第78話 あと三つ

9回表。


1点リード。


東峰大附属の攻撃は5番から始まった。


2回に2塁打。


4回に四球。


6回にも四球。


今日、何度も嫌な形で塁に絡んできた打者だった。


藤原はマウンドでボールを受け取る。


今藤がマスク越しに藤原を見る。


「先頭です」


「分かってる」


「ここで出すと、全部重くなります」


藤原は少しだけ笑った。


「最後まで嫌なこと言うな」


「必要なので」


5番が打席に入った。


構えに無駄がない。


長打だけを狙う打者ではない。


甘ければ強く打つ。


厳しければ見逃す。


今日の東峰を、そのまま形にしたような打者だった。


初球。


藤原は外へ真っ直ぐを投げた。


5番は見送る。


ストライク。


2球目。


低めの変化球。


5番は振らない。


ボール。


3球目。


内へ真っ直ぐ。


5番のバットが出る。


ファウル。


追い込んだ。


ベンチから、誰かが小さく息を吐く音が聞こえた。


あと3つ。


その1つ目が、目の前にある。


藤原はすぐにボールを受け取った。


少し急いでいる。


今藤は構えない。


そのまま待った。


藤原は1度、プレートを外す。


深く息を吸う。


それでいい。


ここで急ぐ必要はない。


4球目。


外へ逃げる球。


5番は振らない。


ボール。


2ボール、2ストライク。


今藤がサインを出す。


藤原は頷いた。


5球目。


真っ直ぐ。


外低め。


5番は短く叩いた。


打球は一、二塁間へ転がる。


久保が横へ動く。


追いつくか。


グラブを伸ばす。


打球はその先を抜けた。


ライト前。


無死1塁。


東峰ベンチが短く沸いた。


大きく騒がない。


だが、確かに空気が変わった。


先頭が出た。


1点差の9回。


一番出してはいけない走者だった。


藤原はマウンドで下を向かなかった。


だが、口元は固い。


今藤がすぐにマウンドへ向かった。


宮野も遊撃から少し寄る。


芳田は3塁から声をかけた。


「まだ1点勝ってる」


藤原は短く頷いた。


今藤が言う。


「ここからです」


藤原は今藤を見た。


「分かってる」


「全部を三振で取ろうとしないでください」


「……分かってる」


「今の間、少し怪しいです」


宮野が横で口を開きかけて、やめた。


藤原は小さく息を吐いた。


「本当に分かってる」


今藤は頷いた。


「なら大丈夫です」


6番が打席に入る。


今日、何度もバントでこちらを動かしてきた打者。


ここも、ほぼ間違いなく送ってくる。


藤原がセットに入る。


初球。


6番はバントの構え。


藤原は外へ外した。


ボール。


1塁走者は大きく出ない。


東峰も焦っていない。


2球目。


またバントの構え。


今度は転がしてきた。


1塁側。


大原が前へ出る。


藤原も降りる。


大原が捕る。


2塁は無理。


1塁へ送球。


アウト。


走者は2塁へ進んだ。


1死2塁。


東峰は、きっちり同点の走者を得点圏へ進めてきた。


あと2つ。


だが、走者は2塁。


1打で追いつかれる。


7番が打席に入る。


2回に犠牲フライ。


5回にレフト前。


6回は3塁ゴロ。


今日、ずっと嫌なところで絡んできている左打者だった。


藤原はロージンに触れる。


今藤がサインを出す。


初球。


真っ直ぐ。


外。


見送られる。


ボール。


2球目。


スライダー。


7番は当てる。


3塁側へファウル。


3球目。


低めの真っ直ぐ。


7番は見送る。


ストライク。


1ボール、2ストライク。


追い込んだ。


だが、7番は簡単に終わらない。


4球目。


外へ逃げる球。


バットが止まる。


ボール。


2ボール、2ストライク。


藤原は帽子のつばに触れた。


今藤が返球する。


「低く」


藤原は頷く。


5球目。


真っ直ぐ。


外低め。


