第十四章 揺らぎ

 外周防衛線まで、半日の距離を残していた。

 反乱軍は砂漠を北上していた。三日間の強行軍だった。途中の村々は迂回した。第三領北部の貴族たちは、王朝の混乱を察して動かなかった。反乱軍を見送る形で、彼らは砦に閉じこもっていた。

 俺たちは止まらなかった。

 止まれば王朝側の動員が間に合う。動員が間に合えば外周防衛線が固まる。固まれば突破できない。

 走り続けるしかなかった。

 三日目の朝、王都の外周防衛線が見えてきた。

 平原の中央に、低い土壁が伸びていた。砂漠の縁に沿って築かれた、王都を守る最後の物理的な防衛線。土壁の上に見張り台が等間隔に並んでいた。

 見張り台に、白銀が見えた。

 一つだけ。

 他のすべての見張り台には王朝兵がいた。だが、その中の一つに白銀の鎧の男が立っていた。

 遠目でも分かった。

 レイヴン・アルドリックが来ていた。


 * * *


 ダンテさんが手を上げた。

 反乱軍の隊列が止まった。

 俺たちは土壁から半里ほど離れた窪地に集結した。

 ダンテさんとサイラスさん、アドニスが地形を見渡した。

「レイヴンが先に到着している」

 サイラスさんが眼鏡を押し上げた。

「動員は間に合っていない、と聞いていたが」

「レイヴン一人で先行したんだろう」

 ダンテさんが言った。

「近衛騎士団を率いて最短で出てきた。後続の動員は遅れているはずだ。土壁の上の兵は、おそらく百人前後」

「百人」

 俺は反射的に呟いた。

「俺たちは八十人だ」

「数では拮抗してる。だが、向こうにはレイヴンがいる」

「レイヴンを抑える手は」

 アドニスが訊いた。

「お前の弓だ」

 ダンテさんはアドニスを見た。

「コーデリアはもういない。レイヴンは規格外じゃない。お前の矢が届くはずだ」

「届かせます」

 アドニスは断言した。

「アッシュは陽動だ」

 ダンテさんは俺を見た。

「前回と同じ役だ。レイヴンの注意を引く。アドニスが射る隙を作る」

「了解です」

 短く答えた。

 答えながら剣の柄を握った。

 今日は今までと違う。あの男と剣を交えるのは四度目だ。

 あの男は、もう前と同じじゃない。

 俺も、もう前と同じじゃなかった。


 * * *


 突撃の合図が出た。

 反乱軍は土壁に向かって走った。エルクとノルベルトが俺の両側にいた。後方の岩陰にアドニスが布陣した。射手として。

 土壁の上から矢が飛んできた。

 反乱軍兵士が二人、矢を受けて倒れた。だが俺たちは止まらなかった。盾を構えて走り続けた。

 土壁に取り付いた。

 兵士たちが土壁を乗り越え始めた。土壁の上では既に剣戟が始まっていた。

 俺は土壁を駆け上がって、向こう側に降りた。

 そこにレイヴンが立っていた。


 * * *


 白銀の鎧。手には宝剣。

 重剣ではなかった。これまで何度も見てきた重剣ではない。細身で、刃のある剣。鞘から抜かれて陽光を反射していた。

 レイヴンは俺を見た。

 灰色の目が俺に向いた。

 その目は前と違っていた。

 前は何かを見極めようとしていた目だった。冷静で、観察的で、相手の中の何かを測ろうとしていた。

 今の目は違った。

 測ろうとしていなかった。

 ただ見ていた。

 その「ただ見ている」目の奥で、何かが揺れていた。

 揺れ、と言うより、欠落していた、という方が近かった。

 彼の中から何かが抜けていた。

「お前か」

 レイヴンの声は前と同じ低さだった。

「アッシュ、と呼んでいいか」

「呼べばいい」

「アッシュ」

 彼は俺の名を呼んだ。

 あの戦場で、彼は俺を呼びかけた。あの時は途中で止めた。今は最後まで呼んだ。

「お前は、また来た」

「来た」

「俺は、お前を殺さねばならない」

 レイヴンはそう言って宝剣を構えた。


 * * *


 最初の一撃が来た。

 今までと違っていた。

 重剣の時は最小限の動きで俺の剣を弾いていた。動作の一つ一つに無駄がなかった。

 宝剣を持つレイヴンは最小限ではなかった。動きが大きかった。確実に殺すための動きだった。剣の軌道が、俺の体の中心に向かっていた。

 俺はかろうじて避けた。

 避けながら思った。

 あの男は、本気で殺しに来ている。

 それを知った瞬間、俺の中で何かが動いた。

 今までの俺はレイヴンに「届きたい」と思っていた。届きたい、というのは、彼が俺を殺さない、という前提があってのことだった。彼は俺を殺さない、彼は俺を見て、何かを測る、その目の中に俺は届きたいと思っていた。

