シーン3 大学キャンパスと拘置所5

 東京拘置所近くの喫茶店を出た桂田と小橋はそこで別れ、それぞれの聞き込み調査を続けた。刑事達の行動は二人一組で行うのが原則だが、調布中央署の捜査班は今、猫の手も借りたいほどに人手が必要であったので、例外的に単独行動もやむなしであった。

 と言っても桂田がこれから向うところは、すでに二回の訪問により気の知れている東都薬科大学の音川教授室である。音川は袖上の皮下組織液分析の件で今度の事件の捜査に功績のあった研究者である。桂田にとっては今日がすでに彼との三度目の会見だったので、情報収集は桂田一人でも支障はなかった。

 一方の小橋の仕事は、袖上が殺害された日の朝京王線柴崎駅にて不審な行動が監視カメラに映っていた女性の身元を割り出す捜査の一環として、あの日袖上救護に当たった副村と藤牧にその女性の写真を見てもらい、二人の反応を窺う作業であった。


「また来てしまいました」

 桂田は後頭部をかきながら東都薬科大学の音川教授室に入った。

 音川教授室の狭い両壁には床から天井まで本棚が立ち上がり、そこに洋書や和書などの専門書の類がぎっしり詰まっている。ぶ厚い本の背表紙には薬物治療学、臨床薬物動態学、薬理遺伝学、臨床分析化学概論などの専門分野のタイトルが並ぶが、桂田にはそれらの学問のイメージがどれ一つとして浮かんでこない。

 一方、部屋の真ん中には細長いテーブルがひとつ置いてあるが、それを囲む四脚の椅子はみな小さめでそこに四人ほども座ると身動きができなくなりそうである。

 このように狭い部屋の中に物は多いものの、それらは全て整然と配置されており、そのせいか音川教授室は総じてきれいな部屋という印象だ。掃除も良く行き届いているようだ。

 細長いその部屋の向こう端は一面ガラス窓で、そちらが北向きとはいえ差し込んでくる反射陽光が眩しい。その窓の外を見やると、校内に林立する樫の古木に深緑の葉がうっそうと茂っている。

 音川は前回同様桂田を気軽に迎え入れると、テーブル脇の椅子を勧め自分もその対面に座った。

「ちょうど時間ができたところですよ。どうですか、捜査のその後の進展は」

 挨拶代わりにいきなり本題に入られ、桂田も苦笑しながら応じる。

「実はひょんなことからある事実が浮かび上がって来ましてね」

 桂田は、グランパレ治験審査委員の一人一人を調査していた刑事達がもたらした情報の一端を、音川に伝えようと思った。

 桂田と音川との間には、暗黙のうちにお互いの心中で一種の紳士協定の様なものが取り交わされていた。

 桂田にしてみれば、袖上の事件の際被害者の組織検体に含まれていたそば粉を分析し、その結果から捜査の新たな手掛かりを与えてくれた音川に対する信頼感が生まれつつあった。

 一方の音川は、自分が所属している治験審査委員会のメンバー内で起こった数々の重大事件を避けて通れぬものと受け止め、その真相を突き止めることに宿命の様なものを感じていた。

 そこで桂田が音川に語ったところは、委員の一人である油谷瞳の高校二年生の一人娘が、その年三月に新宿駅東口で起こった無差別殺人事件の被害者であったという事実である。

 その報告を聞いていた音川の表情は、みるみる厳しいものに変わった。

「桂田さん、それは本当ですか……」

 音川はその事実をまだ信じられないようである。

「あの事件以来、油谷さんには治験審査委員会で何回も会っていたのに、彼女は僕に一言もそんなことは言っていませんでした」

 音川はそう言って天を仰いだ。

「油谷さんはご主人とも別れ、たった一人の愛娘と二人で暮らしていたそうです。その娘をいきなり無差別殺人で奪われてしまうなんて、世の中あんまりじゃありませんか。彼女がそのことを周りの人に平常心で伝えられるようになるまでには、きっと長い時間が必要だと思います」

 様々な事件の加害者と被害者の人生を見て来た桂田にとって、まだ会ったことのない油谷の心中も察するに余りあるといったところであろう。

 それにしても……と音川は、油谷瞳の胸中を案じながらしばし絶句していた。その様子をじっと見ていた桂田は、しばしの間をおいてから再び開口した。

「これはまさに老齢刑事の勘繰りなのですがね。グランパレ治験審査委員会の関係者に起こった数々の事件の間に、全く脈絡がないとは思えないのですよ」

 桂田を向き直った音川は、目線を合わせて応える。

「おっしゃる通りですね。これだけの事件がみな偶然に起こったとは僕にも思えません。しかし一方で、新宿の無差別殺人犯に何か特別な意図があったとも考えられないのですが……。刑事さんは、あの李という男の犯行とグランパレ治験審査委員会との関連を裏付けるような情報を何かお持ちなのでしょうか」

 音川の疑問に桂田はしばし考えていたが、音川からより有益な情報を得るためにはある程度こちらの手の内も明かさなくてはならないと覚悟を決めた。

「李はある向精神薬の治験に被験者として参加していたのです。そしてその治験を承認したのが、グランパレ治験審査委員会でした。しかも李は、治験でプラセボを与えられていたのです……」

 音川にまたもやの驚愕が走る。青白い表情に変わったその額に、冷たい汗がにじんでいた。


 音川は記憶をたどった……。

 もう一年近く前の話になる。

 確かにグランパレ治験審査委員会でその治験を承認したことを、音川も良く覚えている。

 重い精神神経系の疾患を患っている被験者に、薬学上何の作用もないプラセボを投与し続けるのは、疾患の再燃とそれが周囲に及ぼす影響を考えた場合に大きな問題だとして、委員の間でも承認の是非が激しく争われた案件であった。

 油谷委員は、特にその案件の承認に反対した一人であった。

 さらに田子浦委員が彼女の意見に同調し、治験を承認しようとする向山委員長や袖上副委員長らとの意見がかみ合わず、審議が二回にわたって持ち越しとなったのであった。音川もその治験の倫理性に大きな疑問を持ち、油谷や田子浦の側に回った。

 音川の記憶では、その他の委員は確かあの時あまり強く意見を言わなかった。そこで委員長と副委員長は、弁護士委員である宿前に意見を求めた。

 確かに倫理面で危惧されるところがあるものの、GCPという治験を規定する規範に照らし合わせれば法律上は問題ない、というのが宿前の意見であった。その意見に音川が折れ、反対組は油谷と田子浦の二人になった。

 しかしそれでも彼らが折れなかったため、治験実施の可否をめぐる審議が先送りになったのだ。

 それから間もなく、油谷と田子浦が暴漢に襲われる事件が起きた。

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