7番は逆らわずに打った。


打球はライト前へ落ちる。


森が前へ出る。


2塁走者が3塁を回るか。


3塁コーチが腕を止めた。


森の送球体勢が早かった。


走者は3塁で止まる。


1死1、3塁。


ベンチの空気が一気に重くなった。


1点差。


1死1、3塁。


東峰は、最後まで来た。


あと2つ。


けれど、その2つが遠い。


藤原はマウンド上でボールを受け取った。


手の中で、少しだけ握り直す。


私はベンチの前に立ったまま、動かなかった。


ここで何かを言えば、藤原は聞くだろう。


だが、今必要なのは言葉ではない。


任せた以上、最後まで見なければならない場面もある。


今藤がマウンドへ向かった。


内野も集まる。


宮野が言う。


「1点はまだ入ってない」


芳田が続ける。


「本塁で1つ取れる」


大原は1塁から声を出した。


「低く来たら取ります」


久保も2塁で頷いている。


藤原は、その声を1つずつ聞いていた。


最後に今藤が言う。


「スクイズ、あります」


藤原が少しだけ眉を動かした。


「この場面で?」


「このチームなら、あります」


「……だよな」


今藤は藤原を見る。


「私を見てください」


藤原は今藤を見た。


「サインを出します。迷わないでください」


「分かった」


今藤はマスクをかぶり直し、ホームへ戻った。


8番打者が打席に入る。


右打者。


バットを短く持つ。


構えは小さい。


1死1、3塁。


同点の走者が3塁。


勝ち越しの走者が1塁。


東峰のベンチは静かだった。


静かだからこそ、怖い。


初球。


8番はバントの構えを見せなかった。


普通に構える。


藤原がセットに入る。


1塁走者が少し大きく出る。


3塁走者も、じりじりとリードを取る。


今藤がサインを出した。


藤原は一瞬だけ止まった。


それから、頷いた。


初球。


藤原の球は、高めへ外れた。


8番がバントの構えを出す。


遅い。


だが、出した。


バットは届かない。


3塁走者がスタートしていた。


スクイズ。


今藤は立ち上がるようにして捕った。


3塁走者が本塁へ向かう。


今藤が前に出る。


走者が止まりかける。


今藤はすぐには投げない。


1歩、2歩と前へ出て、走者を追い込む。


芳田が3塁ベースへ戻る。


宮野も3塁側へ寄る。


走者が戻ろうとする。


今藤が芳田へ投げた。


芳田が受ける。


走者がまた本塁へ向きを変える。


芳田が今藤へ返す。


その間に、1塁走者は2塁へ進んでいた。


だが、今は本塁の走者を取る場面だ。


今藤が本塁前で捕る。


タッチ。


審判の拳が上がった。


アウト。


2アウト2塁。


ベンチが爆発したように沸いた。


今藤はボールを握ったまま、藤原を見た。


藤原はマウンドで、少しだけ目を見開いていた。


今藤のサイン。


外す球。


それを信じて投げた結果だった。


東峰のスクイズを、潰した。


藤原は小さく息を吐いた。


「助かった」


その声は、たぶん今藤にしか聞こえなかった。


今藤はマスク越しに短く返した。


「まだ終わってません」


その通りだった。


2アウト2塁。


打席の8番は、まだ残っている。


カウントは1ストライク。


同点の走者は2塁。


1打で追いつかれる状況は、まだ変わっていない。


藤原はマウンドに戻る。


東峰の8番は、バットを握り直した。


スクイズを外された後でも、表情は大きく崩れていない。


このチームは、最後まで嫌な相手だった。


2球目。


藤原は外へ真っ直ぐ。


8番は見送る。


ストライク。


追い込んだ。


3球目。


低めの変化球。


8番は当てた。


1塁側ファウル。


藤原はすぐにボールを受け取る。


今藤が、ミットを動かさない。


また一拍。


藤原はプレートを外した。


急ぐな。


最後まで、急ぐな。


4球目。


外へ逃げる球。


8番は手を出さない。


ボール。


5球目。


真っ直ぐ。


