第7話 味方のエラーまで背負うな
次は、投手だ。
私はそう決めた。
芳田の前に走者を置く形は見えてきた。
宮野の送球も、少なくとも去年の一球からは前に進んだ。
だが、試合を作るのは投手である。
打線が何点取ろうと、守備がどれだけ整おうと、マウンドが崩れれば試合は終わる。
北辰実業戦まで、あと十二日。
私は練習予定表を見た。
青くは光っていない。
昨日と同じ、ただの紙だった。
「今日は光っていませんね」
瀬川が横から言った。
「そうだな」
「少し残念ですか?」
「いや」
私は予定表を閉じた。
「毎日光られたら、逆に信用できない」
「確かに、毎日特別だったら特別じゃないですね」
瀬川は納得したように頷いた。
今日は、青い日ではない。
ならば、普通に監督としてやるだけだ。
グラウンドでは、投手陣がキャッチボールを始めていた。
三年の三橋和也。
球速:124km/h
コントロール:C
スタミナ:D
変化球:
カーブ:2
特殊能力:
なし
数字だけなら、今すぐ一番計算できる投手は三橋だった。
藤原は天才だ。
左腕で130km/hを投げる。
スライダーもある。
だが、まだ一年生だ。
スタミナはE。
特殊能力には四球がついている。
今すぐ先発を任せるには、危うい。
一方で三橋は、派手さこそないが試合を壊しにくい能力をしている。
コントロールC。
スタミナD。
弱小校の三年生投手としては、むしろありがたい。
ただし、問題がある。
昨日、瀬川が言っていた。
三橋は優しい。
投手として、その評価は少し怖い。
「三橋」
私が声をかけると、三橋はすぐにこちらへ来た。
「はい」
返事が丁寧だった。
三年生らしい落ち着きがある。
身体は大きくない。
だが、立ち方に妙な柔らかさがあった。
良く言えば穏やか。
悪く言えば、少し押しが弱い。
「今日はお前を見る」
「俺ですか」
「ああ。北辰戦の先発候補だ」
三橋の表情が、一瞬だけ固まった。
喜びではない。
不安。
そう見えた。
「……分かりました」
「捕手は?」
三橋が振り向く。
部員たちの中から、三年生の捕手が歩いてきた。
榊。
三年生。
捕手。
肩力:D
守備:D
捕球:D
特殊能力:
なし
派手さはない。
今藤ほどの打撃能力もない。
捕球も今藤のCには届かない。
だが、三年生として三橋の球を受け続けてきた捕手だ。
今すぐ三橋を投げさせるなら、榊の方が自然だった。
「榊、受けてくれ」
「はい」
今藤が少し離れたところでそれを見ていた。
今藤悠真。
本職は捕手。
二塁もできる。
昨日の打撃練習を見ても、打線から外すのは惜しい選手だ。
藤原と組ませるのも面白い。
だが、すべてを一年生に寄せると、三年生の夏が崩れる。
三橋には榊。
藤原には今藤。
今のところ、その使い分けが一番自然だろう。
もちろん、試合が始まれば変わる。
だが、最初から答えを決めすぎるのは危険だ。
「まず普通に投げろ」
「はい」
ブルペン代わりのネット前に、三橋と榊が向かう。
三橋はロージンを軽く触り、ゆっくりと足を上げた。
一球目。
ストレート。
速くはない。
だが、榊の構えたところへ素直に収まった。
乾いた音。
二球目。
外角低め。
これも悪くない。
三球目。
カーブ。
大きくは曲がらないが、緩急はつく。
「安定していますね」
瀬川が言った。
「ああ」
私は頷いた。
三橋は、きちんと投げられる投手だ。
派手な球はない。
空振りを奪えるほどの威力もない。
だが、ストライクを取る力がある。
弱いチームにとって、それはかなり大きい。
ただ、昨日のスコアブックが頭に残っている。
一回裏。
ヒット。
犠打。
四球。
タイムリー。
エラー。
犠牲フライ。
三橋が一人で崩れたわけではない。
守備のミスもあった。
味方が支えきれなかった。
なのに、三橋はそれを背負った。
「三橋」
「はい」
「次は状況をつける」
三橋が少しだけ身構えた。
「一死一、二塁。スコアは同点。ショートゴロを宮野が捕って、一塁へ悪送球した想定だ」
宮野がこちらを見た。
「俺ですか」
「去年と同じだ」
宮野は言い返さなかった。
昨日、彼は一つ前へ進んだ。
だからこそ、この状況を避けてはいけない。
「ランナー一人生還。一死二、三塁。お前はその直後の打者を迎える」
三橋の表情が、明らかに硬くなった。
榊もミットを構えたまま、少し口を結ぶ。
「監督」
三橋が言った。
「それ、今やる必要ありますか」
「ある」
私は即答した。
「北辰は、去年と同じように揺さぶってくる。強いチームは、弱いチームの傷を見つけるのがうまい」
三橋は黙った。
「去年のミスは、今年も狙われる。宮野の送球も、お前の立ち直りも」
宮野が奥歯を噛む。
三橋は視線を落とした。
「投げろ」
