第2話 小川のほとりで
リオルが沢跡へ落ちた日の夜、エルデン家の灯りは遅くまで消えなかった。
暖炉の火は、いつもより強く燃えていた。
父のベルクが、薪を入れすぎたのだ。
「もう十分よ」
母のエマが言う。
「いや、冷える」
「部屋の中が暑いくらい」
「リオルが冷えたら困る」
「その前に私たちが干からびるわ」
普段なら、リオルはそこで少し笑っていたと思う。
けれどその夜のリオルは、寝台の上で毛布に包まれたまま、黙って天井を見ていた。
梁に吊るされた薬草が、暖炉の熱でかすかに揺れている。
乾いた葉の匂い。
薪の爆ぜる音。
母が濡れ布を絞る水音。
父が何度も椅子から立ち上がり、また座る気配。
どれも、よく知っている家の音だった。
それなのに、リオルの耳の奥には別の音が残っていた。
骨が折れる音。
自分の喉から出た悲鳴。
湿った土の上を走った、あの黒い線。
『負債を記録した』
その声を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなった。
「リオル」
母の声がした。
「本当に痛いところはない?」
何度目か分からない質問だった。
リオルは小さく頷いた。
「ない」
「頭は?」
「大丈夫」
「足は動く?」
リオルは毛布の下で足の指を動かした。
動いた。
何の痛みもない。
昼間、あの足は折れていた。
ありえない方向を向いていた。
骨の中に焼けた釘を打ち込まれたみたいな痛みがあった。
それなのに、今は動く。
母はほっとしたような、余計に不安になったような顔をした。
「……本当に、よかった」
その言葉は震えていた。
父が、寝台のそばで腕を組んだ。
「ミナは、かなり泣いていた」
「……うん」
「おまえが下で叫んでいたから、酷い怪我だと思ったらしい。沢跡の上からは枝と岩が邪魔で、よく見えなかったそうだ」
「うん」
「実際、血は出ていた」
父の声が少し硬くなる。
「落ち葉と土に、かなり残っていた。今のおまえの傷を見ると、どうしても合わん」
リオルの喉が詰まった。
父は字が得意ではない。
難しい言葉も、王都の知識も、魔法の理屈も知らない。
けれど森の男だった。
獣の血も、人の怪我も、木から落ちた者の体も見たことがある。
だから、気づく。
気づいてしまう。
「ベルク」
母が静かに呼んだ。
父はそこで口を閉じた。
大きな手で顔をこすり、深く息を吐く。
「……すまん。今は休ませるべきだな」
リオルは毛布を握った。
言えない。
ヴェスタのことを言えない。
出資者と言われたことも、追加投資を受けたことも、何かを返さなければならないらしいことも。
言えば、父はどうするだろう。
母はどうするだろう。
魔法か。
呪いか。
悪い精霊か。
神の奇跡か。
どれにしても、きっと両親は自分を守ろうとする。
守ろうとして、何かを差し出そうとするかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、リオルの手足が冷えた。
失いたくないもの。
手放したくないもの。
そういうものまで、あの声に数えられている気がした。
リオルは目を閉じた。
見てはいけないものを、頭の中に思い浮かべてしまった気がした。
「父さん」
「どうした」
「……今日は、一人で寝られる」
父はひどく傷ついた顔をした。
「そうか」
「でも、隣の部屋にいる」
母がすかさず言った。
「何かあったらすぐ呼んで。声が出なかったら壁を叩いて。足で床を蹴ってもいいわ。ベルクが飛んでくるから」
「母さんは?」
「私はベルクを踏んででも先に行くわ」
「俺は踏まれるのか」
「あなたが邪魔な場所に寝ていたらね」
父が困った顔をする。
母が少しだけ笑う。
そのやり取りは、いつも通りのはずだった。
なのにリオルは笑えなかった。
温かい。
ここは温かい。
だから怖い。
父の声も、母の手も、ミナの泣き顔も、今までと同じはずだった。
