第42話 夏に見えた町の差

 1989年夏。


 東大阪の町は、鉄と油と熱でむせ返っていた。


 昼過ぎの路地には、工場から漏れる機械音と、蝉の声が重なっている。


 黒瀬直人は、学生鞄ではなく、薄いノートを抱えて田端のライトバンに乗っていた。


 夏休みの間、直人は週に2回だけ、田端に連れられて町工場を回ることになった。


 遊びではない。


 進路を決める前に、町を見るためだった。


 美智子は最初、渋い顔をした。


「工場見学はええ。でも、仕事の邪魔はあかん。聞いたことを勝手に外へ出すのもあかん。あと、暑い日に無理せんこと」


 隆夫も言った。


「機械には触るな。見るだけや」


 直人は頷いた。


 見るだけ。


 だが、今の直人にとっては、それだけでも十分だった。


 南田板金では、清水が検査用の限度見本を使いながら、薄板部品を仕分けていた。


 以前より手が速い。


 ただ速いだけではない。


 迷いが少ない。


「清水さん、慣れたなあ」


 直人が言うと、清水は照れくさそうに笑った。


「怒鳴られる回数が減っただけや」


 奥から南田が怒鳴る。


「聞こえとるぞ」


「ほら、まだ減っただけです」


 清水が小声で言う。


 直人は笑った。


 だが、ノートにはこう書いた。


 南田板金。

 若い人が判断を言葉にできるようになった。

 治具だけではなく、怒鳴らなくて済む仕組み。


 吉岡メッキでは、戻り品の箱が4つに分けられていた。


 全体曇り。


 穴まわり。


 曲げ内側。


 戻し箱。


 吉岡は相変わらず不機嫌そうな顔をしていたが、箱の前に立つ姿は、以前より落ち着いて見えた。


「全部うちのせいや、言われることは減った」


 吉岡は短く言った。


「その代わり、うちのせいやと分かる分も残る。腹立つわ」


「でも、分かる方がええんですよね」


 直人が言うと、吉岡は鼻を鳴らした。


「中学生に言われるまでもない」


 そう言いながら、吉岡は戻し箱の札を直した。


 その手つきは丁寧だった。


 倉田精密では、医療機器向け小物部品の洗浄後取り違え防止が、別の部品群へ広がり始めていた。


 3年前に作った一方通行の流れは、1つのラインでは定着しつつある。


 だが、横へ広げると新しい問題が出た。


 乾燥待ちの時間が長い部品は、洗浄済みと確認済みの間で止まる。


 止まる場所が曖昧だと、流れが濁る。


 片岡は、直人の前に新しい棚の図を置いた。


「段で分ける案では、やはり置き間違いが出ました」


 隆夫は図を見て頷いた。


「段だけやと、忙しい時に戻りますね」


 直人はしばらく図を見た。


 棚の上段。


 中段。


 下段。


 そこに箱が並ぶ。


 間違えた時、見た目だけでは気づきにくい。


「棚を段で分けるんやなくて、箱が進む向きを決めたらどうですか」


 片岡が顔を上げる。


「進む向き?」


「洗浄済みは左から入れる。乾燥待ちは真ん中。確認済みは右からしか出せない。戻そうとしたら、置きにくい形にするとか」


 森川が図を覗き込んだ。


「箱の向きと持ち手の位置を変えたら、できるかもしれません」


 隆夫も頷いた。


「棚そのものを複雑にせんでも、箱の置き方で戻りにくくできる」


 片岡はすぐにメモを取った。


「前のラインをそのまま写すのではなく、部品ごとに止まる場所を見る……そういうことですね」


 直人は少しだけ息を吐いた。


 自分はまだ中学生だ。


 部品を作れるわけではない。


 だが、流れの怖さは見える。


 前の人生で、止まったまま放置された仕事が、どれだけ後で火を噴くかを知っているからだ。


 夏の終わりには、町工場相談会の依頼が増え始めていた。


 商工会の北村は、黒瀬精機へ来るたびに顔色を変えている。


「黒瀬さん、相談が6件来ています」


 田端が横で言った。


「人気者やな、北村くん」


「人気ではありません。処理できません」


 北村は半泣きになりかけていた。


 美智子は帳面を閉じ、きっぱり言った。


「月2件まで」


「2件ですか」


「それ以上は、見る方が雑になる。雑に見たら、相談会の意味がなくなる」


 隆夫も頷いた。


「うちも全部は見られません。黒瀬精機の仕事もあります」


 北村は困った顔をしたが、やがて深く頷いた。


「わかりました。商工会で受付の基準を作ります」


「基準?」


 田端が聞く。


 北村は手帳を開いた。


「緊急性。複数工程が絡むか。相談内容が具体的か。無料相談と思っているだけではないか。そこを分けます」


 田端が感心したように言った。


「北村くん、ほんまに成長したなあ」


「田端さんのように広げすぎないためです」


「刺さるわ」


 工場に笑いが起きた。


 だが、笑いながらも直人は分かっていた。


 増えることは、良いことだけではない。


 増えすぎれば、黒瀬精機も商工会も潰れる。


 大きくなることと、強くなることは違う。


 その言葉は、この夏の黒瀬精機に何度も戻ってきた。


 9月。


 直人は隆夫と一緒に、工業高校の見学へ行った。


 広い実習場には、旋盤やフライス盤が並んでいた。


 製図室には、きれいに削られた鉛筆と、製図板が整然と置かれている。


 黒瀬精機の工場とは違う匂いだった。


