第30話 母の文は、地図より重い

 水野の名が出てから、竹千代の顔は少し変わった。


 表情が荒れるわけではない。

 声を荒げるわけでもない。

 むしろ、いつもより静かだった。


 だが、その静けさの底に、何かが沈んでいる。


 顔帳に書くなら、こうだ。


 竹千代。

 水野の名を聞き、顔は静か。

 言葉は乱れず。

 ただし、目が遠くなる。


 俺がその木簡を眺めていると、庵原右近助が横から言った。


「若様」


「何だ」


「人の顔を帳面に書くなら、ご自身の顔もお気をつけください」


「俺の顔?」


「はい。今、竹千代様を案じる顔をなさっております」


「案じては駄目か」


「駄目ではございませぬ。ただし、案じる顔で相手を見続けると、相手は弱った者として扱われていると感じることがあります」


 また痛いところを突く。


 右近助が若竹の会に入ってから、俺は何度も自分の足元を見せられていた。


 人を見る。

 それは、相手の顔だけを見ることではない。


 相手を見ている自分の顔も、見なければならない。


「分かった」


「本当に?」


「最近、右近助は疑いすぎではないか」


「若様は、分かったと仰ってから走ることがございます」


「今日は走らない」


「今日は、でございますな」


 右近助は油断しなかった。


 その時、廊下の向こうから小姓が現れた。


「竹千代様へ、三河より届け物にございます」


 竹千代へ。


 俺は顔を上げた。


 小姓の後ろには、青橋の衆の一人が控えていた。

 手には小さな包みと、丁寧に封じられた文。


 竹千代は若竹の会の部屋にいた。


 兄上、朝比奈泰朝、関口孫四郎、石川数正、鳥居元忠もそろっている。

 清兵衛と藤六は、知多方面の話をするために呼ばれていた。


 届け物が置かれると、部屋の空気が少し変わった。


 竹千代は文の封を見た瞬間、目を伏せた。


「坂部からです」


 その声は、ほんの少しだけ低かった。


「坂部」


 兄上が静かに繰り返す。


 知多半島中央の坂部城。

 そこには、竹千代の母、於大の方がいる。


 今は久松俊勝のもとへ再嫁している。

 水野の血を引き、松平と縁があり、知多の地にいる女。


 竹千代にとっては、ただの母ではない。


 水野。

 久松。

 知多。

 三河。

 今川。


 それらの線が、母という一人の人に重なっている。


 竹千代は、しばらく文に手を触れなかった。


 元忠が心配そうに主を見る。


 石川数正は、何も言わない。


 こういう時に黙れるのは、数正の強さだと思った。


「竹千代」


 俺は声をかけようとして、止まった。


 右近助の言葉が頭をよぎった。


 案じる顔で見続けるな。


 ここは、俺が先に踏み込む場ではない。


 竹千代は自分で文を手に取った。


 ゆっくり封を開く。


 文は長くなかった。


 母の手で書かれたものなのか、あるいは誰かに代筆させたものか。

 そこまでは分からない。


 だが、竹千代の目が文字を追うにつれ、ほんの少しだけ揺れた。


 読み終えると、竹千代は文を丁寧に畳んだ。


 兄上が静かに問う。


「差し支えなければ、どのような文か聞いてもよいだろうか」


 竹千代は少し黙った。


 それから、文を膝の上に置いたまま答えた。


「体を案じる文です。寒暖に気をつけよ、食を細くするな、学びに励め、と」


 母の文だ。


 ただ、それだけではない。


 包みの中には、布に包まれた小さな守り袋。

 干した薬草。

 それから、知多の焼き物らしい小さな器が入っていた。


 藤六の目が、その器に止まる。


 商人の顔だ。


 だが、すぐに目を伏せた。


 ここで商いの目を出しすぎるのは、さすがに無粋だと分かったのだろう。


 清兵衛は薬草を見て、鼻を少し動かした。


「これは、海風の当たるところで干したものですな」