三橋は頷いた。
榊がミットを構える。
初球。
外角に大きく外れた。
ボール。
二球目。
低めに外れる。
ボール。
三球目。
置きにいったストレートが、真ん中高めに入った。
もし打者がいれば、危ない球だった。
榊がミットを下ろす。
「和也」
三橋は何も言わなかった。
私は三橋の表情を見ていた。
怒っているわけではない。
焦っている。
いや、焦っているというより、沈んでいる。
味方がミスをした直後。
三橋は、次の打者ではなく、前のミスを見ている。
失点。
味方のエラー。
申し訳なさ。
自分が抑えなければという焦り。
それらが全部、腕に乗っている。
「三橋」
「はい」
「今、何を考えた」
三橋は答えなかった。
「言え」
少しだけ強く言う。
三橋はようやく口を開いた。
「また、宮野に嫌な思いをさせると思いました」
宮野が顔を上げた。
「俺?」
三橋は見なかった。
「去年、宮野がエラーしたあと、俺が抑えていれば、あそこまで崩れなかったんです」
「違う」
私は言った。
三橋がこちらを見る。
「去年のあれは、お前一人の失点じゃない」
「でも、投手は俺でした」
「投手だったことと、全部お前の責任であることは別だ」
三橋は黙る。
こういう投手は難しい。
責任感がある。
仲間思いでもある。
だが、その優しさがマウンドで余計な重りになる。
「三橋」
私はゆっくり言った。
「味方のエラーまで背負うな」
三橋の表情が動いた。
「でも」
「背負うな」
私はもう一度言った。
「味方がエラーをしたら、お前がやることは一つだ」
「抑えること、ですか」
「違う」
三橋が目を瞬かせる。
「次の一球を投げることだ」
グラウンドが静かになった。
「抑えるかどうかは、そのあとだ。三振を取るとか、内野ゴロを打たせるとか、犠牲フライを防ぐとか、考えることはある。だが、その前にお前は次の一球を投げなきゃいけない」
私はマウンドの土を指した。
「お前は味方のミスを消すために投げるんじゃない。次の打者と勝負するために投げるんだ」
三橋は何も言わなかった。
榊がミットを構えたまま、静かに三橋を見ている。
宮野も、もう口を挟まない。
「もう一度」
私は言った。
「同じ状況だ。一死二、三塁。味方のエラーで一点を失った直後」
三橋がロージンを触る。
今度は少し長く息を吐いた。
榊が低めに構える。
一球目。
外角低め。
ストライク。
榊のミットが鳴った。
宮野が小さく息を吐く。
三橋は表情を変えない。
二球目。
カーブ。
低めに落ちる。
ボール。
だが、悪くないボールだった。
三球目。
内角ストレート。
わずかに詰まらせるコース。
榊が捕る。
「今のだ」
私は言った。
「それでいい」
三橋はまだ納得していない顔をしている。
「抑えたわけじゃないですよ」
「今はそれでいい」
「でも」
「次の一球を投げられた。それが最初だ」
三橋は黙った。
自分に厳しい選手だ。
悪くない。
だが、厳しさの向け方を間違えると、投手は簡単に壊れる。
「榊」
「はい」
「三橋が味方のミスを背負いそうになったら、お前が止めろ」
榊は少し驚いた顔をした。
「俺が、ですか」
「捕手だろ」
「はい」
「投手が前のプレーを見始めたら、次のサインを出せ。余計なことを考える時間を与えるな」
榊はミットを見下ろした。
「……分かりました」
「今藤」
少し離れたところにいた一年生捕手が顔を上げる。
「はい」
「お前も見ておけ」
「俺もですか」
「藤原は勝負で逃げる癖がある。三橋は背負い込む。投手は全員、どこかで面倒くさい」
今藤が少しだけ笑った。
「捕手も大変ですね」
「そうだ。だから楽しい」
「監督、捕手やったことあるんですか?」
「ない」
「ないのに言い切るんですね」
「監督だからな」
瀬川が横で小さく笑った。
空気が少し緩む。
それでいい。
重いままでは、練習は続かない。
「次、宮野。実際に入れ」
「はい」
宮野がショートに入った。
大原が一塁。
芳田が三塁。
榊が捕手。
三橋がマウンド。
私は打者役としてノックバットを持った。
「状況は同じ。一死一、二塁。宮野、捕ったら二塁でも一塁でもいい。無理に併殺を狙うな」
「分かってます」
「三橋。もしミスが出ても、次の一球だ」
三橋は頷いた。
私はゴロを打った。
打球はショート正面。
宮野が捕る。
一瞬だけ、一塁を見る。
だが、昨日ほど止まらない。
二塁には間に合わないと判断し、一塁へ投げた。
送球はやや高い。
だが、大原が捕った。
アウト。
「今のは?」
宮野が聞いてくる。
「悪くない」
「悪くない、ですか」
「良くもない」
「そこは褒めてもよくないですか」
「調子に乗るだろ」
宮野は不満そうに口を曲げた。
だが、目は少し笑っていた。
次の打球。