けれど、一度あの声を聞いてしまうと、同じものには見えなかった。
リオルは毛布を握りしめた。
◇
翌朝、リオルの体には傷らしい傷がほとんど残っていなかった。
頬に薄い切り傷が一本。
左腕に擦り傷。
服は裂け、血はついていたが、肝心の体は何事もなかったように動いた。
母は何度も首を傾げた。
「薬草が効いた……にしては早すぎるわ」
「神様のご加護じゃないか」
様子を見に来た隣家のリーナが、両手を合わせて言った。
「リオルくん、きっと守られているのよ」
リオルは曖昧に笑った。
守られている。
その言葉は、妙に気持ちが悪かった。
守ってくれたのだろうか。
あれは、本当に守るというものだったのだろうか。
ヴェスタは痛みを消した。
体を治した。
リオルを助けた。
けれど、助けて終わりではなかった。
負債を記録した。
資産形成を待つと言った。
守られているというより、値札を貼られたような気がした。
「リオル」
小さな声が戸口から聞こえた。
ミナだった。
いつもなら勢いよく家に入ってくる彼女が、その日は扉の陰に半分隠れていた。
栗色の髪は乱れていて、目元が赤い。たぶん昨夜、泣き疲れて眠ったのだろう。
「入っていい?」
「うん」
ミナはそろそろと入ってきた。
後ろからトマスが顔を出す。
「ほら、行ってこい。リオルは怒ってない」
「お父さんは黙ってて」
「はい」
リーナがトマスの袖を引っ張り、二人で外へ出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、リオルとミナだけが残った。
ミナは寝台のそばに立ち、ずっと床を見ていた。
「昨日は、ごめん」
「ミナのせいじゃない」
「でも、私が木の実を取ろうとしたから」
「僕が勝手に走っただけだ」
「でも」
「ミナが落ちなくてよかった」
そう言うと、ミナの顔が歪んだ。
「よくないよ」
「え?」
「リオルが落ちたら、よくない」
ミナは両手を握りしめていた。
いつも何でも言い返してくる彼女が、声を震わせている。
「下から、すごい声がした。血も見えた。でも枝が邪魔で、リオルがどうなってるのか分からなくて。私、怖くて、走って、大人を呼んで……その間にリオルが死んじゃったらどうしようって」
死んじゃったら。
その言葉に、リオルの喉が引きつった。
死なない。
リオルは、もう死なないらしい。
けれど、そんなことを言えるはずがなかった。
「死んでない」
「うん」
「大丈夫」
「うん」
ミナは頷いた。
そして、ぽろぽろと泣き始めた。
「でも、怖かった」
リオルは困った。
前世では、泣いている人の慰め方など知らなかった。
戦場で泣けば怒鳴られる。子どもが泣いていても、誰かが助けてくれるとは限らない。泣く声は、時には敵に居場所を知らせるだけだった。
今世でようやく、泣けば誰かが来ることを知った。
それでも、自分以外の誰かが泣いたときに何をすればいいのかは、まだよく分からない。
だからリオルは、毛布の端を握ったまま、小さく言った。
「……ごめん」
「なんでリオルが謝るの」
「泣かせたから」
「リオルは悪くない」
「ミナも悪くない」
「じゃあ何が悪いの」
ミナが涙を拭きながら聞く。
リオルは少し考えた。
「落ち葉」
「落ち葉?」
「あと、ぬかるんだ土」
「土も?」
「沢跡も」
ミナは鼻をすすった。
「じゃあ、三つとも怒っておく」
「落ち葉に?」
「落ち葉と土と沢跡に」
「沢跡には近づかない方がいい」
「それはそう」
ミナは泣きながら、少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、リオルの胸が締めつけられた。
ミナを失いたくない。
その思いが、あまりにも自然に湧いた。
そして、すぐに怖くなった。
そう思ったこと自体を、どこかに書き留められたような気がした。
