第十話 関係ないけど関係ある

第一章:はるかとさつきのストーリー


第十話:関係ないのに関係ある





 

 一九八五年の市立丸が丘中学


 人影まばらな放課後。校舎三階の窓際。

西日がガラスに反射して、グラウンドの白線がやけにまぶしい。


 丸中弱小男子バスケ部の、さらにそこの幽霊部員でもある淳(あつし)は、所在なさげにグラウンドを見下ろしている。


 家に帰っても、なーんにもすることがない。

テレビで"夕ニャン"がはじまるまでは。


 わが男子バスケ部を見ると、今日の出席者は総勢三人。

相変わらず全くやる気の感じられないシュート練習をしている。


 部長だけが部員を鼓舞するように一人熱血指導をしているが、誰も真面目に聞いていない。ただヘラヘラしているだけ。のれんに腕押し。

 

(ドリフの長さんって...大変なんだろうな)


 淳は変な感想を抱く。そして、


 ――たまには行かなきゃなあ、部活。


 そんなバスケコートの隣に、丸中一厳しい「泣く子も黙る女子テニス部」のコートがある。


 そこでは紺色のシャツインブルマ姿に、泥の飛び散った体操服を着た一年生女子たちがトンボを引いていた。


会話どころか笑顔もない。

ただ黙々と。


 そこへ、部室からラケットを手に、真っ白なスコート姿の先輩女子たちがわらわらと雑談しながら現れる。


 その瞬間、トンボをかける手が止まり、直立不動。

怒濤の全力挨拶ラッシュが始まった。


「くおんにちはーー!」

「くおんにちはーー!」


女子テニス部の声が、風を割って校舎にぶつかってくる。


 それは全力挨拶という表現さえ生温い、

腹の底から搾り出した、剥き出しの「咆哮」だ。


 揃えられた手、

 深いお辞儀、

 条件反射的にひたすら反復される動作。


真っ黒に焼けた顔と血走った眼をした小動物の群れ。


――全身全霊で自分の全てを「差し出している」


「くおんにちはーーっ!」

「くおんにちはーー!っ」



(……ホント、…よくやるよなあ)

 

淳の口からは、もうそれしか感想が出てこない。


泥まみれのブルマ姿の一年生が、清潔なスコート姿の先輩を仰ぎ見る。そこには、歪な身分制度の縮図が広がっていた。


 

 ――ただ圧倒されるだけの淳。



 ――だが、そのすぐ横。



 テニス部の激しい咆哮が響く輪から、少しだけ離れた日陰のできた所、


 制服姿の二人がいるのが目に入る。


 美術部だ。


 目に入らざるを得ない。

一人は同じクラスの加納有里(かのうゆり)だ。


 ――接点はない。

 言葉を交わしたこともない。


 ただ、教室の片隅でいつも静かにしている、"ゲイジュツかぶれの不思議ちゃん系女子" という認識しかない。


(……あいつら、どうするんだ?)


淳は窓枠に肘をつき、少し身を乗り出した。


今、グラウンドはテニス部の「激しい挨拶の咆哮」という重力に支配されている。

 

 その重力圏内に、無防備な美術部の二人が入り込んでしまった。


 有里たちは、展覧会の準備なのか、大きなキャンバスに書かれた淳にはよくわからない絵を、木陰で乾かしていたらしい。


 

 テニス部の挨拶の咆哮が校庭を制圧している少し横で。

有里は隣の女子と少し困ったように顔を見合わせている。


 どうしようか逡巡しているのが、三階の淳からでも手に取るようにわかった。


(逃げるか? 無視するか?) 


(それとも……"やる"か?)


 淳は、好奇心に目を細める。


 一拍遅れて。


二人は機械的な動作で体の向きを変えた。


背筋を伸ばし

手を横に揃え、

必要最小限の角度で頭を下げる。


「こんにちはっ」

「こんにちはっ」


 声は抑えめで、テニス部のように張り上げることはない。有里の目は、テニス部の先輩ではなく、そのずっと向こう――どこにも焦点の合わない、虚無の場所を見ているようだった。


(今ここで、これをやる意味はない。……でも、やらないという選択肢がない)


 その二つを同時に理解し、一瞬で心を殺した人間の目だ、と淳は思う。


 テニス部の挨拶が、生き残るための「覚悟」だとしたら、


 有里たちのそれは、


「私たちも挨拶してました」


 という、既成事実をつくるためのただの「諦念」だ。


 部外者なのに当事者であるという奇妙だけど、厳然たる現実。


 ただ“居合わせた”という不運だけで、声を出し、頭を下げ、存在を低くして自分を「差し出す」。


 例え目の前のテニス部の先輩が見ていなくても、


 どこか別の場所で「誰か」が見ているかもしれない。


 その見えない"目"に引っかからないための挨拶。


 ――もはや挨拶とはとても呼べない何かだった。


 …これぞ理不尽の極み。淳は、窓の外から目を離せない。


 ――彼女たちの心は、きっと冷めきっている。


「こんなの、馬鹿げてる」と心底思っているはず。


それなのに、体だけは「完璧な服従のポーズ」を演じきってしまうのだ。


 ――心では軽蔑し、体では跪く。


 その裏腹な自分に引き裂かれている瞬間の少女たちは、残酷なほどに痛々しくて――。



「こんにちはっ」

「こんにちはっ」


有里の隣の女子も同じように、ぎこちなく首を上下させる。


 冷めているのか、

 舞い上がっているのか。


…もう本人たちでも分からないんだろう。


 

 ただここでは、――これをしないと生きていけない。



 加納有里は、三階の窓から淳が見下ろしていることなど知る由もない。


この瞬間、


「美術部の不思議ちゃん女子」


という加納有里という存在は、もう彼女自身のものでさえなくなっていた。


 彼女は丸中ルールという巨大なシステムの、部品の一つになっていた。


(……これだから挨拶観察は、やめられないんだよな)


 淳は、自分の胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 "夕ニャン"の時間はとっくに過ぎていた――。





2



 

 下げた頭をゆっくりと上げたその瞬間。ふと有里は視線を感じた。


(……誰かに見られている?)


有里は、吸い寄せられるように校舎の三階を見上げた。


西日が反射する窓ガラス。その向こう側。逆光で見えない。

目を凝らす有里。


――だが、そこには誰もいなかった。人影ひとつ、動いた形跡さえない。


(……気のせい、か)


有里は小さく息を吐き、再び焦点の合わない目をテニス部の挨拶の咆哮(ほうこう)に戻す。


――自分の心を見透かされていたような不気味な熱気。


 それが幻だったと分かると、今ここで機械的に頭を下げている自分の姿が、さっきまでよりもずっと虚しく感じて、


 (誰も気にするわけないか…)


 小さく溜息をつくのだった。






第十話   完




























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