第89話 努力は必ず報われる?


そして、十一月。


俊輔は、担任と進路指導教員の二人から、これ以上ないほどの太鼓判を押される完成度で、EA出願を終えた。


磨き上げたエッセイ。

積み上げてきた成績。

揺らぎそうになった心ごと抱えたまま、それでも最後まで手を抜かなかった結果だった。


けれど、それは“終わり”ではなかった。

むしろ──ここからが、本当の始まりだった。


十一月の空気は、秋の終わりと冬の入口が、静かに溶け合うような冷たさを帯びている。

校舎を抜ける風は細く、頬に触れるたび、季節がもう後戻りしない場所まで進んでしまったことを教えてくる。


EAを終えた俊輔の前にあるのは、次の一月、難関大学を目指すRegular出願へ向けた長い一本道。

迷いを切り離し、ただ前だけを見なければならない、受験の本番だった。



────────。



放課後。


生徒会室は、ほとんど無音だった。


窓の外では、部活動の声はもう遠く、校舎のどこかで扉が閉まる音が、時折かすかに響くだけ。

薄く差し込む夕方の光は、白い壁を淡く染め、部屋の中に長い影を落としていた。


その静寂の真ん中で、ひとつだけ、規則正しい音が鳴っている。


カチ、カチ、カチ……


キーボードを打つ音だった。


橘梨愛は、パソコンの画面から一度も目を逸らさず、指先だけを淡々と動かし続けている。

モニターの白い光が、その横顔を青白く照らしていた。


目は少し赤い。

肩はわずかに落ちている。

けれど、それでも指は止まらない。


彼女が向き合っているのは──

”生徒会活動報告冊子”。


次年度の役員たちへ引き継がれる、“仕事のやり方”と“その年の記録”をまとめた資料。


誰かの目に必ず留まるわけではない。

感謝されることも、評価されることも、たぶんほとんどない。

それでも残さなければならない、次へ繋ぐための記録だった。


ガラッ。


静まり返った生徒会室に、扉の開く音が差し込む。


「あれ、橘。」


背後から落ちてきたその声に、梨愛は振り向かなかった。

振り向かなくても、誰なのかはすぐにわかる。


「藤崎くんか。」


視線は画面に向けたまま、言葉だけを静かに返す。


俊輔は、そのまま歩み寄ってくる。

机の脇に立ち、モニターへと目を落とした。


「それ、活動報告?もうそんな時期か。」


「締切りはまだ先だけどね。」


梨愛は、ひとつ息を吐いてから続ける。


「先延ばしにすると、共通テストの直前に食い込んでくるから、今のうちに手つけておこうと思って。」


その言葉は軽く聞こえるのに、実際は軽くない。

彼女の中で、受験も、生徒会も、もう完全に切り離せるものではなくなっていた。


「………橘なら、推薦で行けるでしょ」


俊輔の言葉に、梨愛はほんの一瞬だけ手を止めた。

それから、またキーを打つ。


「どーだかね。結果が出ないと、安心なんて出来ないでしょ。」


その声音には、冗談も、余裕もない。

それが現実だと、もう嫌というほど知ってしまっている人間の声だった。


そして、パチンッと小さくエンターキーを弾く。


「誰かさんが当てにならないからね。来年の後輩が困らないように、例年の活動報告より、ちゃんとわかりやすくて、精密度の高い攻略本残しとかないと。」


“誰かさん”。


その一言だけで、二人の脳裏には、同じ顔が浮かぶ。

明るくて、破天荒で、目を離した瞬間にどこかへ転がっていきそうな、あの副会長。


「瀬戸くんも、誰かさんの仕事を9割担ってるだろうから、なるべく出来る限りは私で作ろうと思って。」


活動報告書の作成は、本来、書記と副会長の共同作業。

けれど“本来”どおりに回らないことを、梨愛はこの一年で嫌というほど知った。


「晴翔は指定校推薦が取れたんだから、気にしなくていいんじゃない?」


「そうは言っても、副会長の仕事量はボリュームがあるでしょ。本来二人でやるものなんだから。」


キーボードを打ちながら、画面に視線を置いたまま淡々と答えた。


「いつも……ありがとう。」


俊輔は小さく苦笑した。


「自分も受験で大変な中なのに、色々助けてあげてくれて。晴翔にも、橘にも、本当に感謝してる。」


その言葉に、梨愛はふっと視線を落とした。

画面に映る文字が、一瞬だけ揺れて見える。


「別に受験は………」


言いかけて、そこで喉が詰まる。


そもそも──


「……そもそも、私が指定校推薦さえ取れてれば……」


ぽつりと零れたその言葉は、独り言みたいに小さかった。


指定校推薦。


大学から学校へ与えられる、たった一枠の推薦枠。

校内選考を通れば、ほとんど合格が約束される“勝ち切符”。


橘梨愛は、それを手に入れるために三年間、生徒会役員を続けてきた。

真面目に。

抜かりなく。

目立たずとも、投げずに。


積み上げてきたものは確かにあったはずだった。

それなのに。