リオルは慌てて視線を逸らした。
「リオル?」
「何でもない」
「痛い?」
「痛くない」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ変な顔しないで」
「変な顔って」
「昨日の私の人形みたいな顔」
「あれは怖い顔だろ」
「個性のある顔」
いつもの調子に戻りかけたミナを見て、リオルはようやく息を吐いた。
変わらないでほしい。
このまま、何も変わらないでほしい。
そう願った。
けれど、リオル自身はもう変わってしまっていた。
◇
それからしばらく、リオルは森に近づかなかった。
父は何も言わなかった。
ただ、薪拾いに誘うことが減った。
母も何も言わなかった。
ただ、リオルが外へ出るたびに、行き先を聞く回数が増えた。
ミナは、最初の数日はおとなしかった。
数日だけだった。
「リオル、外行こう」
「寒い」
「子どもは寒くても外で遊ぶものです」
「誰が決めた」
「私」
「またか」
「私の決まりは村の決まり」
「村長に怒られるぞ」
「村長は腰が痛いから追いつけない」
そう言って、ミナはリオルを外へ連れ出した。
行くのは森ではない。
村の中。
粉挽き小屋。
凍りかけた小川のそば。
教会の裏に積まれた古い石の前。
羊小屋の横。
ミナなりに、気を遣っているのだと分かった。
彼女は森へ行こうとは言わなかった。
沢跡の話もしなかった。
ただ、リオルが家の中で黙っている時間が長くなると、必ず扉を叩いた。
「リオル、生きてる?」
ある日、そう言って窓から顔を出したミナに、リオルは固まった。
「……生きてる」
「よかった」
「そういうことを言うな」
「何で?」
「何でも」
「変なの」
ミナは首を傾げた。
リオルは何も言えなかった。
生きている。
その言葉が、前よりずっと重くなっていた。
生きているのは、ただの事実ではない。
何かを借りている状態なのだ。
いつか返さなければならない。
返せなかったらどうなるのか。
何を取られるのか。
誰を巻き込むのか。
考えないようにしても、考えてしまう。
夜になると、リオルは夢を見た。
湿った土の上に黒い線が走る夢。
折れた足が、音を立てて戻る夢。
顔のない誰かが帳簿を開き、羽根ペンで名前を書く夢。
リオル・エルデン。
負債あり。
目を覚ますと、汗で寝間着が濡れていた。
母が気づいて飛んでくる夜もあった。
「怖い夢?」
リオルは頷けなかった。
怖い夢ではない。
怖い現実だった。
「大丈夫よ」
母はそう言って、額に手を当てた。
「母さんがいるから」
その手が温かいほど、リオルは苦しくなった。
この手を失いたくない。
だから、怖い。
◇
冬が終わり、雪が解けた。
沢跡に残っていた血の跡も、冬の雨と雪解け水で消えた。
黒い線は最初からなかったように、どこにも残っていなかった。
アルム村は、いつもの春を迎えた。
畑には人が出て、鍬が土を起こす。
羊の毛は伸び、子どもたちは泥を跳ね上げながら走る。
旅の商人が来て、塩と針と、王都の噂を広げていく。
王国の西で、また小競り合いがあったらしい。
どこかの領地で魔物が増えたらしい。
領都の教会には、銀の杖を持った神官がいて、傷口に手をかざすだけで血を止めるらしい。
村人たちは、へえ、と言って聞いた。
そして最後には、今年の麦の出来と税の心配に戻った。
リオルも、少しずつ日常に戻った。
戻ったように見えた。
ミナと小川へ行き、魚を逃がすミナを笑う。
リーナの焦げた焼き菓子を食べる。
トマスに芋を追加され、父に「食え、背が伸びる」と言われる。
母の薬草干しを手伝い、葉と茎を間違えて怒られる。
何も変わっていない。
そう思いたかった。
けれど、痛みへの恐怖だけは前より強くなっていた。
包丁で指を切ったとき、リオルは息が止まった。
血はほんの少しだった。
母なら笑って軟膏を塗る程度の傷だ。
