第8話 ディナーⅡ

「おお、来たか。楽しみだな、この料理」


「ふふっ。ここからは、ちゃんと味わいたいですね。先輩」


 俺たちは自然とナイフとフォークに手を伸ばした。

 そのとき、俺の左手の指輪が照明の下できらりと光る。

 それに気づいたのか、サクラの目がわずかに見開かれ、じっと俺の手元を見つめた。


「……あれ? 先輩、その左手の薬指の指輪って?」


「ん? ああ。別に大したものじゃない。イズモさんからもらったやつだよ」


「……イズモさん、ですか」


 その瞬間、この会話の中で初めて、サクラから笑みが消えた。

 代わりに浮かんだのは、どこか思案しあんげな表情。


「――やっぱり。そうだったんですね」


「……サクラ?」


 俺の呼びかけに、サクラはすぐに答えず、自分の世界に沈んだまま、ひとりごとのようにつぶやいた。


「前からちょっと変だなって思ってたんです。その態度……うん、なるほど。そういうことですか。納得、です」


「あの、サクラ?」


「あ。ごめんなさい、もう。つい考え込んじゃって、失礼しました」


 再び微笑みを浮かべたサクラが、澄んだ瞳で俺を見つめてくる。





「じゃあ、いただきますね、先輩」





 ――悪寒。


 目の前の女性の無垢な笑顔を見た瞬間、背中にぞわりと電流が走った。それはかつて、命の危機を感じたときに体験した、あの感覚。


「っ」


 立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。まるで全身の筋肉が、急に自分のものではなくなったようだった。


「……ご主人様?」


 生体せいたい反応が感情で揺れたのを検知けんちしたのか、スズカが少し驚いた様子でこちらを見てきた。俺は手を振って、大丈夫だと示す。


 まさか、可愛い後輩の姿に、あの頃の人の面影おもかげを重ねてしまうとは。


 思わずつばを飲み込んで、俺はなんとか笑顔を作り、同じように手を合わせた。


「……いただきます」


 おそるおそる、目の前の料理を一口食べてみる。


「あ。悪くない」


「でしょう。このお店、私けっこう好きなんですよ」


 にこにこしながら、サクラも優雅な所作しょさで食事を始めた。さっき感じた違和感を思い出し、俺は軽く咳払せきばらいをして、のどに刺さった小骨のようなものを振り払おうとした。慌てて話題を探す。


「そ、そういえば。サクラはここ、よく来るの?」


「はい、常連じょうれんみたいなものですね。雰囲気もいいし、料理も美味しいし。カップルも多くて。私、ここでそういう人たちをぼんやり眺めるのが好きなんです。特に、甘酸あまずっぱくて、ちょっと初々ういういしい感じの」


「へえ。人間観察か、俺もよくやるな。サクラは観察するとき、どんなとこに注目してるの?」


「私ですか? うーん……やっぱり、手、ですかね」


「手、か」


「はい。手って面白いんですよ。綺麗きれいな手が好きで。テーブルに置かれた手から、ふたりの距離感がわかるんです。

 位置とか、無意識の小さな動きとか、指にはめた指輪とかアクセサリーとか。

 特に、まだ慣れていないふたりの、触れそうで触れない、絶妙ぜつみょうな距離が」


 両手を合わせ、小首こくびをかしげて、サクラは微笑んだ。


「総じて言うと――エモいんです。思わず食べてしまいたくなるくらい、美味おいしいですよ」


「へえ、なるほど?」


「はいっ」


 気づいたときには、目の前の後輩がそっと両手で俺の左手を包んでいた。黒い手袋てぶくろをした指先がほんのり温かく、薬指くすりゆびをなぞる。


「特に一番美味しいのは――熟れる前にみ取った、あの味、なんですよ」


 思わず顔を上げる。だがサクラはすでに手を引いて、何事もなかったかのようにナイフとフォークを取り直していた。


「あ! 先輩! これも美味しいですよ! 温かいうちに食べてみてください!」


「あ、ああ」


 胸の奥に引っかかる違和感を振り払うように、俺は首を横に振って雑念ざつねんを追い払い、この夜を楽しむことに集中した。


 ……そういえば、今日はオフコラボのはずなんだが、どんな企画きかくなのかまったく聞いてないな。


 酒をちびちびと口に運びながら、にこにこと笑うサクラを眺めて、俺はぼんやりとそう思った。




「――あら。随分とのんびり夕食を楽しんでるのね」




 冷たく澄んだ、少女の声が降ってきた。


 思わず顔を上げる。さっきまで柔らかく微笑んでいたサクラは目を見開き、表情がすっと硬くなった。


 俺の背筋に電流が走る。声の方へと顔を向け、汗が滲むのを感じながら、俺は思わず息を呑んだ。


 ――そこにいたのは、黒の存在だった。


 黒髪。黒い瞳。黒の古風なセーラー服。黒の中にある色といえば、少女の白い肌と、唇に差された紅だけ。


 カッ、カッ、カッ。

 靴音を響かせ、少女は一歩ずつ、俺の方へと歩みを進めてくる。


 俺は体を動かせなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、全身から冷や汗が噴き出す。


 少女は俺とサクラのテーブルの前まで来て、立ち止まった。サクラの存在など眼中にないとでもいうように、少女の昏い瞳が、俺の瞳を真っ直ぐに見つめてくる。


 俺も、視線を外さずに見返す。その瞳は底なしで、まるで奈落のような闇だ。見つめるだけで、自分という存在が吸い込まれそうになる。


「ふふっ」


 気がつけば、少女が笑った。冷たい指先が俺の頬をなぞり、そのままそっと左手を握ってきた。


「久しぶりね、シオン」


「……久しぶり、カオル」


 少女はさらに深く笑んだ。彼女――俺の幼馴染は、俺の左手にキスを落とした。

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