今度は三遊間。
宮野が追いつく。
捕る。
踏ん張る。
投げる。
ワンバウンド。
大原が止めた。
アウトにはならない。
「すみません」
宮野が言う。
三橋の表情が動いた。
去年なら、ここで沈んだのだろう。
榊がすぐに立ち上がった。
「和也、次」
短い言葉だった。
だが、効いた。
三橋は一度だけ頷き、ロージンを触った。
私はバットを持ったまま見ていた。
三橋の視線が、宮野ではなく榊のミットへ向く。
セット。
投球。
外角低め。
ストライク。
「それだ」
私は言った。
三橋は静かに息を吐いた。
宮野がショートの位置で拳を握る。
小さな変化だった。
だが、確かに変化だった。
宮野がミスをしても、三橋が沈まない。
三橋が投げれば、宮野も次に備えられる。
榊が間に入ることで、二人の間に余計な沈黙が生まれない。
守備は、個人ではなく繋がりだ。
昨日、宮野の送球Eが消えた。
だが、本当に試合で使えるかどうかは、こういう場面で分かる。
エラーをしない選手はいない。
問題は、その後にチームが崩れるかどうかだ。
練習は続いた。
わざと難しい打球を混ぜる。
わざと悪い送球も出る。
三橋には、毎回その直後の一球を投げさせる。
最初は顔に出ていた。
だが、回数を重ねるごとに、三橋は少しずつ切り替えが早くなっていく。
完全ではない。
それでも、去年のままではない。
練習後。
三橋はマウンドに一人残っていた。
私は近づいた。
「まだ投げるのか」
「いえ。マウンドを見ていました」
「マウンド?」
「去年の北辰戦も、こういう感じだったなって」
三橋は土を見下ろす。
「俺、宮野のエラーのあと、ずっと宮野の顔を見られなかったんです」
「なぜ」
「責めてると思われたくなかったから」
三橋らしい答えだった。
優しい。
だが、少しずれている。
「見ればよかったんじゃないか」
三橋がこちらを見る。
「責めるためじゃない。次いくぞって言うために」
三橋は黙った。
「お前が見なかったことで、宮野は一人で失敗を抱えた。お前も一人で失点を抱えた」
私は言った。
「優しさで目を逸らすな」
その言葉は、少し強かったかもしれない。
三橋は目を伏せる。
けれど、逃げなかった。
「……はい」
しばらくして、三橋は小さく頷いた。
「次は、見ます」
「ああ」
「宮野がやらかしたら、見ます」
「そこはもう少し言い方を選べ」
三橋が少し笑った。
その笑いは、今日初めて見たものだった。
部室に戻ると、瀬川が北辰戦の仮オーダー表を作っていた。
「監督、こんな感じでどうですか」
私は紙を受け取った。
一番、宮野。
二番、今藤。
三番、未定。
四番、芳田。
五番、大原。
六番、榊。
七番、三橋。
八番、未定。
九番、未定。
「今藤は二番か」
「捕手ではなく、二塁で考えています」
「悪くない」
本職は捕手。
だが、二塁も守れる。
今藤の選球眼と粘りを上位に置く。
三橋の時は榊が捕手。
藤原を出す時に、今藤を捕手へ回すかどうかは状況次第。
練習試合なら、多少の入れ替えはできる。
公式戦なら簡単ではないが、今は試す価値がある。
「三番は?」
瀬川が聞く。
私は少し考えた。
三番は、芳田の前に走者を置く重要な打順だ。
だが、今の蒼栄に明確な三番打者はいない。
「まだ決めない」
「はい」
「北辰戦までの練習で見る。三番が空いているのは、逆にいい」
「どうしてですか?」
「全員にチャンスがある」
瀬川は納得したように頷いた。
私は仮オーダー表を机に置いた。
宮野。
今藤。
未定。
芳田。
形は少しずつ見えてきた。
一番が出る。
二番が粘る。
三番が繋ぐ。
四番が返す。
そして、マウンドには三橋。
その後ろに、藤原。
北辰実業戦まで、あと十二日。
まだ足りない。
まだ弱い。
まだ穴だらけだ。
だが、去年とは同じではない。
宮野は去年の送球から一歩進んだ。
芳田は一人で背負わなくていいと知った。
三橋は、味方のエラーまで背負わないことを覚え始めた。
甲子園は買えない。
勝利も買えない。
だが、去年と同じように終わらされない準備ならできる。
私は仮オーダー表の一番下に、小さく書き込んだ。
北辰戦。
目標。
七回まで試合をする。
その下に、少し迷ってから、もう一行足した。
去年と同じ顔で、負けない。
――――――
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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引き続き、蒼栄学院の歩みを見守っていただければ嬉しいです。
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