声を上げるということ
組合の集まりは、想像していたよりもずっと地味だった。
業務時間後、古びた会議室に十数人。
机の上には紙コップとペットボトルの茶。壁の時計は少し遅れている。
「じゃあ、始めるか」
司会役の中年男性がそう言って、緩い調子で会が動き出した。
議題は一応ある。
だが実際には、現場の愚痴や人員不足の話が中心だった。
「最近また人が減ってな」
「若いのがすぐ辞める」
「給料も上がらんしなあ」
どれも正恵にとっては聞き慣れた話だ。
ただ一つ違うのは、それが“仕方ないこと”として語られていることだった。
誰も、本気で変えようとはしていない。
正恵は黙って聞いていたが、次第に胸の奥にあの熱が広がっていくのを感じていた。
やがて、司会役が言った。
「他に何かあるか? 若い人の意見も聞きたいな」
その言葉に、数人の視線が正恵に向く。
——来た。
一瞬だけ呼吸を整える。
「……あの」
声を出すと、部屋の空気がわずかに変わる。
「人が足りない、という話がありましたけど、それは採用や定着の問題でもあると思います」
何人かが顔を上げた。
「今の働き方だと、特に若い人や女性は長く続けにくいです。例えば——」
そこで言葉を区切る。
反応を見ながら、続けた。
「育休や時短勤務、あと現場でも可能な範囲での柔軟な働き方を考えないと、人は増えないと思います」
沈黙。
予想通りだった。
ややあって、年配の一人が苦笑する。
「まあ、言いたいことは分かるけどな。ここは建設だからなあ」
別の者も続く。
「現場で時短なんて無理だろう」
「育休なんて取ってたら仕事回らん」
否定というより、諦めに近い声だった。
正恵は頷きながらも、引かなかった。
「だからこそ、最初から回るように設計する必要があるんじゃないでしょうか」
「設計?」
「はい。人が抜けることを前提にして、余裕を持たせるとか」
小さく息を吸う。
「“どうにかする”前提ではなくて、“どうにかしなくていい”前提にする、というか」
誰かが小さく笑った。
だが、先ほどのような軽い嘲りではない。
「理想論だな」
司会役がそう言いながらも、興味深そうにこちらを見る。
正恵はその視線を受け止めた。
「理想かもしれません。でも、他の会社ではやっているところもあります」
夫の顔が頭をよぎる。
「それをやらないと、人が集まらない時代になってきていると思います。
会社がやってくれないなら組合が声を上げるしかありません」
再び、沈黙。
今度は少しだけ質が違った。
完全な否定でも、単なる諦めでもない。
どこかで引っかかっている空気。
そのとき、部屋の後ろから小さな声がした。
「……私も、そう思います」
振り向くと、若い女性社員が手を挙げていた。
事務職の二年目、名前は確か中村だった。
「友達が別の会社にいるんですけど、やっぱり全然違ってて……このままだと、ちょっと不安で」
言いながら、少しだけ視線を落とす。
その言葉に、今度は若手の数人が頷いた。
「俺も、正直きついっす」
「休み、もっと欲しいですよね」
「このままここで長く働けるのか疑問があります」
小さな波が広がる。
正恵はその様子を見ながら、胸の奥で何かが確かに動いたのを感じた。
——通じた。
大きな変化ではない。
だが、確実に何かが変わり始めている。
⸻
会が終わった後、数人が正恵のところに来た。
「さっきの話、よかったです」
中村が少し緊張した様子で言う。
「なかなか言えなくて……」
「私も最初はそうだったよ」
正恵は軽く笑った。
「でも、言わないと変わらないから」
その言葉に、中村は小さく頷く。
他にも若手の社員が声をかけてきた。
どれも似たような内容だ。共感と、少しの期待。
それを受け止めながら、正恵はある感覚を覚えていた。
責任。
そして、手応え。
⸻
数日後。
現場から戻ると、デスクに一枚の書類が置かれていた。
「組合執行部 補充人事について」
目を通すと、そこに自分の名前があった。
思わず眉をひそめる。
そのとき、後ろから声がした。
「見たか」
振り向くと、佐々木が立っている。
「推薦しといた」
あっさりと言う。
「いや、ちょっと待ってください。私、まだ——」
「だからだよ」
言葉を遮るように、佐々木が言った。
「今のままだと、何も変わらん。お前みたいなのが一人くらい入った方がいい」
煙草の匂い。
だがその目は、いつもの軽さとは少し違っていた。
試すような、あるいは期待するような。
正恵は書類に視線を落とした。
自分の名前。
その下に並ぶ、年上の男たちの名前。
——ここに入る。
組合の執行部という立場は経営陣と対等に話ができる。
それはつまり、“外から言う”立場ではなくなるということだ。
責任が伴う。
逃げ場もなくなる。
だが。
胸の奥の熱は、消えていなかった。
むしろ、少しだけ強くなっている。
正恵は顔を上げた。
「……やります」
短く、はっきりと言う。
佐々木は口の端をわずかに上げた。
「そうか。じゃあ決まりだな」
⸻
その夜、帰宅すると夫が先に帰っていた。
「おかえり」
「ただいま」
食卓に並ぶ簡単な夕食。
いつもの、穏やかな時間。
だが今日は、少しだけ違った。
「ねえ」
正恵は箸を置いた。
「組合の執行部に入ることになった」
夫は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「へえ、すごいな」
「すごいかどうかは分からないけど」
苦笑する。
「でも、少しは変えられるかもしれない」
その言葉に、夫は静かに彼女を見た。
「無理しすぎるなよ。
君は頑張りすぎるからな」
穏やかな声。
だがその奥に、わずかな引っかかりがあるように感じた。
「建設って、そんな簡単に変わるもんじゃないから」
正恵は少しだけ考え、そして答えた。
「分かってる。でも——」
言葉を選ぶ。
「だからって、何もしないままは嫌なんだ」
しばらくの沈黙。
やがて夫は小さく息をついて、苦笑した。
「まあ、君らしいな」
⸻
そのときの彼女は、まだ信じていた。
正しいことを行えば組織は必ず良くなるのだと。
その一歩が、どこへ続いているのかを、
まだ知らなかった。
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