それでも、指先に走った鋭い痛みが、沢跡での記憶を呼び起こした。
折れた足。
潰れた息。
終わらない痛み。
「リオル?」
母の声が遠く聞こえた。
リオルは膝をついていた。
指を押さえたまま、床を見ていた。
「大丈夫? どこを切ったの?」
大丈夫。
大丈夫だ。
指先の小さな傷だ。
死ぬような怪我ではない。
痛みもすぐ消える。
そう分かっているのに、体が震えた。
母がそっと手を取る。
「……怖かった?」
リオルは答えられなかった。
母は何も追及しなかった。
ただ、薬草を塗って布を巻いてくれた。
「痛いのは嫌よね」
そう言った母の声に、リオルは泣きそうになった。
嫌だ。
本当に嫌だ。
痛いのは嫌だ。
死ぬのは嫌だ。
死なないまま痛み続けるのは、もっと嫌だ。
◇
夏の終わり、村に一人の冒険者が来た。
商人の護衛ではない。
北の森の外縁を調べるため、村長に雇われた男だった。
革鎧は擦り切れ、片方の頬に古い傷がある。
腰には短めの剣、背中には弓。
年は父より少し若いくらいに見えた。
村の子どもたちは、すぐに集まった。
「魔物を見たことある?」
「王都に行ったことある?」
「宝って本当にあるの?」
冒険者は面倒くさそうに答えていたが、嫌がっているわけではなさそうだった。
「魔物はある。王都もある。宝は、あるところにはある。ないところにはない」
「強い?」
「俺がか?」
「うん!」
「強かったら、今ごろ領都のもっといい宿で寝てる」
子どもたちは笑った。
ミナは目を輝かせていた。
「ねえ、リオル。やっぱり冒険者ってすごいよね」
「危ない仕事だ」
「それはそうだけど」
「死ぬかもしれない」
「大人はみんなそう言う」
「本当にそうだから」
リオルの声が硬くなった。
ミナは彼の顔を見た。
「……リオルは、本当に嫌いだよね。冒険者とか、兵士とか」
「嫌いというか」
リオルは言葉を探した。
武器を持つこと。
誰かと戦うこと。
危ない場所へ行くこと。
命令されて前へ出ること。
全部、前世と繋がってしまう。
「怖い」
結局、それしか言えなかった。
ミナは少し黙った。
「そっか」
「笑わないのか」
「笑わないよ」
「いつも怖がりって言うのに」
「あれは、リオルが小さい虫から逃げたとき用」
「虫も怖いだろ」
「小さい虫は怖くない」
「飛ぶ虫は怖い」
「それはちょっと分かる」
二人は並んで、広場の冒険者を見た。
冒険者は村長と話していた。
北の森の奥で、獣の足跡に混じって妙な痕が見つかったらしい。爪が長く、足運びが歪で、普通の狼や熊とは違うと。
大人たちの顔が曇っていた。
「魔物?」
ミナが小声で言った。
「分からない」
「村まで来るかな」
「来ないよ」
リオルはすぐに答えた。
来ない。
来るはずがない。
森の奥の話だ。
村の近くには滅多に出ないと、みんな言っている。
自分に言い聞かせるように、リオルは繰り返した。
「来ない」
ミナは彼の横顔を見て、それ以上何も言わなかった。
◇
それから数日、村の大人たちは子どもたちに同じことを言い続けた。
北の森には近づくな。
林の手前でも一人では行くな。
夕方になる前に家へ戻れ。
妙な鳴き声を聞いたら、すぐに大人を呼べ。
リオルはもちろん守った。
ミナも守った。
守っていた。
少なくとも、最初のうちは。
「薬草?」
リオルは眉をひそめた。
秋が近い午後だった。
空は高く、雲は薄い。村の南では刈り取り前の麦が揺れている。
ミナは小さな籠を抱えて、リオルの家の前に立っていた。
「うん。お母さんが足を捻ったでしょ。エマさんが使う薬草、あの小川の近くにあったよね」
「母さんに言えばいい」
「言ったら、干した薬草はあるって。でも、腫れを冷ます湿布には、できれば生の葉のほうがいいんだって」
干した薬草は、煎じたり、粉にしたり、軟膏に混ぜたりするには便利だ。
冬でも使えるよう、母は秋のうちに何種類も束ねている。