 清兵衛の声は低い。


 竹千代が顔を上げる。


「分かるのですか」


「匂いでございます。山の奥で干したものとは違います」


 その一言で、ただの母の慰問品が、地図の上に置かれた。


 坂部。

 知多半島中央。

 海風。

 薬草。

 焼き物。

 母から子への文。


 品は軽い。


 だが、背負っているものは重い。


「竹千代様」


 藤六が慎重に口を開いた。


「その器、常滑筋のものかもしれませぬ」


 元忠の目が鋭くなる。


「藤六」


「いえ、商いとして見るつもりはございませぬ。ただ……知多の内で動いた品であるなら、坂部からの道を考える手がかりにもなります」


 竹千代は、器を見た。


 小さな器だった。


 高価なものではない。

 だが、素朴で、手に収まりがよい。


 竹千代はそれを指でそっと撫でた。


「母からの品を、道の手がかりとして見るのですね」


 部屋の空気が固まった。


 藤六が顔を伏せる。


 俺も息を詰めた。


 竹千代の声は怒っていない。

 だからこそ、重い。


 母の文。

 慰問の品。

 それを若竹の会の目で見れば、情報になる。


 だが竹千代にとっては、母から届いた心だ。


 それをすぐ地図の上に置くのは、あまりにも冷たい。


 兄上が、静かに口を開いた。


「竹千代殿」


「はい」


「まずは、母君からの品として受け取るべきだ」


 兄上は、いつになくはっきり言った。


「道や荷を見るのは、その後でよい。順番を間違えれば、人の心を踏む」


 藤六が深く頭を下げた。


「申し訳ございませぬ」


 清兵衛も頭を下げる。


「私も、余計なことを申しました」


 竹千代は二人を見た。


 少しの沈黙の後、首を横に振った。


「いえ。必要な目です」


「竹千代」


 俺が思わず声を出すと、彼はこちらを見た。


「彦五郎様。私は、母の品をただの情報にされるのは嫌です」


「……当然だ」


「ですが、母の品をただ母の情としてだけ見れば、知多を見誤ります」


 その言葉に、誰も返せなかった。


 竹千代は、守り袋を手に取った。


「母は坂部におります。水野の縁を持ち、久松の家に入り、知多の中にいる。その母から私へ文が来る。これは、母子の情であると同時に、道でもあります」


 竹千代の声は静かだった。


 だが、静けさの中に苦さがある。


「私は、その両方を見なければならないのでしょう」


 兄上が、少し痛ましそうな顔をした。


「つらいことを言わせた」


「いえ」


 竹千代は首を振った。


「今、言っておかねば、後で苦しくなります」


 俺は木簡を見た。


 書くべきか迷った。


 しかし、竹千代が俺を見て小さく頷いた。


「書いてください」


「いいのか」


「はい。母の情と知多の道。どちらか一つだけにすれば、私は見誤ります」


 俺は筆を取った。


 竹千代。

 坂部より母の文。

 守り袋、薬草、知多の器。

 母の情。

 知多の道。

 どちらか一つにすると見誤る。


 書いている間、胸の奥が重かった。


 未来を変える。


 そう言うのは簡単だ。


 だが未来は、人の情の上にある。

 母から子への文すら、政の道になる。


 戦国とは、そういう世なのだ。


 石川数正が静かに言った。


「竹千代様。於大様からの音信は、これまでも途切れておりませぬ」


「分かっている」


「ですが、今後はその道も見られるでしょう。今川からも、織田からも、水野からも」


「そうだな」


 竹千代は文を見た。


「ならば、見られてもよい道にしなければならぬ」


 数正がわずかに目を細めた。


「それは、どういう意味にございますか」


「母から子への文を隠し道にすれば、見つかった時に母を危うくする。だから、表に出せる形にする。私は母から文を受け取る。それを隠さない。ただし、母を通じて勝手に水野へ手を伸ばすことはしない」


