鏡面 3

「それで? 何が訊きたいの」


 観察室に上がってくるなり、夏目は壁際のベンチにどっかと腰を下ろしてそう言った。

 一同から受ける視線にもいっさい怯むことなく、なんならちょっと偉そうに顎を上に向けた不遜な態度が垣間見える。

 恋たちはそれを呆然と、しかし興味深そうな眼差しで見つめた。


 すごい。こんな偉そうな夏目見たことがない。録画したい。あとで本人に見せたら羞恥心で卒倒しそう。


「まずは謝罪するわ。あなたに攻撃するよう指示を出したのは私なの。不躾なことをしてごめんなさいね」

「べつに。人間って謝るの好きだよな」

「……人間流の礼儀とマナーよ。さっきの会話を聞いていたかぎりだと、夏目ちゃんの知識はある程度共有されていると思っていいのかしら」

「そうだね、この身体で見聞きしたことなら。あんたの名前もちゃんと憶えてるよ、千早」

「あら嬉しい。ありがと」

「ただ、私は自分が表に出ていない時でもまわりのことがなんとなくわかるけど、あいつはそうじゃない。今もぐっすり眠ってるよ。イヴィルには睡眠って概念がないからかもな」

「じゃあ、夏目ちゃんはこの会話をしたことも憶えていないのね」

「たぶんね」


 千早は聞いたことをクリップボードに挟んだ用紙に記入していく。緊張感で静まり返った空間に響くのは、夏目と千早の問答、そしてボールペンの走る音だけだった。


「なあ、訊きたいんだけど」

「ん?」

「なんでわかった? 私が夏目の中にいること」


 夏目の眼差しが不穏に光る。千早はあっさりと答えた。


「あなた、水族館の前でイヴィルに襲われたとき、ちょっと出てきたでしょ。モニターに映ってた」

「モニター? まあ出たけど、ほんの一瞬だよ。あのままじゃ夏目がイヴィルの爪に引き裂かれて死んでた」

「そう、そこ。本来ならあのとき、二色と凍花は間に合わない距離にいたの。あなたがイヴィルの攻撃を防いで一拍の隙ができたから、二色が間に合って夏目ちゃんは今も生きてる。お手柄ね」

「……目敏いな。いい迷惑だ」

「文句はあっちの白夜に言ってよね。あいつが潮ちゃんを見つけなければ、私はモニターチェックを他の研究員に任せたままだった」


 千早がそう言うと、「寝ずに技師室で解析していたことも隠し通せたかもしれませんね」と六花が素っ気なく口を挟んだ。千早が唸る。


「それを見ただけで怪しいと?」

「イヴィルの攻撃を防ぐだけの硬度があるのに、夏目ちゃんの名前はうちの報告書アーカイブには残っていなかった。つまりうちでは検査を受けてない、病院で生活に問題のないスコアだと判断されていたということ。そんな子がイヴィルの攻撃を間近で受けて立っていられるわけがない。病院が虚偽の報告をしているか、そうでないなら意図的にスコアの改変がされていると考えるのが普通だわ」

「普通じゃないだろ。誰もそこまで考えないよ」


 夏目が呆れ顔で言った。


「病院で面倒な手続きを介すより、本人に直接確認したほうが早いでしょ。だから来てもらったの」

「ああ、そう。あんたがまともじゃないことだけはよくわかった」

「ちょっとこいつクソ失礼なんだけど」

「話はこれで終わり? もう帰っていい?」


 夏目が大きく伸びをする。

 千早は「そんなわけないでしょ」とぴしゃりと言い放ち、六花が横から手渡した二枚の用紙を突きつけた。


「これはあなたの採血結果。右が腕から採った血で測定したもの。スコアは48。左が……」

「そこの奴が採った血か」


 夏目が六花を睨みつける。六花がびくりと肩を強張らせた。


「部下を怖がらせないでちょうだい。手から採血したほうのスコアは……80。通常、同じ身体から採った血でここまで差が出るなんてありえない。一体どういうトリックなのか、あなたの口から説明してもらえるかしら」