けれど、捻った足の熱を取るには、潰したばかりの青い葉を布に包んで当てるのが一番いい。
母がそう言っていたのを、ミナは覚えていたらしい。
「エマさん、後で取りに行くって。でも忙しそうだったし」
「じゃあ後でいい」
「でも、早い方が痛くないでしょ」
痛くない。
その言葉に、リオルは反応してしまった。
ミナは続ける。
「北の森じゃないよ。小川の近く。村からそんなに離れてないし、前にも一緒に行ったところ」
「大人に言ってから」
「言ったら止められる」
「なら行くな」
「でも、お母さん痛そうだった」
ミナは唇を尖らせた。
「ちょっとだけ。すぐ戻る。リオルが嫌なら、私一人で行く」
「それが一番だめだろ」
「じゃあ一緒に来て」
リオルは黙った。
行きたくない。
北の森ではない。
危険だと言われている場所でもない。
小川は村の東にあり、子どもだけで行ったことも何度もある。
それでも、村の外へ出るというだけで、胸がざわついた。
あの冒険者が言っていた妙な足跡。
大人たちの顔。
森に近づくなという声。
「ミナ」
「すぐ戻るから」
「約束できる?」
「できる」
「寄り道しない」
「しない」
「変な音がしたら戻る」
「戻る」
「奥には行かない」
「行かない」
ミナは少しだけ笑った。
「リオルは本当に心配性」
「心配されることばかりするからだ」
「じゃあ、ちょうどいいね」
「何が」
「私が動いて、リオルが止める。役割分担」
「止めても聞かないだろ」
「たまに聞く」
「たまにじゃ困る」
そう言いながらも、リオルは家の中へ戻り、母に声をかけた。
「小川の近くまで行ってくる」
母は薬草を刻む手を止めた。
「ミナちゃんと?」
「うん。薬草を見に行くだけ。すぐ戻る」
母は少し迷った顔をした。
「……生の葉があれば助かるけれど、危ないと思ったら諦めて戻ってきなさい」
「うん」
「北の森には近づかないで」
「近づかない」
「日が傾く前に戻ること」
「分かった」
「何かあったら、すぐ逃げるのよ。薬草なんて置いてきていいから」
リオルは頷いた。
母はまだ不安そうだったが、最後には布袋を渡してくれた。
中には、摘んだ葉を包むための端布が何枚か入っていた。
「間違えやすい草は採らないで。分からなかったらそのまま持って帰って」
「うん」
「それから、ミナちゃんを一人にしないこと」
「……うん」
その言葉が、妙に重かった。
◇
小川までの道は、いつもと同じだった。
村の畑を抜け、羊の柵の横を通り、低い丘を越える。
遠くに北の森が見えたが、二人が向かうのは東だ。
風は穏やかだった。
草の匂いがして、虫の声がする。
リオルは何度も周囲を見回した。
「そんなに見なくても、何もいないよ」
ミナが言った。
「分からないだろ」
「私がいる」
「ミナは魔物を追い払えない」
「石なら投げられる」
「それで逃げる魔物ならいいけどな」
「リオル、今日はいつもより怖がりだね」
リオルは答えなかった。
怖い。
たしかに怖い。
でも、それだけではない。
胸の奥に、ずっと違和感があった。
まるで見えない誰かに背中を眺められているような感覚。
ヴェスタ。
あの声は、沢跡に落ちたあと、一度も聞こえていない。
夢の中で何度も聞いたが、起きている間に現れたことはなかった。
それなのに、いなくなったとは思えなかった。
ヴェスタは、すぐに何かを求めてはこなかった。
ただ、待っている。
リオルには、そう思えた。
何を待っているのかは分からない。
けれど、分からないまま待たれていることが、ひどく気持ち悪かった。
その考えが嫌で、リオルは足元の石を蹴った。
「リオル」
ミナが少し真面目な声で呼んだ。
「何?」
「怖かったら、帰る?」
リオルは驚いてミナを見た。
ミナは前を向いたままだった。
「薬草は、なくても死なないし。お母さんは痛がるけど、エマさんが何とかしてくれるし。リオルが本当に嫌なら、帰ってもいい」
