甲子園は買えない 〜特殊能力が見える監督の高校野球記〜

マシロダイキ

第1章 着任と始まりの春

第1話 黒瀬監督、着任する

桜の舞う四月。


とある私立高校に、一人の新任監督がやってきた。


目指すは強豪。

そして、いつかは名門。


まだ誰にも知られていない選手たち。

まだ誰にも語られていない敗北。

まだ誰にも信じられていない栄冠。


ここから、新しい歴史の一ページが始まる。


いざ、白球の季節へ――。


そんな文章を、最後に見た気がした。


次に目を開けた時、私は見知らぬ校門の前に立っていた。


「……どこだ、ここ」


春の風が吹いている。


桜の花びらが一枚、肩に落ちた。


目の前には、手入れの行き届いた校舎がある。

古びてはいない。

むしろ、私立らしい落ち着いた雰囲気があった。


校門のプレートには、銀色の文字でこう刻まれている。


私立蒼栄学院高等学校。


聞き覚えはない。


少なくとも、私が通っていた学校ではない。

職場でもない。

取引先でもない。


それなのに、なぜか私はスーツ姿で、右手には黒い鞄を持っていた。


鞄の中には、辞令らしき紙が一枚。


『私立蒼栄学院高等学校 硬式野球部監督を命ずる』


「命ずる、じゃないんだが」


誰が。

なぜ。

いつから。


紙は、それ以上何も答えなかった。


その時だった。


「あの」


背後から、控えめな声がした。


振り向くと、制服姿の女子生徒が立っていた。


胸に小さなスコアブックを抱え、肩には道具袋をかけている。

真面目そうな顔つきで、こちらをじっと見ていた。


「新しい監督さん、ですよね?」


「……たぶん」


「たぶん?」


彼女は少し困ったように眉を寄せた。


無理もない。


新任監督が初対面で「たぶん」などと言えば、不安になるに決まっている。


私は咳払いをした。


「黒瀬透だ。今日から、この学校の野球部監督らしい」


「らしい……」


「私にも事情が分からない」


「それを最初に言われると、だいぶ困ります」


正直なマネージャーだった。


彼女はすぐに姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。


「二年の瀬川美咲です。硬式野球部のマネージャーをしています。よろしくお願いします、黒瀬監督」


「よろしく、瀬川」


監督。


その呼び方は、妙に重かった。


私は名将ではない。

元プロでもない。

甲子園に出たこともない。


なのに、いきなり高校野球部の監督らしい。


夢にしては、風が冷たい。

冗談にしては、桜がやけに綺麗だった。


瀬川はスコアブックを抱え直すと、黒い通帳を差し出してきた。


「それと、こちらを預かっています」


「通帳?」


「野球部の活動費だそうです」


表紙には、金色の文字でこう書かれている。


『蒼栄学院野球部強化費』


嫌な予感がした。


通帳の間には、専用の決済カードらしきものが挟まっている。


私は通帳を開いた。


残高。


一億円。


「……瀬川」


「はい」


「この学校は、野球部にプロ仕様のグラウンドでも造るつもりなのか?」


「え?」


彼女が通帳を覗き込み、動きを止めた。


「……これ、桁、合ってますか」


どうやら彼女も知らなかったらしい。


ページの隅には、小さな注意書きがあった。


『本資金は、野球部の活動に関わる支出にのみ使用できます』


私は試しに、校門近くの自動販売機で缶コーヒーを買おうとした。


決済は通らなかった。


十分後、瀬川に案内された近所のスポーツ用品店で、練習球を十ダース注文した。


決済は通った。


「……野球部専用の金らしい」


「そんな軽く受け入れていい話ですか?」


「受け入れないと話が進まない」


「監督、思ったより雑ですね」


「雑なんじゃない。切り替えが早いだけだ」


瀬川は納得していない顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。


私たちは校舎裏のグラウンドへ向かった。


蒼栄学院は、学校そのものに金がないわけではなさそうだった。

校舎は綺麗で、廊下も広い。

中庭まで整えられている。


だが、野球部のグラウンドだけは別だった。


内野の土は硬く、外野には雑草が混じっている。

防球ネットは少したるみ、ベンチの屋根には錆が浮いていた。

白線も薄い。


学校に見捨てられている、とまでは言わない。


ただ、期待されていない場所だった。


そこに、十数人の部員たちがいた。


キャッチボールをしている者。

素振りをしている者。

ノックを受けている者。


動きはぎこちない。

声も小さい。

強豪校特有の張り詰めた空気はない。


弱い。


そう思った瞬間、私の視界に妙なものが浮かんだ。


部員たちの頭上に、文字が見える。


ミートF。

パワーG。

走力E。

肩力F。

守備G。

捕球E。


「……なんだ、これは」


思わず足が止まった。


瀬川がこちらを見る。


「どうしました?」


「いや」


私は目をこすった。


消えない。


別の部員を見る。


ミートE。

パワーF。

走力D。

守備F。

捕球F。


さらに、その下に赤い文字が見えた。


送球E。


「……なるほど」


「何がなるほどなんですか」


瀬川の声を聞き流しながら、私はグラウンド全体を見渡した。


能力が見える。


選手の基礎能力も、特殊能力らしきものも。