 今は違う。

 あの男は俺を測っていない。殺そうとしている。

 測ってもらえないなら、届くも何もない。

 俺は剣を構え直した。

「白銀!」

 俺は叫んだ。

「あんた、目が違うぞ!」

 レイヴンの剣が俺の剣を弾いた。

「俺は、お前を殺すと決めた」

「決めたのか」

「決めた」

「それで目が変わったのか」

「目が変わったとは思っていなかった」

 レイヴンは少し止まった。

 止まって俺の顔を見た。

「お前には見えるか」

「見える」

「俺は、自分で見えていなかった」

 レイヴンは小さく笑った。

 笑ったが、笑いではなかった。


 * * *


 二撃目が来た。

 俺は受け流した。

 レイヴンの剣の重みは、宝剣の刃の鋭さに変わっていた。重剣の頃の「圧」ではなく、宝剣の「速さ」だった。受け流すのが前より難しかった。

 だが、俺は前より少し強くなっていた。

 俺は彼と四度剣を交えた。何度も死にかけた。何度も避けた。何度も受けた。その経験が俺の体に入っていた。

 俺はレイヴンの剣を、五回受けた。

 五回受けて五回とも避けきれなかった。だが致命傷にはならなかった。

 レイヴンも気づいた。

「お前、進歩したな」

「進歩した」

「だが、まだ届かない」

「分かってる」

 俺は剣を構え直した。

 レイヴンが六撃目を振った。

 六撃目を、俺は受け流した。受け流せた。初めて彼の宝剣を完全に受け流せた。

 俺自身が驚いた。

 驚いている隙にレイヴンが踏み込んだ。

 踏み込んだ瞬間、俺の腹に宝剣の切っ先が触れた。

 触れた、で済んだ。

 切られなかった。

 レイヴンの剣は俺の腹の鎧の上で止まっていた。

 止まっていた、というよりも、レイヴンが止めた。

 俺は息ができなかった。


 * * *


 レイヴンの剣が止まっていた。

 切っ先が俺の腹に触れているのに、刃が肉を裂かなかった。

 レイヴンは俺を見ていた。

 灰色の目の奥で、何かが揺れていた。

 揺れているのが見えた。

「白銀」

 俺は呟いた。

「あんた、なんで止めた」

 レイヴンは答えなかった。

 答えないまま剣を引いた。

 引いた剣が宙で一瞬震えた。

 震えた、と思った瞬間、レイヴンは三歩下がった。

「お前は」

 レイヴンが言った。

「俺は――お前を殺せない」

「なんで」

「分からない」

 レイヴンは正直に答えた。

「殺すと決めた。決めた以上、殺さねばならない。だが、殺せない」

 息を整えた。

「あんた、揺らいでるな」

「揺らいでいる」

 レイヴンは認めた。

「俺はコーデリアを失った。失って――殺すことを選んだ。選んだ以上、殺すしかない。だが、目の前のお前を、殺せない――」

「なんで」

「お前が、彼女を射った男ではないからだ」

 レイヴンの目がわずかに細くなった。

「射ったのは別の男だ。お前は陽動だった。お前自身は彼女を射っていない。だから、俺は――お前を殺せない」

「アドニスは射った」

「そうだ」

「あんた、アドニスを殺したいのか」

「殺したい」

 レイヴンは答えた。

「だが、あの男は今ここにいない。岩陰にいる。俺は彼を見ない。見ないから――殺せない」

 俺は剣を構え直した。

 構え直しながら思った。

 あの男は本気で殺すと決めて、ここに来た。だが、目の前で剣を交えている俺を殺せない。

 あの男の中で、殺すという選択と、殺せないという事実が引き裂き合っている。

 それが揺らぎだった。


 * * *


 空気を切る音がした。

 矢だ。

 岩陰のアドニスが矢を放った。

 矢はレイヴンの右側面を狙っていた。今度は鎧の隙間ではなく、剣を持つ手の前腕。利き腕を貫けば、レイヴンは戦闘不能になる。

 レイヴンは矢に気づいた。

 気づいたが、避ける動きが一拍遅れた。

 矢はレイヴンの前腕に刺さった。深く。

 レイヴンは宝剣を取り落としそうになった。だが、もう片方の手で柄を支えた。剣を地面に落とさなかった。

 血が彼の腕から滴った。

「もう一本、来るぞ」

 俺は言った。

 レイヴンは右腕の矢を見て、それから岩陰の方を見た。アドニスが二本目を番えていた。

「俺はここで死ぬか――」

 レイヴンは呟いた。

「いや」

「俺はここでは死なん」

「あんた、決めるのは早いな」

「早い」

 レイヴンは小さく笑った。

 笑ったが、笑いではなかった。

 二本目の矢が放たれた。

 レイヴンは身を捻って避けた。一本目で前腕を貫かれた状態で、それでも避けた。コーデリアの祈りはなかったが、彼自身の素の技量で避けた。

「アッシュ」

 レイヴンが俺を呼んだ。

「次に会う時、俺はお前を殺せるかもしれない」

「来い」

「次は、揺らがない」

「分かった」

「分かった、と言うな」

 レイヴンは少し笑った。

「お前にも揺らぎがあるはずだ」

 俺は答えなかった。

 答えるべき言葉がなかった。


 * * *


 レイヴンは後退した。

 近衛騎士団の生き残りに合図を出した。退却の合図だった。土壁の上の王朝兵が、王城の方角に走り始めた。

 反乱軍も追撃しなかった。

 追撃する余力がなかった。土壁の制圧でこちら側にも犠牲が出ていた。前衛の組から五人が倒れていた。エルクは無事だった。ノルベルトも。だが新兵組の何人かは起き上がらなかった。