 油の匂いはある。


 だが、学校の油は、まだ失敗の匂いを知らない。


 実習担当の教師は、直人に聞いた。


「工業高校を考えているのか」


「はい」


「家が工場だから?」


 直人は少し考えた。


「それもあります。でも、家を継ぐためだけではないです」


 教師の目が少し変わる。


「では、何のために?」


「機械を動かす前に、図面と流れをちゃんと見られるようになりたいんです。工場で見て覚えるだけやと、抜けるところがあると思うので」


 隆夫が隣で、ほんの少しだけ驚いた顔をした。


 教師は直人をしばらく見ていた。


「中学生にしては、ずいぶん現場寄りの答えだな」


「工場にいる時間が長いので」


「機械は好きか」


「好きです。でも、機械を増やしたら強くなるとは思ってません」


 教師は笑った。


「面白いことを言う」


 直人は笑わなかった。


「機械を使う人と、仕事の流れが追いつかないと、機械だけ浮くと思います」


 その言葉に、隆夫は目を伏せた。


 銀行の融資案内。


 設備投資。


 事業拡大。


 この夏も、何度もその話は来た。


 だが黒瀬精機は、まだ踏み込まなかった。


 見学の帰り道、隆夫は言った。


「直人」


「何?」


「工業高校に行きたい気持ちは、変わらんか」


「うん」


「普通科から大学へ行く道もある」


「わかってる」


「工場に縛られる必要はない」


 直人は足を止めた。


 夏の終わりの風が、制服の袖を揺らす。


「縛られてるわけやないよ」


「そうか」


「俺が知りたいんや。どうしたら、黒瀬精機みたいな工場が潰れずに済むのか。どうしたら、人を削らんと仕事ができるのか」


 隆夫は、すぐには答えなかった。


 やがて静かに言った。


「それは、簡単には答え出んぞ」


「うん。だから勉強する」


 隆夫は苦笑した。


「強情やな」


「お父ちゃんに似たんちゃう」


「俺はそんなに強情ちゃう」


 直人は笑った。


 隆夫も少し笑った。


 その笑いは、前の人生では少なかったものだった。


 秋が深まる頃、町の差は少しずつ目に見えるようになってきた。


 ある工場は、銀行の勧めで新しい機械を入れた。


 工場の前には新しい看板が立ち、社長は景気のいい話をしていた。


 しかし、夜になると灯りが遅くまで消えない。


 新しい機械を動かすために、安い仕事まで拾い始めているのだと田端が言った。


 一方で、南田板金は古い機械のままだが、戻り品を減らし、清水に任せられる仕事を増やしていた。


 吉岡メッキは、戻し箱と工程札の管理で、元請けとの言い合いが減った。


 大西樹脂は、洗える仕切りと濡れても使える札で、倉田精密から継続して相談を受けるようになった。


 派手なのは、前者だった。


 強くなっているのは、どちらか。


 直人には、はっきり見えていた。


 黒瀬精機の作業台には、その秋のまとめが置かれていた。


 町工場相談会 受付月2件。

 倉田精密 医療向け別部品群 乾燥待ち棚試行。

 南田板金 清水担当工程拡大。

 吉岡メッキ 戻り分類継続。

 工業高校見学済。

 設備融資 見送り継続。


 美智子はそれを見て、赤鉛筆で日付を入れた。


「夏だけで、だいぶ進んだね」


 隆夫が言った。


「ああ。でも、まだ借金せんで済んでる」


「そこ大事や」


 森川が横から言う。


「社長、俺、新しい機械より先に、後輩が欲しいです」


 隆夫が森川を見る。


「人を入れる話か」


「はい。すぐやなくていいです。でも、俺が誰かに教えられるようにならんと、機械入れても同じことになる気がします」


 直人は森川を見た。


 3年前の森川なら、こんなことは言わなかった。


 新しい機械に目を輝かせ、早く触りたいと言ったはずだ。


 今は違う。


 自分だけが上手くなるのではなく、次に渡すことを考えている。


「ほな、森川が教えられる仕事を決めよう」


 隆夫が言った。


「全部は教えんでええ。まず、測定器の扱いと流れ札の読み方からや」


 森川は真剣に頷いた。


「はい」


 田端が小さく言った。


「黒瀬さん、会社っぽくなってきましたね」


「まだ町工場です」


「町工場が会社っぽくなるのは、悪いことやないですよ」


 美智子が口を挟む。


「会社っぽくなる前に、帳面が追いつかんと困ります」


「やっぱりそこですね」


「そこです」


 その夜、直人は進路希望調査票に、初めて学校名を書いた。


 第一希望。


 工業高校。


 まだ確定ではない。


 だが、線は引いた。


 黒瀬精機も同じだった。


 新しい機械を買う線ではない。


 相談を増やしすぎる線でもない。


 人を育て、流れを見て、番号を揃え、町の中で強くなる線。


 1989年夏から秋。


 黒瀬精機は大きくなったわけではなかった。


 だが、町の中で見える景色は変わった。


 無理に膨らむ工場。


 静かに強くなる工場。


 その差が、バブルの熱の中で少しずつ浮かび上がっていた。


 直人は、その差を見た。


 そして、自分の進む道にも、ようやく1本目の線を引いた。


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