それが事実なら、とんでもない力だ。


選手の適性が分かる。

弱点も分かる。

起用も育成も、普通の監督よりはるかに有利になる。


だが、私はすぐには浮かれなかった。


数字が見えたところで、選手の心までは見えない。


肩が強くても、大事な場面で暴投する選手はいる。

ミートが高くても、打席で震える選手はいる。

チャンスに強いと表示されていても、必ず打つとは限らない。


野球は、能力表だけで決まるほど単純ではない。


それでも、見えるものは見える。


そして私は、部員たちの中に一人だけ、明らかに数字のおかしい選手を見つけた。


名前も、学年も、そこには表示されていた。


三年生。


芳田。


ミートC。

パワーB。

走力C。

肩力C。

守備D。

捕球D。


特殊能力。


アベレージヒッター。

広角打法。

チャンスB。


「いるじゃないか」


私の声に、瀬川が反応した。


「芳田先輩ですか?」


「ああ」


「うちの四番です。去年も、あの人だけは打っていました」


「あの人だけは?」


瀬川は少しだけ言いにくそうに視線を落とした。


「芳田先輩が打っても、勝てなかったんです。後ろが続かなかったり、守備で崩れたり。だから……今年こそは、って」


その言葉で、私はもう一度、芳田の表示を見た。


三年生。


その文字が、やけに重く見えた。


どれだけ才能があっても、彼に残された夏は一度だけだ。

春が過ぎれば夏が来る。

夏に負ければ、そこで終わる。


金はある。

能力も見える。

道具も買える。

環境も整えられる。


だが、時間だけは買えない。


「集合!」


瀬川が声を張った。


部員たちが一斉にこちらを見る。

そして、慌てて駆け寄ってきた。


整列した彼らの顔には、期待と不安が混じっていた。


新しい監督。

突然やってきた大人。

自分たちを変えてくれるかもしれない相手。

あるいは、また何も変えられずに去っていく相手。


その視線を受けながら、私は一歩前に出た。


「今日から監督を務める、黒瀬透だ」


部員たちは黙って聞いている。


「最初に言っておく。私は名将ではない。元プロでもない。甲子園の土を踏んだこともない」


わずかに空気が揺れた。


頼りない自己紹介だ。

だが、嘘をついても仕方がない。


「それでも、やれることは全部やる。道具が足りないなら買う。練習環境が悪いなら整える。遠征が必要なら行く。必要なら外部から指導者も呼ぶ」


部員たちがざわついた。


当然だ。

結果の出ていない野球部に、そんな景気のいい話は似合わない。


私は黒い通帳を掲げた。


「金はある」


今度は、はっきりとざわめきが広がった。


横で、瀬川が小さくため息をついた。


「でも、勘違いするな」


私は続けた。


「金で買えるものは買う。だが、甲子園だけは買えない」


グラウンドが静かになった。


「最後に投げるのはお前たちだ。最後に打つのもお前たちだ。私はサインを出す。練習を決める。責任を取る。だが、白球だけは私の代わりに飛んでくれない」


芳田がこちらを見ていた。


静かな目だった。

期待しているのか、疑っているのかは分からない。


ただ、その目には時間がない者だけが持つ熱があった。


「目標は甲子園」


私は言った。


「無茶だと思う者もいるだろう。笑ってもいい。だが、私は本気でそこを目指す」


誰も笑わなかった。


風が吹いた。


桜の花びらが、グラウンドの土に落ちる。


「今日から始める」


私は荒れた内野を指さした。


「まずはグラウンド整備だ」


部員たちの何人かが、ぽかんとした顔をした。


「練習じゃないんですか?」


二年生らしき遊撃手が聞いてくる。


「練習だ」


私は言った。


「この土でまともな守備ができると思うな。イレギュラーを運のせいにする前に、運が荒れない場所を作る」


誰も反論しなかった。


瀬川がスコアブックを閉じ、少しだけ笑った。


「監督らしいこと、言うんですね」


「失礼だな。私は最初から監督だ」


「さっきまで一番自信なさそうでしたけど」


「今もない」


「ないんですか」


「ああ」


私はもう一度、部員たちを見た。


弱い。

未熟。

穴だらけ。


だが、不思議と悪くない。


ここから始められるなら、変わっていく過程を全部見られる。

勝つことも、負けることも、伸びることも、折れることも。


そのすべてが、このチームの歴史になる。


「ただし」


私は言った。


「勝たせる気はある」


その言葉に、部員たちの表情が少し変わった。


芳田が小さく頷く。

瀬川が少しだけ目を見開く。


その時だった。


ベンチの端で、ひとりの一年生がグラブを握っていた。


細身の投手。

まだ身体はできていない。

球速も、制球も、今すぐ試合を任せられる数字ではない。


だが、能力欄の一番下に、見慣れない表示があった。


成長タイプ。


天才。


「……お前もいるのか」


私は思わず呟いた。


黒い通帳よりも。

芳田の能力よりも。


その二文字が、この春で一番厄介なものに見えた。


甲子園は買えない。


だが、このチームには、金では買えないものがいくつか紛れ込んでいる。


時間のない主砲。


一年生の天才。


そして、それを見てしまう監督。


私立蒼栄学院高等学校硬式野球部。


春は、まだ始まったばかりだった。

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