内。


8番は詰まりながらファウルにした。


粘る。


最後の最後まで、粘る。


藤原の額に汗が浮いた。


今藤がサインを出す。


藤原は頷く。


6球目。


外低め。


8番は振った。


打球は1塁側へ切れた。


ファウル。


ベンチから小さなため息が漏れる。


まだ終わらない。


藤原は、少しだけ笑った。


苦笑に近い。


「しつこいな」


今藤が返す。


「相手も勝ちたいので」


「知ってる」


7球目。


低め。


8番は振らない。


ボール。


2ボール、2ストライク。


今藤が返球する。


藤原はボールを握る。


ここで決めたい。


だが、その気持ちが強くなりすぎれば、また球は浮く。


藤原は1度、目を閉じた。


開く。


今藤のミットを見る。


今藤は外に構えた。


高くない。


甘くもない。


外角低め。


藤原は1度だけ息を吐いた。


8球目。


最後に選んだのは、真っ直ぐだった。


ここまで見られてきた球。


白嶺戦でも、今日の東峰戦でも、何度も当てられてきた球。


それでも、逃げる球ではない。


藤原が腕を振る。


球場のスピード表示に、135km/hの数字が出た。


最速ではない。


けれど、今日いちばん意味のある真っ直ぐだった。


球は、今藤の構えた外角低めへ伸びる。


8番のバットが出た。


届かない。


今藤のミットが、ほとんど動かずに鳴った。


ストライク。


三振。


試合終了。


一瞬、時間が止まった。


それから、蒼栄学院のベンチが飛び出した。


「勝った!」


「藤原!」


「今藤!」


宮野が一番にマウンドへ走る。


久保も2塁から駆け寄る。


大原は1塁から走り出していた。


芳田は3塁からゆっくり歩いてくる。


森と片山も外野から走ってきた。


藤原はマウンド上で、しばらく動かなかった。


最後の球は、ただ速いだけではなかった。


今藤の構えた場所に、投げ切った球だった。


見られている球。


知られている球。


それでも、最後に逃げなかった球だった。


今藤がマスクを外して、藤原の前に立つ。


「最後、良かったです」


藤原は息を切らしながら言った。


「そこは素直に褒めるんだな」


「事実なので」


「お前、本当にそればっかりだな」


今藤は少しだけ笑った。


藤原も、少しだけ笑った。


その笑いは、いつもの強がりとは少し違っていた。


三橋がベンチから出てきた。


藤原のところまで歩いてくる。


「守ったな」


藤原は三橋を見る。


「守りました」


三橋は頷いた。


「助かった」


6回にも聞いた言葉だった。


だが、今は重さが違った。


藤原は少しだけ下を向き、それから顔を上げた。


「三橋さんが始めた試合ですから」


三橋は少し驚いた顔をした。


それから、短く笑った。


「そうか」


芳田が近づいてきた。


「整列だ」


その一言で、全員が少しずつ落ち着いた。


まだ、礼が残っている。


まだ、相手がいる。


東峰大附属の選手たちは、悔しそうに、それでも列を作っていた。


最後まで、嫌な相手だった。


最後まで、強い相手だった。


だからこそ、この勝利は軽くない。


整列。


「ありがとうございました!」


声が重なった。


スコアボードには、試合結果が残っていた。


蒼栄学院 3。


東峰大附属 2。


夏大会準々決勝。


蒼栄学院、勝利。


準決勝進出。


私はベンチ前で、その文字を見ていた。


勝った。


三橋が始めた試合を、藤原が守った。


久保が途中から入り、宮野が揺さぶり、今藤が外し、芳田が返し、大原が捕った。


誰か1人の試合ではない。


それでも、最後のマウンドにいたのは藤原だった。


見られている球。


知られている球。


それでも、藤原は最後まで投げた。


私はスコアボードから目を離し、選手たちを見た。


準決勝。


そこまで、来た。

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