戦火とともに来た婚約者
デギリ
戦場から届けられた悲報
ピルゼン伯爵家に戦場から急報が届いたのは、陽が山の端に沈みかけた頃だった。
「ヴァイセン軍は予想を上回る多勢。これは小競り合いではなく、本格侵攻の前触れと見られます。
我が軍は奮戦し、敵を押し返すも……アルフレート世子は激戦の中、流れ矢に当たり討ち死にされました」
使者の声は掠れ、言葉の端が崩れていた。
だが、その不完全さがかえって現実を濁さず伝えてくる。
「……何だと」
フリードリヒ・フォン・ピルゼン伯爵は、しばし動かなかった。
次の瞬間、糸が切れたように膝をつく。
鈍い音が床に響いた。
「アルフレートが……?」
ヘレーネ夫人が崩れ落ちる。侍女たちの悲鳴が重なる。
誰かが祈り、誰かが泣き、誰かがただ立ち尽くした。
城は瞬く間に混乱に呑まれていく。
その中で――
ルイーゼだけが、動けなかった。
(……嘘でしょう)
兄は強かった。
剣も、馬も、人の上に立つことも。
父に代わり戦場に立ち、家臣も兵も、その背を疑わなかった。
いずれ家督を継ぐ。
それは“決まっていること”だった。
(あの人が、死ぬはずがない)
この戦も、いつもの国境の小競り合いだと聞いていた。
「すぐに追い払ってくる」
そう言って笑った顔が、あまりに鮮明に思い出される。
だが、続けて届く報が同じ事実を告げた。
アルフレートは死んだ。
それだけが揺るがない。
胸の奥に、冷たいものが沈む。
悲しみだけではない。
(……これから、どうなるの)
考えなくても分かる。
後継がいない。
ならば――
誰かが、その代わりになる。
そして。
(私ではない)
そう思うことに、疑いはなかった。
疑えなかった。
⸻
二週間後。
葬儀は、重苦しい沈黙の中で終えられた。
王の代理が参列し、密室で伯爵と言葉を交わしていたが、その内容を知る者はいない。
だが、その視線の冷たさだけは、誰の目にも残った。
夜、家族が集められる。
夫人ヘレーネ、未亡人アンナとその幼子フリッツ、長女テレージアとその夫クレメンス、三女マリアンネとその夫オットー、そしてルイーゼ。
重い空気の中、伯爵が口を開く。
「アルフレートが命を賭して軍を退かせた。だが敵は必ず来る」
声は疲れていたが、言葉は明確だった。
「ゆえに、後継を決めねばならぬ」
場の空気が張り詰める。
「後継はこの子です」
アンナが即座に言う。
腕の中の赤子を抱き寄せる。
「血筋はそれ以外にありません。――他家の者に任せるなど、あり得ません」
「血だけでは領地は守れぬ」
伯爵は即答した。
「ならば、実家より後見を出させましょう」
アンナの実家は有力な大貴族。その言葉の意味は明らかだった。
ピルゼン家ではなく、外の力で支える。
――いや、支配する。
誰もがそれを理解していた。
沈黙。
その中で、テレージアが口を開く。
「私と夫が後見しましょう」
迷いのない声。
(やはり、お姉様)
ルイーゼは思う。
それが当然だと、誰もが思っている。
伯爵は首を振る。
「既に他家に嫁いでいる。戻ることは難しい」
さらに続ける。
「この地は国境だ。後見は戦場に立つ」
クレメンスは法衣貴族で戦場の経験はない。彼は目を逸らした。
答えは出ている。
やがて伯爵の視線が、ルイーゼに向く。
一瞬だけ、心臓が強く打つ。
だが――それだけだった。
言葉はない。
期待もない。
(……ほら)
胸の奥で、静かな声がする。
(最初から、数に入っていない)
悔しさよりも先に、納得が来る。
それが、少しだけ苦かった。
⸻
「ルイーゼの婚約者のエルンストはまだ家督を継いでいません。彼ならば」
ヘレーネが口を開く。
「あの話はなくなった」
伯爵が遮る。
「王命だ。戦える婿を迎えよと」
場がざわめく。
誰もが意味を理解した。
王の言うその婿を後継とせよということか。
(……えっ)
ルイーゼは驚きで息を吐いた。
私が次の当主かその夫人になる?
驚きとともに安堵が、わずかに混じる。
あの婚約に期待などなかった。
手紙は滅多に返ってこない。
三通送って一通。
それでも周囲は言った。
「それでも良縁だ」と。
(妹はすぐに求められたのに)
マリアンネは愛らしい。
自分はいつになっても婚姻の時期が定まらない。
理由は分かっている。
(私は、どちらでもない)
(だから、選ばれない)
美しくも、愛らしくもない。
だからせめて、役に立とうとした。
帳簿を整え、家臣や領民の話を聞き、領地を見て回る。
本来は伯爵妃の務めだが、母はそれをしなかった。
アンナが慣れるまで、その役をルイーゼが担っていた。
それくらいしかできないと思っていた。
⸻
「王は婿候補、いや婚約者を送ってくる。援軍とともにだ」
伯爵の言葉が落ちる。
「そしてこの争いが片付くまでその者に軍権を預けよとのことだ」
それは選択ではない。
命令だった。
「フリッツはどうなるのですか!
この件、実家の父に相談いたします」
アンナの声が響く。
アンナの実家は今の王になって勢威を落としたとは言え、実力のある大貴族。
口を出されては面倒なことになる。
伯爵は低く言う。
「正当な権利はフリッツにある。
しかし、今は非常時。王命である」
王の名を出された以上、誰も何も言えなかった。
⸻
解散後。
三人だけが残る。
「ルイーゼ」
父の声は弱かった。
「婚約者としてその者を補佐してくれ。
ただし、婚姻と家の後継は戦が終わってから決めることとしたい」
「承知いたしました」
後のことは後のこと。
今すべきことに迷いはなかった。それが自分の役割だと、理解していたからだ。
「いずれにしても」
わずかに顔を上げる。
「この戦が終わってからのことです。
まずはその方と協力して守らなければなりません」
伯爵は頷いた。
今はそう言うしかない。
だがルイーゼの心中は、突然の婚約者と表舞台に出されたことへの不安と誇りが入り混じっていた。
⸻
夜。
ルイーゼは窓辺に立っていた。
東の先に王都がある。
そこから来る男。
(どんな人なのだろう)
強いのか。
冷たいのか。
それとも――
ふと、物語の中の貴公子が浮かぶ。
優しく、文芸に明るい典雅な美男子。
すぐに打ち消す。
(そんなはずない)
ここに来るのは、戦う人間だ。
血と泥の中で立つ者。
(問題は、相手ではない)
静かに思う。
(私が、その隣に立てるか)
選ばれたことがない。
だから、選ばれることにも慣れていない。
それでも。
逃げることだけは許されない。
ルイーゼは目を閉じ、そして開いた。
その視線はまだ弱い。
だが確かに――
前を向いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます