第117話 黒の厚み
吉岡メッキから連絡が来たのは、翌朝ではなかった。
朝の便より早く、吉岡本人が黒瀬精機へ来た。
軽トラックの荷台には、小さな箱が一つだけ載っている。
大きな荷物ではない。
だからこそ、直人は少し嫌な予感がした。
田端商会に頼む予定だった本回送は、前日の夕方に一部だけ前倒しになっていた。
吉岡が「一組だけ先に見る」と言い、修正試作の一組と、残り九組の入った箱を自分で持ち帰ったのだ。
元の形の控え一組だけは、黒瀬精機に残してある。
本来なら、田端が箱ごと運ぶ予定だった。
だが、吉岡は処理後の感触を一本目で見たいと言った。
黒瀬も、それを止めなかった。
九組全部を黒くしてから戻ってくるより、一本目で止まれる方がいい。
田端商会の本回送は、吉岡メッキでの処理確認後に回すことにしていた。
吉岡はいつものように、余計な挨拶をしなかった。
「一組だけ、先に処理した」
そう言って、作業台の上に箱を置いた。
中には、黒く処理された北河電機の金具が一組だけ入っていた。
昨日、黒瀬で逃げ加工を入れた修正試作の一組だ。
残り九組は、まだ吉岡メッキで処理前のまま止めてある。
吉岡はその横に、白い布で包んだもう一つの金具を置いた。
「こっちは未処理のまま」
黒い金具と、鉄の地肌のままの金具。
同じ形のはずだった。
同じ逃げを入れたはずだった。
だが、並べて置くと、見え方が違った。
黒い方は、角が少し丸く見える。
光の返り方も違う。
手に取る前から、直人には嫌な感じがあった。
森川修一が、旋盤を止めて近づいてきた。
「何か出ましたか」
吉岡は短く言った。
「通せ」
それだけだった。
直人は、北河から預かっている配線束のサンプルを取った。
昨日、何度も通したものだ。
未処理の金具へ通す。
入る。
バンドの頭も逃げる。
次に、黒く処理された金具へ通す。
途中で、わずかに引っかかった。
止まりはしない。
強く押せば通る。
けれど、昨日のようにすっと通らない。
森川の顔が変わった。
「……重いな」
「はい」
直人は、もう一度戻した。
ゆっくり通す。
同じ場所で、少しだけ抵抗がある。
吉岡は、それを黙って見ていた。
隆夫も事務所から出てきた。
「入らんのか」
「入ります」
森川が答えた。
「けど、昨日の入り方と違います」
吉岡が、黒い金具を指した。
「処理したら、肌が変わる」
それは当然のことだった。
だが、直人たちは昨日、その当然を甘く見ていた。
黒色亜鉛メッキ相当。
紙にはそう書いた。
吉岡も確認した。
油分、湿気、前処理、乾燥。
それでも、頭のどこかで「黒くなるだけ」と見ていた。
違う。
表面処理は、色を付けるだけではない。
金属の肌を変える。
厚みを変える。
滑り方を変える。
角の触り方を変える。
美智子も作業台へ来た。
「残り九組は」
「まだ処理してへん」
吉岡が答えた。
「一組目で止めた」
その一言で、事務所の空気が少しだけ緩んだ。
全部を黒くしてから気づいたわけではない。
吉岡が止めた。
それだけで、九組を失わずに済んでいる。
森川は、黒い金具を手に取って、指先で逃げの内側を触った。
「ここか」
吉岡が頷く。
「処理前にぎりぎりやった。処理後はぎりぎりを超える」
「削れば」
宮田悟が思わず言いかけた。
吉岡が宮田を見た。
その目が、いつもより少し鋭かった。
「処理後に削ったら、そこから錆びる」
宮田は、すぐに口を閉じた。
「すみません」
「謝らんでええ。けど覚えとけ」
吉岡は、黒い金具を指で押さえた。
「黒くした後に地を出したら、処理した意味がない。見た目だけならごまかせる。でも制御盤の中で湿気と油分があるなら、そこから来る」
森川が短く頷いた。
「処理前に逃げを作らなあかん」
「そうや」
吉岡は言った。
「黒くした後に直す仕事やない」
直人は、胸の奥で小さく息を吐いた。
昨日、現物は入った。
だから残り九組へ進めると思った。
だが、まだ途中だった。
金具は加工して終わりではない。
曲げて終わりでもない。
逃げを作って終わりでもない。
黒くなってからも、通らなければ意味がない。
美智子が、台帳を開いた。