「……一人で行くって言ったくせに」
「あれはちょっと強く言っただけ」
「ちょっと?」
「だいぶ」
「自覚はあるんだな」
ミナは肩をすくめた。
「リオル、沢跡に落ちてから変だもん」
心臓が跳ねた。
「変?」
「うん。前から怖がりだったけど、今は怖がってるっていうより、何か隠してるみたい」
リオルは息を詰めた。
「隠してない」
「本当に?」
「本当」
嘘だった。
言った瞬間、胸の奥が少し重くなった。
ミナはじっと彼を見た。
それから、少しだけ笑った。
「まあ、言いたくなったら言えばいいよ」
「怒らないのか」
「怒るかどうかは内容による」
「だよな」
「でも、聞かないまま勝手に怒るのは違うでしょ」
ミナはそう言って、小川の方へ駆け出した。
「あ、あった! これじゃない?」
「走るな!」
「転ばないって!」
次の瞬間、ミナは石につまずきかけた。
「……」
「……転んでない」
「今のは転ぶ手前だ」
「転んでないから私の勝ち」
「勝負だったのか」
二人は川辺にしゃがみ込んだ。
母に教わった薬草は、湿った場所を好む。
細い葉が対になっていて、茎を折ると青い匂いが強く出る。摘んで時間が経つとその匂いも効き目も弱くなるから、湿布にするなら生の葉がいいのだと母は言っていた。
似た草もあるため、リオルは慎重に見比べた。
「これ」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
「母さんに確認してもらう」
「じゃあ根っこごと?」
「根は、いらないと思う。土がつくから」
「じゃあ、葉っぱだけ?」
「茎ごと少し。葉がばらばらになると使いにくいから」
ミナは真剣な顔で草の前にしゃがみ込んだ。
湿った土に膝をつき、草の根元を片手で押さえる。
それから、青い葉のついた茎を、葉が潰れないように一本ずつ折って籠へ入れていった。
途中で髪が頬にかかったのか、ミナは土のついた指で顔をぬぐった。
「リーナさん、足痛そうだったのか」
「うん。笑ってたけど」
「リーナさんは、たいてい笑ってる」
「だから本当に痛いか分かりにくいの」
「トマスさんは?」
「お父さんは大騒ぎしてた。『俺が代わりに捻る』って」
「意味が分からない」
「お母さんもそう言ってた」
ミナは笑った。
リオルも少し笑った。
穏やかな時間だった。
水の音がする。
風が草を揺らす。
ミナが泥のついた手で額の汗を拭い、顔に土の筋をつける。
「ミナ、顔」
「え、何?」
「土」
「どこ?」
「そこ」
リオルが指で自分の頬を示すと、ミナは反対側をこすった。
「取れた?」
「増えた」
「なんでよ」
ミナがむっとして、今度は袖で頬を拭う。
それでも薄く土は残っていた。
リオルは少しだけ笑った。
「こっち?」
「違う」
「じゃあ取って」
「自分で取れよ」
「見えないもん」
リオルはため息をつき、布袋から端布を出した。
ミナが顔を近づける。
近い。
リオルは一瞬だけ動きを止めた。
ミナの目は赤茶色で、光が入ると蜂蜜みたいに見えた。
頬には土がつき、鼻の頭にも少しだけ汚れがある。
「動くなよ」
「動いてない」
「喋ると動く」
「じゃあ早くして」
リオルは端布で、ミナの頬についた土をそっと拭った。
前世には、こんな時間はなかった。
誰かと並んでしゃがみ、薬草を摘んで、顔についた土を拭う。
それだけのことが、リオルにはまだ不思議だった。
「取れた?」
「たぶん」
「たぶんって何」
「少し残ってる」
「ちゃんと取ってよ」
「これ以上こすったら赤くなる」
ミナは鼻を鳴らした。
「じゃあ、今日はこれでいい」
「今日はって何だよ」
「次はちゃんと取って」
「次もやるつもりなのか」
「リオル、細かいの得意でしょ」
「そういう問題じゃない」
ミナは何も気づかず笑った。
そのとき。
リオルは、ふと顔を上げた。
虫の声がしていない。
川向こうの草むらが、がさりと揺れた。
