていった。
老人は怒っている。
兵士は困っている。
侍女は近づきたくなさそうにしている。
誰も、自分を英雄を見る目で見ていなかった。
剣を渡された。
黎人は反射的に握ろうとした。
重かった。
手から落ちた。
金属の音が広間に響く。
彼は驚いて肩を震わせた。誰かに責められる前に、心の中で言い訳を探した。
こんな重いものを渡すほうが悪い。
持ち方を教えないほうが悪い。
いきなり知らない場所へ連れてきたほうが悪い。
短剣も、槍も、弓も、うまく扱えなかった。
誰かが何かを言うたびに、周囲の表情が暗くなる。
黎人には内容がわからない。
ただ、自分が歓迎されていないことだけは、ぼんやり伝わった。
やがて、2人の侍女が近づいてきた。
彼女たちは黎人の腕を取った。手袋越しでも嫌がっているのがわかる。
黎人は少し嬉しかった。
若い女に触れられることなど、前の世界ではほとんどなかったからだ。
だが、その嬉しさはすぐ不満に変わった。
侍女たちの表情が冷たい。
もっと優しく扱うべきだ、と黎人は思った。
自分はたぶん勇者なのだ。
詳しくはわからないが、こういう場合、だいたい勇者である。
なのに、なぜ誰も頭を下げないのか。
なぜ誰も説明しないのか。
なぜ自分がこんなに不安なのに、誰も気を遣わないのか。
廊下へ連れていかれながら、黎人は何度も振り返った。
玉座の間にいる人々は、まだ難しい顔をしている。
彼は自分が何を期待されているのか知らなかった。
何を失望されたのかも知らなかった。
ただ、ひとつだけ前の世界から変わらないものがあった。
この状況は自分のせいではない。
黎人は、そう思った。
異世界に来ても、最初に彼が手に入れたものは力ではなかった。
反省しない心だった。
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