第43話
その日の放課後、ログインした。
ハヤセはいつも通りだった。鍛冶場の煙。露店の干し肉の匂い。石畳の路地。
でも——空がきれいだった。結ひの朝に見た「薄い空」はもうない。震えもない。ただ澄んでた。今まで見た中で一番澄んだ空。向こうとこっちの距離が詰まったから空が余計な力を使わなくて良くなったのかもしれない。張り詰めてた膜が弛んで自然な形に戻ったような空。
宿に着くとタヘが出迎えてくれた。
「おかえりなさい、栞さん」
「ただいま」
タヘの目は澄んでた。結ひの後の焦点が合った目。あの目のまま。もうときどき焦点が空の向こうに飛ぶことはないのかもしれない。ここを見てる。ここにいる人を。
「今日のお茶は少し特別です。お隣の薬草園から新しい葉をいただいたので」
タヘが湯呑みにお茶を注いだ。四人分。注ぎ方が前と少し違った。前は丁寧で正確だった。今も丁寧だけど——手の動きになんか遊びがある。余白がある。急須を傾ける角度を楽しんでるみたいな。
「タヘ。体、大丈夫?」
「はい。少し疲れが残っていますけど、もう大丈夫です」
「……なんか、楽しそう」
タヘは少し驚いた顔をした。それから笑った。結ひの後の静かな笑顔。
「そうですか? ……そうかもしれません。なんだか体が軽いんです。前は何か重いものを背負っている気がしていたんですけど。糸を通してからは詰まっていたものが流れた気がして」
紗絵が「ふうん」と小さく呟いた。加護のことを訊きたそうにしてたけど訊かなかった。代わりにお茶を一口飲んで「おいしい」と言った。
お茶を飲みながら珠希がタヘに腕の治療をお願いした。結ひの日にしびれた左腕。タヘの加護でだいぶ回復してたけどまだ少し重いらしい。
タヘが珠希の腕に触れた。
光が灯った——瞬間だった。
前はタヘの手が触れてから光が灯るまでに間があった。ほんの半拍。タヘが「治したい」と思って加護が「応答」して光が出力される。スキルの入力と出力の間にシステムが噛む感覚。それは最初から違和感なく受け入れてたけど——今はない。
タヘの指先が珠希の腕に触れた瞬間、光が灯ってた。触れることと光ることが同時。間がない。思いと出力の間にシステムが挟まってない。
「……すごい」
「え? 何がですか?」
「なんでもない。——ただ前より速い気がして」
「そうですか? いつもと同じだと思うんですけど……」
タヘは首を傾げた。自分の変化に気づいてない。たぶんタヘにとってはこっちの方が「自然」で前の方が不自然だったのかもしれない。位相の壁が薄くなって加護がスキルじゃなくて——タヘ自身の意思の延長になった。
珠希が腕を動かした。ぐるぐる回した。軽そうだった。
「治ってる。完全に」
「よかったです」タヘはにっこり笑った。
紗絵が私の隣で小さくノートに書いた。
『タヘの加護。応答ラグ消失。入力=出力。位相距離ゼロに近い証拠。』
お茶を飲み終わったあと外に出た。四人でハヤセの街を歩いた。いつもの街。
露店の前を通りかかったとき干し肉の店主が手を止めて私たちを見た。
「——おう、嬢ちゃんたち。きのう空が揺れただろう。あんたらも見たか」
「はい。見ました」
「今朝は落ち着いとる。なんだったんかね」
店主はそれだけ言ってまた肉を干し始めた。何事もなかったように。でもその目が——なんて言うんだろう。まっすぐこっちを見てた。前からそうだったのかもしれない。前は私が「NPCだし」って見てなかっただけかもしれない。
広場を抜けたときプレイヤー伝言板が目に入った。
ハヤセ広場の隅にある灰色の小さな板。ソウジさんが何度も書き込みを残してくれた場所。新しい書き込みが一つあった。