二人は同時に顔を向けた。
風ではない。
風は、背中の方から吹いている。
「……兎かな」
ミナが小さく言った。
リオルは返事をしなかった。
草むらの向こうから、低い息遣いが聞こえた。
ぐるる、と喉を鳴らすような音。
リオルの体が動かなくなった。
音が似ていた。
前世で、壊れた車両の陰から聞こえた、負傷兵の喉鳴りに。
沢跡の底で、自分の喉から漏れた息に。
死に近いものが立てる、嫌な音に。
草が割れた。
最初に見えたのは、爪だった。
長い。
黒く、曲がっていて、土を抉っている。
だが、そのうち一本は根元から欠けかけていた。
前脚にも深い傷があり、乾いた黒い血が毛を固めている。
次に、毛。
狼に似ていた。
けれど狼ではない。
体が歪に膨らみ、背骨のあたりから骨の棘のようなものが突き出している。片目は潰れたように濁り、もう片方だけが黄色く光っていた。
口元から、黒い涎が垂れている。
腹のあたりにも裂けた傷があり、歩くたびに、黒い血が草へ落ちた。
弱っている。
リオルにも、それだけは分かった。
けれど、弱った魔物でさえ、十歳の子ども二人には十分すぎるほどの死だった。
リオルはまだ知らなかった。
それは、冒険者たちの間で黒涎狼――こくぜんろう――と呼ばれる魔物だった。
本来なら、村の小川沿いにいるものではなかった。
森の奥か、もっと人里から離れた場所にいるはずのもの。
けれど、そんなことは関係なかった。
魔物。
その言葉が、リオルの頭に浮かんだ。
「リオル」
ミナの声が震えていた。
「動くな」
リオルは囁いた。
自分の声とは思えないほど細かった。
魔物は二人を見ていた。
鼻をひくつかせる。
獲物を選ぶみたいに。
距離は近い。
川を挟んでいるが、浅い川だ。飛び越えられる。
逃げる。
逃げなければならない。
けれど足が動かない。
死にたくない。
その思いが、体を動かすのではなく、逆に縛りつける。
前世の戦場で、銃を握ったまま固まったあの瞬間と同じだった。
魔物の足が、水に入った。
小さな水音。
その音で、リオルはようやく息を吸った。
「走れ!」
ミナの手を掴む。
温かい。
細い。
失いたくない手だった。
二人は走った。
薬草の籠が転がり、中身が土に散らばる。
背後で水が跳ねる音がした。
魔物が川を越えた。
「リオル、どこへ!」
「村!」
村へ。
大人のところへ。
父のところへ。
助けを呼べば、きっと。
そう思った直後、背後から何かが飛んできた。
肩に衝撃。
リオルは地面に転がった。
「リオル!」
「止まるな!」
叫んだつもりだった。
けれど声はうまく出なかった。
背中が熱い。
痛い。
左肩から胸にかけて、何かに裂かれていた。
爪だ。
魔物の爪が、リオルの体を掠めた。
掠めただけで、これほど痛い。
リオルは歯を食いしばった。
立て。
立たなければ。
ミナが戻ってくる。
ミナが捕まる。
リオルは立ち上がろうとした。
魔物の影が、上から落ちた。
黄色い目。
黒い涎。
開いた口。
牙。
死ぬ。
そう思った瞬間、リオルの頭の奥で、忘れたかった声が響いた。
『前回の追加投資は未返済だ』
ヴェスタ。
あの冷たい声が、まるでずっとそこにいたかのように、静かに続けた。
『無条件の追加投資枠は残っていない。新たな対価の指定なしに、追加投資は実行できない』
魔物の牙が迫る。
リオルは、悲鳴を上げることもできなかった。
『ただし、君が今ここで差し出すものを指定するなら、話は別だ』
その言葉と同時に、リオルの視界の端で、ミナが振り返るのが見えた。
泣きそうな顔。
それでも、リオルの方へ戻ろうとしている足。
来るな。
来ないでくれ。
リオルは手を伸ばした。
声にならない声で、叫んだ。
魔物の牙が、リオルの喉元へ落ちてきた。
世界が赤く弾けた。
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