「運が……悪かっただけだよ。」


俊輔は、静かに言った。


「橘の志望校被りの相手が、笹岡なんてさ。」


その名を耳にしただけで、梨愛の胸の奥に、鈍い痛みが走る。


野球部主将。

関東大会出場。

成績優秀。

研究コンテスト受賞。

ボランティア団体での継続活動。


文武両道。

学校側が“推薦したい”と思う要素を、眩しいほど揃えている相手だった。


納得せざるを得ない、負けだった。


そこが余計に悔しかった。


「笹岡のやつ……ブスのくせに。」


ぽつり、と吐き捨てるように言う。


「選考に顔は関係ないんじゃない?」


案の定、俊輔の冷静なツッコミが返ってくる。

それでもブスを否定しないところが、少し笑えた。


「そんなのわかってるよ。何でもいいから叩きたいだけ。」


負け惜しみだと、自分でもわかっている。

みっともないとも、わかっている。

それでも、悔しさの行き場なんて、そんなものしかなかった。


俊輔の喉から、ふっと静かな笑いが漏れる。

それは嘲りではなく、ただ、梨愛のそういう生々しさごと受け止めるような笑いだった。


「あ、Regular出願準備に使う資料、取りに来たんだった。」


そう言って、俊輔は席を立つ。

棚の方へ向かう足音が、静かな室内に小さく響く。

その背を目で追いかけるでもなく、梨愛は再び画面へ視線を戻した。

けれど、指はさっきまでのようには動かない。


沈黙が落ちる。


その沈黙の中で、ふいに、胸の奥の嫌な感情が顔を上げた。


「……てかさ」


その声に、俊輔が振り返る。

梨愛の手は、キーボードの上で止まっていた。


「こんなの……ぶっちゃけ、誰もちゃんと見ないよね」


画面の中には、細かく整えられたレイアウトと、膨大な文字列。


年間行事の記録。

各役職ごとの仕事。

進行台本・資料サンプル。

注意点・コツ。

連絡先・引き継ぎ事項。


三年間。

真面目に。

ちゃんと。

頑張って。

努力して。

生徒会役員を務めてきた。


その積み重ねの先に、いったい何が残ったのだろう。


「引き継ぎって言っても、結局その年のやり方になるし。」


全ては、指定校推薦を獲得するためだった。


「自分の頑張りって……意味あんのかなーって、ちょっと分かんなくなってきた。」


その一言は、静かな部屋に落ちて、しばらく消えなかった。


パソコンの画面だけが白く光っている。

窓の外では、もう秋の日が沈みかけていた。


積み重ねた時間。

努力した日々。

ちゃんとやってきたはずなのに、欲しかったものには届かなかった現実。


その先でふと、全部が空回りに思えてしまう瞬間。

頑張ってきた人間ほど、そういう“無意味さ”に襲われる。


「努力は必ず報われる?誰がそんなアホみたいな綺麗事言ったの?」


画面を見つめたまま、落とされたその言葉は、やけに乾いていた。

俊輔からは、その表情は見えない。


「…………。」


それでも、その一言に込められたものは、痛いほど悟った。


俊輔は何も言わず、静かに歩み寄った。

机の横に立ち、そっと画面を覗き込む。


「そこ、詰まってるでしょ」


「え?」


「目線の流れ」


俊輔の指先がマウスに触れる。

小さく動かすだけで、画面の中の配置がわずかに変わる。


「ここ、一段下げた方が読みやすい」


「……あ」


「あと、この見出し」


「うん」


「言葉ちょっと強い」


「え、どこ?」


「“徹底管理”ってやつ」


「あー……」


「“運営”くらいでいいんじゃない?」


カチ、カチ、と小さな音が続く。

淡々と、まるでそれが当たり前みたいに。

修正が重ねられていく。


距離が近い。

俊輔が微かに動くと空気が揺れて、柔らかい香りがふわ…っと鼻を掠めると、緊張感が胸を打った。


さっきまで胸の奥で渦巻いていた重たい感情が、少しずつ、形を変えていく。


そして──


「これ……去年のやつよりだいぶ分かりやすいね」


ぽつりと落ちた一言に、梨愛の思考が止まる。


「え?」


「無駄な説明削ってるし、必要なとこだけ残してる」


スクロールされる画面。


文字の並び。

段落の間。

余白の取り方。


「あと、これ」


カーソルが止まる。

写真の配置。


「行事ごとの温度差、ちゃんと出てる」


「……そう?」


ほんの少しだけ、口元が緩む。


「文化祭は人多くて、体育祭は動きあって、会議の写真はあえて地味にしてるから、読む側が“空気”掴みやすい」


言葉にされて、初めて気づく。

自分が、無意識にやっていたこと。


「こういうの、意識してやってるでしょ」


沈黙。

喉が、小さく動く。


「……別に……なんとなくだよ」


視線を、画面に戻す。

逃げるみたいに。

でも、完全には逸らしきれないまま。


俊輔は、少しだけ背もたれに寄りかかった。


「なんとなくでそれ出来るの、普通にすごいと思うけど」