「はは、私の口から? もうわかってるくせに」

「推測にすぎないもの。事実確認はしっかりしないとね」


 ふうん、と鼻を鳴らし、夏目は面倒くさそうに答える。どうやら集中力が切れてきたようだ。


「私は夏目の中に流れるブラッドセルが確立した意志を持った存在だ。体内のブラッドセルはすべてが私の手脚に等しい。一部分だけ濃度を落とすなんてことは簡単だ」

「どうしてそんなことを?」

「内緒」


 夏目は人差し指を唇の前に立て、いたずらっぽく笑った。

 まあ、動機はそれほど重要視していない。千早は話を切り替えた。


「現在観測されているイヴィルは九十種。どのイヴィルと照らし合わせても、あなたの特徴に合致するデータがない。新種のイヴィルとして扱わせてもらうわ。あなた、名前はある?」

「夏目」

「それは宿主の名前でしょ。あなた自身の名前」

「あるわけない。イヴィルだなんてたいそうな呼び名も、あんたたちが勝手につけただけ──」


 不自然な言葉の切れ方に、千早は怪訝な眼差しで先を待つ。夏目は顎に手を当て、何かを考え込んでいるようにだった。やがてぽつりと呟く。「ダミー」


「え?」

「名前。ダミーって呼んで」

「……わかった。いろいろ聞かせてくれてありがとう、ダミー」


 千早が深く訊かずに礼を言うと、ダミーは満足そうな笑みを浮かべた。


 不思議な感覚だ。

 千早はイヴィルの研究に携わってから今日まで、言葉を持たない存在から情報を引き出す方法を暗中模索してきた。

 なぜ人を襲うのか。なぜ人に巣食うのか。なぜ突然その姿を顕したのか──。

 空鹿に隕石が落ちたその日から、空鹿を軸に日本中に拡がりはじめた不可知の粒子、ブラッドセル。それが創り出す黒水晶。そして、イヴィルの出現。

 彼女がいれば、今まで不明瞭だったイヴィルの深淵を覗くことができるだろうか。その根底に見えるものがどんなに罪深くとも、私はそこに辿り着かなければならない。

 そのために、私は──。


「あ、あの……」


 遠慮がちな声色で右手を挙げたのは、冬柚だった。ダミーの怪訝な視線が自分に向くと、彼女は両手を胸の前で握って身体を強張らせる。

 それでも小さな勇気を振り絞るようにして言った。


「な、夏目は、ちゃんと戻ってくるんですか……?」


 その言葉に、わずかな緊張が伝播した。

 ここまで確立した意思を持つイヴィルが夏目の存在を拒めば、もう彼女の心が戻らないのであれば、それは死と同等なのではないか。

 しかしダミーはなんだそんなことか、と言わんばかりに眉を上げ、あっさりと答えた。


「ああ、なんなら今代わろうか」

「えっ?」


 返事も聞かず、ダミーがまばたきをする。

 次の瞬間、ぱちりと開いた瞳は丸く見開かれ、一心に自分に向けられた視線にたじろいだ。ベンチの上で後ずさり、冷たい壁に背中をぴたりとつける。


「……えっ、なに。なんでみんなこっち見てんの、怖いんだけど……」

「……夏目?」

「はい、夏目です……」


 状況がまったく掴めない夏目は、落ち着きなく視線を右往左往させて敬語で返事をした。

 なんだこれは──夏目の頭を占めるのは、その一言に尽きた。

 時間をすっ飛ばしてタイムスリップしたような気分で背中に汗をかく夏目に、冬柚が堪らず抱きついた。


「夏目ーっ!」

「うわっ」

「よかったよぉ! もう戻ってこないのかと思ったぁ」

「はあ? 何、何が?」

「夏目、憶えてないんですか?」

「憶え……何を?」


 言葉のすべてに疑問符がつく夏目に、一同は顔を見合わせた。

 ダミーの言うとおり、記憶は丸ごと飛んでいるらしい。

 これはまた一から説明するようかな、と千早は肩をすくめた。

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