「これは、現物条件追加やね」
「うん」
直人は頷いた。
「表面処理後の通り確認」
佐野真紀は、その横で静かに書いた。
北河先行分。
黒処理試し。
一組。
処理後、配線束通過時に抵抗あり。
残り九組、未処理で停止。
処理後削り不可。
処理前逃げ寸法再確認。
吉岡は、その文字を横目で見た。
「停止、でええ」
佐野は頷いた。
「止めたのは吉岡さんですね」
「そうや」
「記録しておきます」
吉岡は何も言わなかった。
だが、少しだけ顎を引いた。
森川は、未処理の金具を当て治具に置いた。
昨日作った逃げ加工用の当て治具だ。
黒い金具を横に置き、配線束を何度も通す。
そして、鉛筆でほんの少しだけ印を足した。
「広げるなら、ここです」
隆夫が覗き込む。
「深くするんか」
「深くというより、入口を丸くします。バンドの頭が擦るところだけ、角を殺す」
吉岡が言った。
「処理乗る分を見ろ」
「分かってます」
森川は短く答えた。
だが、その声には昨日より慎重さがあった。
昨日、向きを間違えかけた。
宮田に止められた。
森川自身も、それを忘れていない。
今度は、黒い金具を横に置き、未処理の方を削る。
加工量は、昨日よりさらに小さい。
ほんの少し。
だが、そのほんの少しを間違えると、強度にも、処理後の見た目にも、通りにも響く。
宮田が昨日と同じように控えを持つ。
「森川さん、向きは昨日と同じです。逃げ、手前内側」
森川は頷く。
「ありがとう」
昨日なら、照れくさそうに返していたかもしれない。
今日は、素直に礼を言った。
その変化を、直人は見逃さなかった。
人も、仕事の形も、少しずつ変わっている。
森川は未処理の金具に追加の逃げを入れた。
配線束を通す。
未処理では、かなり軽く通る。
それだけなら、削りすぎかもしれない。
吉岡が黒い試作品を見ながら言った。
「処理で戻る」
「戻る、ですか」
宮田が聞く。
「感触が重くなるという意味や」
吉岡は短く答えた。
「処理前に軽すぎるくらいで、処理後にちょうどになることがある。逆もある」
宮田はすぐに書いた。
処理前の軽さ。
処理後に重くなる可能性。
森川が苦笑した。
「紙にすると難しそうやな」
「実際、難しいです」
宮田は真面目に答えた。
吉岡が、少しだけ笑ったように見えた。
「難しいから、一組だけ先にやった」
それは、吉岡なりの説明だった。
全部処理してから失敗するのではなく、一組で止める。
表面処理の現場もまた、黒瀬式とは別の経験で止まっている。
直人は、そのことを強く感じた。
黒瀬式だけではない。
南田の曲げ。
森川の逃げ加工。
吉岡の処理。
田端の箱。
それぞれが、止まるべき場所を持っている。
昼前、吉岡は追加で逃げを入れた未処理の金具を持って帰った。
「これをもう一組、処理する」
隆夫が聞く。
「今日中に戻りますか」
「夕方」
「残り九組は」
「まだ触らん」
吉岡は言った。
「二組目が通ってからや」
美智子はすぐに台帳へ書いた。
二組目試し処理。
夕方戻し。
残り九組未処理停止。
吉岡判断。
通常仕事への影響確認。
佐野が時計を見た。
「吉岡さん、急ぎでお願いする形になります。追加の急ぎ費用は」
吉岡が、佐野を見る。
佐野は目をそらさなかった。
「今日中に二組目を処理していただくなら、吉岡さん側の段取りが変わるはずです」
事務所が少し静かになった。
吉岡は、しばらく佐野を見ていた。
そして、短く言った。
「付けろ」
佐野は頷いた。
「はい。急ぎ処理確認費として記録します」
美智子の赤鉛筆が動いた。
急ぎ処理確認費。
吉岡メッキ。
一組追加試し。
直人は、そのやり取りを見ていた。
以前なら、吉岡は黙ってやってくれたかもしれない。
黒瀬も、助かったと言って終わったかもしれない。
だが、それではまた、誰かの急ぎが誰かのただ働きになる。
吉岡が自分から「付けろ」と言ったこと。
佐野がそれを聞いたこと。
それも、町の変化だった。
吉岡が帰った後、森川は作業台に残った黒い金具を見ていた。
「黒くなっただけやと思ってたら、怖いですな」
「森川さんでもそう思いましたか」
直人が聞くと、森川は素直に頷いた。