心臓が、一瞬跳ねた。


「この“攻略本”は……陽向を助けてくれるだろうな」


その名前が出た瞬間、ほんのわずかに空気が揺れる。


「マニュアルとか説明書系って、わかりにくいと見ないよね」


軽く言う。


「だから去年のも一昨年のも、僕ほとんど見てないもん」


肩の力が抜けた声で、屈託なく笑う顔。

それなのに、その言葉はちゃんと刺さる。



「これは、ちゃんと後輩達の役に立つと思うよ」



柔らかな笑顔が、眩しくて。



評価じゃない。

結論でもない。

ただの事実みたいに、置かれる。


「まぁ、ゆっくりやりなよ。共通テストなんて無縁だろうから」


「だから…それはわからないって」


「わかるよ。」


あっさりと。

でも、さっきまでとは違うトーンで。

はっきりと、強かった。

 

「生徒会役員を3年間務めた紛れもない実績は、文系においては総合型でも公募でも最強の武器なんだから」


言い切る。

真っ直ぐに、確かな声で。


「…………っ」


何かが、胸の内側で震える。

 

そして俊輔は、少しだけ視線を落として静かに続けた。


「努力ってさ、自分の求めてたものとは、違う形で返ってくることの方が多いんじゃない?」


答えじゃない。

慰めでもない。

ただ、自分の中で一度噛み砕いた言葉。


「例え、願った形で報われなくても」


夕方の光が、少しだけ色を変える。


「そこに向かって歩いた道は、失敗でも、間違いでも……」


努力の話しは。

指定校推薦の事とは言ってない。

直接、悔しいなんて言っていない。


生徒会活動報告書の話しだった。





「………ちゃんと意味はあるんじゃないかな」





なのに………


どうしてそんなに全部見透かすの?





「……無駄な努力なんてないのかもって、思うけどな」


押し付けない。

強くも言わない。


その言葉は、静かに落ちて。


橘梨愛の胸に強く響いた。


「…………………察しが、よろしい事で。」


気持ちの揺れを誤魔化すように、冷静を装った。


「一応一年から一緒にやってるからね」


その言葉に、ここまで一緒に歩んできたという温もりを感じて、胸がきゅっと締めつけられた。


ポン、と。

小さな通知音が、静まりかけていた生徒会室の空気に落ちた。

わずかに揺れたその音に、俊輔がスマートフォンへと視線を落とす。


「あ、陽向。三者面終わったって。呼ぼうか?これ、副会長の仕事でもあるし、僕も手伝うから一緒にやるよ」


柔らかな声。

いつもと変わらない、穏やかな調子。

その横顔を、梨愛は画面越しに見ていた。


「あー…うるさくて余計捗らなくなるから呼ばんでいい。」


視線は逸らしたまま。

軽く言ったつもりのその一言が、思ったよりも冷たく落ちる。


「そっか…笑」


俊輔は、ほんの少しだけ目を細めて、苦笑した。

その笑みが、やけに優しくて。

それでいて、どこか距離を含んでいて。


「……行きなよ。二人の時間、大切にしないと。」


何気ない一言。

けれど、それはあまりにも自然に、“二人のカウントダウン”のことを示していた。


「……ありがとう。」


俊輔は柔らかく笑う。

橘梨愛の想いに、気づく様子もなく続ける。


「書記は一人じゃないんだから……一年生とは言え、阿久津くんも力になると思うよ。」


「はいはい。孝明にもちゃんとやらせるよ。」


言葉はいつも通り。

やり取りも、いつも通り。

なのに、どこか一つだけ、噛み合わない歯車があるみたいだった。


「頑張ってね。」


最後にそう言って、俊輔は軽く手を振る。

ドアが開いて、閉まる。


ピシャリ、と。

小さな音が、生徒会室の空気を完全に切り離した。


──静寂。


さっきまで確かにそこにあった気配が、すっと消える。

残されたのは、白い光と、机と、パソコンの画面だけ。


(………そーゆう……とこなんだよなぁ…………)


梨愛は、ゆっくりと椅子の背にもたれた。

両手で顔を覆いながら、天井を仰ぐ。


「……もぉー…………」


トクン


トクン


トクン


自分の心臓の音だけが、やけに鮮明に響く。

さっきまで抑え込んでいたものが、静けさの中で一気に輪郭を持ち始める。


胸の奥が、じんわりと熱い。


はぁ……と長く息を吐き出す。

そのまま前髪をかき上げながら、額に手両を当てると、熱がこもっているのがわかった。


視界が、開ける。

けれど──



開けた先にあるのは、現実だった。



届かない距離。

触れられない立場。

わかっているはずなのに。


それでも。 






「…………やっぱり好きだわ。」



 



ぽつり、と。

誰にも聞かれない場所で、ようやく零れた本音は、驚くほど静かで、そしてどうしようもなく、切なかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る