 竹千代は、俺たちを見た。


「それを、若竹の会にも守っていただきたい」


 その言葉は、願いではなかった。


 条件だった。


 竹千代が今川の中で協力するための、譲れない線。


 俺は深く頭を下げた。


「守る」


 兄上も頷いた。


「私も守る。母君の文を、勝手に道具にはしない」


 右近助も口を開いた。


「私も見届けます。若様が走りそうなら、止めます」


「そこは今言わなくてもいい」


「大事にございます」


 竹千代が、少しだけ笑った。


 ようやく、部屋の空気が少し緩んだ。


 それから改めて、坂部から届いた品を見た。


 薬草は、知多の内陸と海風の当たる場所を通ってきた可能性がある。

 器は、常滑筋の焼き物かもしれない。

 包み布は、三河でよく見る織り方とは少し違う。

 文を届けた者は、久松家に近い使いだが、途中で緒川に縁のある者と同道したらしい。


 いきなり水野へ触れているわけではない。


 だが、坂部から竹千代へ届く道は、知多中央から三河へ抜ける現実の道でもある。


「坂部は、知多の中でどういう位置ですか」


 泰朝が問う。


 清兵衛が地図を指す。


「半島の中央寄りにございます。東へ出れば三河湾側、西へ抜ければ伊勢湾側。大野や常滑の話も、届かぬ場所ではございませぬ」


 藤六が続けた。


「緒川からも、坂部は遠すぎませぬ。水野の縁、久松の縁、商いの縁。いくつもの顔が交わる場所にございます」


 兄上が呟いた。


「母のいる場所が、地図の結び目でもあるのだな」


 竹千代は何も言わなかった。


 ただ、文を見つめていた。


 孫四郎が珍しく慎重に口を開いた。


「竹千代殿」


「何でしょう」


「私は、水野のことをすぐ織田寄りとして見そうになっておりました」


 正直な言葉だった。


「ですが、於大様のことを聞いて、少し分かりました。家の向きだけで決めると、人の心を踏むのですね」


 竹千代は孫四郎を見た。


「私も、踏まれる側に立って初めて分かることがあります」


「申し訳ございません」


「謝ることではありません。見方を増やせばよいのです」


 孫四郎は深く頭を下げた。


 彼もまた、少しずつ変わっている。


 その日の夕方、父上に報告した。


 兄上が主に話した。


 坂部城から竹千代へ於大の方の文と品が届いたこと。

 それは母子の情であり、同時に知多中央から三河へ抜ける道でもあること。

 若竹の会として、その道を勝手に利用しないこと。

 ただし、坂部、緒川、刈谷、知多東岸、西岸のつながりを見る上で、無視もしないこと。


 父上は竹千代を見た。


「母から文が来たか」


「はい」


「嬉しかったか」


 竹千代は少し目を伏せた。


「はい」


 短い答えだった。


 だが、嘘ではなかった。


 父上は頷いた。


「それでよい」


 部屋が静かになる。


「母の文を嬉しいと思えぬ者に、国は分からぬ。だが、母の文だけを見て国を忘れる者も、国は守れぬ」


 竹千代は深く頭を下げた。


「はい」


「於大殿からの音信は、今後も妨げぬ」


 竹千代の肩が、わずかに動いた。


「ただし、その道を誰が見ているかは知れ。母の情を守るためにもだ」


「承知いたしました」


 父上は俺へ視線を移した。


「彦五郎」


「はい」


「母子の文を、軽々しく帳面にするな」


「はい」


「だが、見ぬふりもするな」


「はい」


「難しいか」


「難しいです」


「ならば、よく学べ」


 父上の言葉は厳しい。


 だが、その厳しさの奥に、奇妙な温かさがあった。


 父上は於大の文を許した。

 竹千代の母への情を認めた。

 その上で、政の目も持てと言った。


 これが、大名なのだと思った。


 夜。


 竹千代は、母から届いた守り袋を手にしていた。


 俺と兄上は、少し離れたところに座っている。


「彦五郎様」


「何だ」


「母からの文を読んで、嬉しいと思いました」


「うん」


「同時に、怖いとも思いました」


「なぜ」


「この文が来る道を、誰かが見ているかもしれない。母が送った品が、誰かの思惑に使われるかもしれない。私が嬉しいと思うことまで、政に絡め取られるかもしれない」


 俺はすぐには答えられなかった。


 兄上が、静かに言った。


「それでも、嬉しかったことは消さなくてよいと思う」


 竹千代が兄上を見る。


「氏真様」


「私も、北条の姫へ文を書く時、政の重さが怖かった。だが、相手を知りたいと思う気持ちまで政に消されるのは嫌だった」


 兄上は少し照れたように笑った。


「だから、竹千代殿も、母君から文が来て嬉しかったことは、そのままでよいのではないか」


 竹千代は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その一言は、いつもより少し柔らかかった。


 その夜、俺は木簡に書いた。


 坂部城より於大の方の文。

 竹千代、嬉しいと言う。怖いとも言う。

 母の文は、母子の情であり、知多の道でもある。

 守り袋、薬草、知多の器。

 坂部は知多中央。東へ三河湾、西へ伊勢湾側。緒川、水野、久松の縁。

 母の文を勝手に道具にしない。だが見ぬふりもしない。

 父上、母の文を嬉しいと思えぬ者に国は分からぬと言う。

 兄上、嬉しかったことは消さなくてよいと言う。


 筆を置いた。


 今日は、いつもより手が重かった。


 米や塩や油や縄を書く方が、まだ楽だ。


 母の文は、地図より重い。


 地図の上なら、坂部は点だ。

 知多中央の城。

 東へ出れば三河湾。

 西へ抜ければ伊勢湾。

 緒川や刈谷、水野の縁にもつながる。


 だが、竹千代にとって坂部は母のいる場所だった。


 そこをただの点として扱えば、俺たちは人の心を踏む。


 桶狭間まで、あと七年。


 未来を変えるには、地図を読まねばならない。

 道を見ねばならない。

 銭を追い、顔を見ねばならない。


 けれど、その道の上には人がいる。


 母がいて、子がいる。


 そこを忘れた策は、きっといつか折れる。


 俺は木簡の最後に、一行を書き足した。


 母の文は、地図より重い。

 だからこそ、道としても、心としても、粗末に扱うな。


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