「思ってました。いや、頭では分かってたんですけどね」
森川は黒い金具の逃げ部分を指で撫でた。
「実際に通してみるまで、ここまで感触が変わるとは思ってませんでした」
隆夫が言った。
「吉岡さんが一組で止めてくれたから助かった」
「ほんまです」
森川は息を吐いた。
「昨日、こっちで通ったからいうて、そのまま九組全部処理に回してたら、えらいことでした」
美智子が台帳を見る。
「一気に走らせない、やね」
「はい」
直人は頷いた。
北河先行十組は、最初から十組作らなかった。
森川がそう言った。
昨日、そのおかげで配線束の太さに気づいた。
今日、吉岡が一組だけ黒くした。
そのおかげで、処理後の感触に気づいた。
一気に走らせない。
それは臆病に見える。
だが、町工場にとっては命綱だった。
午後、黒瀬精機は通常仕事へ戻った。
中川機械の部品。
高田包装のガイド。
倉田精密の保管札。
そして、北河の残り九組。
待っている仕事が多い。
だが、北河の金具は、吉岡の二組目が戻るまで触らない。
森川は別の部品に向かった。
宮田は北河の控えを整理した。
佐野は勤務時間の終わりに、美智子へ引き継ぎをした。
「北河の二組目は、夕方に吉岡さんから戻ります。残り九組は未処理停止。吉岡さんの急ぎ処理確認費を別項目に入れています」
「分かりました」
「あと、吉岡さんの判断で止まったことを残してください。黒瀬側の都合ではなく、表面処理側の現場判断です」
美智子が頷いた。
「大事やね」
佐野は鞄を取った。
「では、私はここまでです」
その言葉にも、もう誰も驚かなかった。
佐野は、時間で止まる。
それも黒瀬精機の仕事の形になりつつある。
夕方、吉岡が戻ってきた。
今度は、手ぶらに見えた。
だが、胸元のポケットから、布に包んだ金具を一つ出した。
「二組目」
作業台の上に置く。
黒い。
一組目と同じように見える。
だが、逃げの内側が少しだけ違う。
森川が配線束を取った。
誰も喋らなかった。
まるで、カーリングの石が進むのを見ているような沈黙だった。
配線束が金具の下を通る。
バンドの頭が、逃げに近づく。
止まるか。
通るか。
すっと、通った。
森川は戻した。
もう一度。
角度を変える。
少しだけ押し方を変える。
また通る。
三回目。
通る。
森川は、ようやく口を開いた。
「これなら、いけます」
吉岡も短く頷いた。
「処理後でこれなら、残りも同じで見る」
隆夫が聞く。
「残り九組、処理できますか」
「明日の昼までに上げる」
「助かります」
「急ぎ処理確認費、忘れるな」
吉岡が言うと、美智子がすぐに答えた。
「入れます」
吉岡はそれで満足したように、黒い金具を見た。
「黒は、隠す色やない」
ぽつりと言った。
直人は顔を上げた。
吉岡は続ける。
「傷も、逃げも、処理の甘さも、黒くしたら分からんように見えることがある。でも、使ったら出る。黒くする前に形を決めんと、黒は嘘を隠すだけになる」
作業場が静かになった。
吉岡にしては、長い言葉だった。
森川がゆっくり頷く。
「今日は、それを見ました」
吉岡は何も言わなかった。
ただ、箱の中に黒い二組目を戻した。
その夜、黒瀬精機の台帳には、新しい行が増えた。
北河先行分。
黒処理試し一組目。
処理後、通過抵抗あり。
二組目。
逃げ追加後、処理後通過確認。
残り九組、同逃げで処理へ。
吉岡メッキ急ぎ処理確認費。
処理後削り不可。
黒処理前に形を決める。
美智子は、最後に赤鉛筆で一行を書いた。
色が付いてからでは、直せない仕事がある。
直人は、その文字を見つめた。
昨日は、紙が正しくても現物が入らなかった。
今日は、現物が入っても、黒くなったら重くなった。
仕事は、一段ずつ顔を変える。
曲げ。
穴。
逃げ。
処理。
箱。
搬送。
そのたびに、通るかどうかが変わる。
黒瀬式は、そのすべてを支配するものではない。
ただ、止まるべき場所で止まれるようにするものだ。
そして今日、止まったのは吉岡だった。
黒瀬精機は、その判断に助けられた。
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