宛名はなし。誰でも読める形で。筆跡は——ソウジさんじゃなかった。知らない字。
『揺れが収まった。ありがとう。——名前は出さない。ただ、ありがとうを。』
署名なし。名前もハンドルネームもない。でも——誰かが結ひのことを知ってる。知った上で礼を書いてる。
紗絵が伝言板を見て何も言わずにノートに写した。
「……誰だろう」
「わからない。でも知ってる人は私たちだけじゃないみたい」
珠希が小さく頷いた。
——知ってる人がいる。私たちの他にも。ソウジさんの他にも。アキツさんの他にも。もっとたくさんの人がたぶんそれぞれの場所で結ひのことを感じてた。
鍛冶場の前を通った。クロガネが炉の前にいた。珠希が盾を見せた。直してもらった盾。罅の跡がうっすら残ってる。
クロガネは盾を一度だけ裏表ひっくり返して確認して頷いた。
「……強くなった」
炉の前でしか喋らないクロガネが盾を見ながら言った。
「罅が入って直した。直った方が元より強い。鍛えたのと同じだ」
珠希が小さく頷いた。
「ありがとうございます」
クロガネは鉄を打つ仕事に戻った。ハンマーの音が規則的に鳴った。
東門から出ると空き地の手前にアキツがいた。背中を古い石垣に預けて空を見上げてた。
「お。来たか」
「アキツさん。肩、大丈夫?」
「こんなもんツチの薬草を塗っときゃ三日で治る」
アキツは首を回して肩の浅い傷をぱんぱん叩いた。痛そうだけど平気な顔をしてる。
「あんたら、大丈夫だったか」
「はい。みんな無事です」
「そうか。——よかった」
アキツの目がいつもの軽妙さの奥に何か深いものを浮かべた。四十代のベテラン冒険者。報酬なしで私たちに関わってきた人。
「アキツさん」
「ん?」
「ずっと訊きたかったことがあるんだけど」
「言ってみ」
「——アキツさんは何で私たちに付き合ってくれてるの?」
アキツはしばらく空を見てた。澄んだ空。震えない空。
「……俺の婆さんがな。口伝の家だったんだよ」
「——え」
「卜部じゃない。別の家。でも同じ知識を口で繋いできた家。婆さんが死んで家は絶えた。俺は継がなかった。——継げなかった。才がなかった」
アキツはにやりと笑った。いつもの軽い笑顔。でもその奥に——
「だからまあ代わりに見届ける係。あんたらみたいに動ける子が来たら邪魔にならない程度に道案内する。婆さんの代わりにはならないけどそれぐらいは」
「……見届ける係」
ソウジさんと同じ言葉だった。
「そ。年寄りの趣味」
アキツはひらひらと手を振った。それ以上は訊くなって顔だった。
「ありがとうございます。助かりました」
「礼なんかいいよ。——次はもうちょい楽な案内がいいな。温泉とか」
紗絵が小さく笑った。私も笑った。
「でもな」アキツは空を見上げたまま続けた。「あの大陸。オモワとタマユラ。——あっちにも色々あるぞ。行ったことはないが婆さんから聞いた話じゃこっちのツチとは全然違う生き物がいるらしい」
「オモワ? タマユラ?」
「ウツシとサキハヒ——あんたらの世界での呼び名だろう? こっちでは古くからオモワとタマユラって呼んでる。面和と玉響。ツチの一部が遠く離れて海の向こうに行ったって古い話がある。それが戻ってきたんだろう」
紗絵がさっとノートを開いた。
「アキツさん。その話もう少し——」
「また今度な。長い話は炉端酒がないと俺は喋れない」
アキツはひらひらと手を振って歩いていった。軽い足取り。でも去り際に一度だけ振り返ってタヘの方を見た。何か——知ってる目だった。タヘが何者か知ってる目。
私はその視線に気づいたけど今は訊かなかった。いつか訊ける日が来る。
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