 ダンテさんが叫んだ。

「土壁を確保! 深追いはするな! 負傷者の手当て、優先!」

 兵士たちが土壁の制圧と負傷者の収容に動いた。

 俺は土壁の上で、レイヴンの後ろ姿を見ていた。

 白銀の鎧が王城の方角に遠ざかっていた。

 彼は振り返らなかった。

 振り返らないまま、彼の後ろ姿が地平線に消えていった。


 * * *


 夕方、土壁の制圧が完了した。

 反乱軍は土壁を補強し、夜営の準備を始めた。明日、ここから王都中心部に向けて最終突撃する。残り、王城まで一日。

 俺は土壁の上に座って剣の手入れをしていた。

 血を布で拭いながら、頭の中ではレイヴンの目が浮かんでいた。

 灰色の目。揺れていた目。

 あの男は俺を殺せなかった。

 殺すと決めて、宝剣を抜いて、戦場に来た。それでも、俺の腹に切っ先を当てた瞬間、刃が止まった。彼自身が止めた。

 なぜか。

 彼が言った言葉を、俺は反芻していた。

 「お前が、彼女を射った男ではないからだ」

 それは半分本当だろう。だが半分は嘘だ。

 俺は陽動だった。アドニスが射ったが、俺がいなければアドニスは射てなかった。俺はその場にいた。共犯だった。レイヴンもそれを分かっているはずだ。

 それでも彼は俺を殺せなかった。

 殺せなかったのは別の理由だった。

 たぶん、彼の中で、殺すという行為そのものが、まだ完成していないからだ。

 彼はコーデリアを失った。失って、殺すことを選んだ。だが、選んだ「殺す」が戦場で発動する瞬間、彼の中で何かが止まる。何かが止まって、彼の剣が止まる。

 その止まる瞬間に、彼女がいるんだろう、と俺は思った。

 彼女が彼の中で、彼を止めている。

 彼が殺すと決めても、彼女が彼を止めている。

 あの男は、それと戦いながら剣を振っている。

 俺は剣を布で拭く手を止めた。

 手を止めて、しばらく動かなかった。


 * * *


 足音がした。

 アドニスだった。

 彼の右手には弓があった。今日の戦いで、彼の矢は二本がレイヴンに届いた。一本は刺さった。一本は避けられた。それでも、彼の腕は前回の戦いの頃よりずっと精度が上がっていた。

「アッシュ」

「ああ」

「無事で良かった」

「お前もな」

 アドニスは俺の隣に座った。少し離れて。

 二人で土壁の向こうの王都の方角を見た。

 地平線の向こうに、王都の城壁が遠く見えた。明日、あそこに着く。

「アドニス」

「はい」

「レイヴン、揺らいでた」

「私もそう見ました」

「あいつ、俺を殺せなかった」

「私の矢を避けきれなかった」

「彼女がいるんだ、彼の中に」

 アドニスは少し黙った。

「そうかもしれません」

「彼女が、彼を止めてる」

「そうかもしれません」

 アドニスは俺の方を見た。

 久しぶりに彼が俺の方を見た。あの判断以来、彼は俺の方を見なかった。今、見ていた。

「アッシュ」

「ああ」

「彼女が彼を止めている、と、あなたは思いますか」

「思う」

「私は」

 アドニスは俺の目を見ていた。

「私は、彼を止めるものを、私自身に持っていません」

「アドニス」

「私は、ルシアンを利用すると判断しました。判断する時、私の中に止めるものがなかった。私は、止まれない」

「それは」

「それは、私が冷たいからです。私は、コーデリアと違って、人を止めない冷たさを、自分の中に持っている」

 アドニスは星空を見上げた。

 星はもう出始めていた。

「アッシュ。もしも、私が将来、止まらずに何かを判断する瞬間が来たら、あなたが私を止めてください」

「お前を、俺が」

「あなたが、私の中の止めるものになってください」

 俺は何も言えなかった。

 何と返せば良いか分からなかった。

 ただ頷いた。

 頷いたことが答えだった。

 アドニスは小さく笑った。

 笑ったが、笑いではなかった。

 二人でしばらく星を見ていた。


 * * *


 夜が更けた頃、ダンテさんが土壁の上に来た。

「明朝、王都中心部に進軍する」

 ダンテさんはそれだけ言った。

「最終決戦か」

「そうだ」

「王朝側は」

「動員は間に合っていない。レイヴンは前腕に矢を受けた。明日の戦闘での彼の力は、今日より落ちている」

 ダンテさんは俺とアドニスを見た。

「明日、王朝が終わる。お前たちの仕事だ」

 俺は頷いた。

 ダンテさんは土壁の下に降りていった。

 俺はアドニスを見た。アドニスも俺を見た。

 二人とも何も言わなかった。

 星の下で、俺たちは明日を待った。

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