第15話



純白の外套を風に靡かせながら、僕の両親の仇である男が、極めて自然な動作で僕の隣に並び立った。

勇者、ラングルド・ハーヴェスト。

少し前まで僕を虫けらのように見下し、絶望の底へと叩き落としたこの男が、今は僕と同じ上空の「敵」を見据えている。

「エミール。君の復讐は後回しだ。……まずはあの理不尽な神様を、二人で玉座から引きずり下ろそうじゃないか」

その提案を聞いた瞬間、僕の右半身を浸食している魔王の瘴気が、制御を振り切らんばかりに激しく波打った。

握りしめた剣の柄から、ギリギリと骨が軋む音が鳴る。

今すぐ、この剣を真横に振り抜き、無防備に隣に立つこの男の首を刎ね飛ばしてやりたい。こいつの喉笛を掻き切り、その血で両親の無念を晴らしたい。

脳髄が沸騰するような殺意が、喉の奥までせり上がってくる。

だが。

僕は、奥歯が粉々に砕けそうなほどの力で噛み締め、その嘔吐を催すほどの憎悪を、冷たい息と共に腹の底へと呑み込んだ。

決して、貴様を許したわけではない。

貴様の命は、必ずこの手で刈り取る。

だが、今は――上空でアリスという神の意識に呑み込まれかけているマーシャを、あの光のヴェールの中から引きずり出すことが最優先だ。そのためだけなら、僕は目の前の悪魔を利用することすら厭わない。

僕はラングルドへは一瞥すら向けず、ただ真っ直ぐに、前方の上空に浮かぶアリスのみを氷のような瞳で射抜いた。

握りしめた右手の爪が手のひらに食い込み、滲み出した血がぽたぽたと足元の瓦礫を濡らす。それが、僕が不本意ながらもこの一時的な共闘を冷徹に受け入れたという、無言の絶対的な意思表示だった。

『――小賢しい真似を……!! 人間ごときが、この俺を……!!』

静寂を切り裂いたのは、背後で地に伏していた魔王の咆哮だった。

ラングルドの不意打ちによって背後から心臓を貫かれ、一度は闇の霧となって逃亡を図ろうとした魔王。だが、彼はその屈辱と、上空に浮かぶアリスへの数千年分の憎悪を抑えきれなかったのだろう。

致命傷を負い、黒い血を撒き散らしながらも、魔王は再びどす黒い瘴気の竜巻となってその場に実体化した。

『俺を誰だと思っている!! 俺はこの世界そのもの……!! 貴様ら如きに背を見せて逃げるなど、断じてあり得ん!!』

魔王の巨体から、先ほどまでとは比較にならないほど濃密で、暴走気味の闇のオーラが噴き出す。傷口から漏れ出す生命力を、無理やり魔力に変換して燃やしているのだ。

魔王の赤い瞳が、ラングルドを、僕を、そして上空のアリスを狂乱の眼差しで睨みつける。

「ほう。大人しく退場していれば良かったものを」

ラングルドは、暴れ狂う魔王を前にしても、涼しい顔で微かに肩をすくめた。

「まあいい。的が増えたところで、僕のやることは変わらない」

上空で、純白のドレスと光のヴェールを纏った原初の調律者、アリスが静かに目を伏せた。

彼女の眼下には、致命傷を負いながらも暴走する魔王。調律者の権能を掠め取り、自らの盤面を描こうとするラングルド。そして、光と闇という相反する二つの権能を同時に宿してしまった、僕。

『……光と闇の均衡は、完全に失われた。もはや、この空間に存在するすべての要素が、星の理を脅かす致命的な不具合(バグ)でしかない』

アリスの声は、怒りではなく、どこまでも深く、底冷えするような悲哀に満ちていた。

彼女が、透き通るような白い腕をゆっくりと天に掲げる。

『原初の調律者として、私がすべてを無に還す。……嘆きの光雨(ラクリマ・ルミナス)』

彼女の指先から放たれた極小の光の粒子が、夜空を覆う黒雲を突き抜け、さらに上空で無数の巨大な魔法陣を展開した。

次の瞬間、空が割れた。

音もなく、何千、何万という「光の槍」が、雨霰のごとく僕たちの頭上へと降り注いできたのだ。

一本一本が、先ほどマルスの絶対防壁を粉砕したあの光と同じ密度を持っている。それが、視界を完全に埋め尽くすほどの凄まじい物量で襲いかかってきた。

『オオオオオオオオオッ!!!!』

魔王が咆哮を上げ、自らの周囲に極太の闇の竜巻を発生させて光の雨を相殺しようとする。だが、神威を帯びた光の槍は闇の竜巻を次々と貫通し、魔王の巨体に容赦なく突き刺さっていく。

『ガアアアアッ……!! アリスゥゥゥッ!!!』

魔王の絶叫が響く。

「……流石に、厄介だね」

ラングルドが純白の外套を翻し、聖剣を空に掲げた。

「『絶対防壁(アイギス)』」

彼を中心に、何重にも折り重なる黄金の障壁が展開される。光の雨が障壁に激突し、凄まじい閃光と破砕音が連続して鳴り響いた。

僕もまた、自らの頭上に迫る無数の光の槍を見上げた。

避ける隙間などない。魔王の右腕の瘴気で防ごうとしても、あの神聖な光の前では悪魔の力などすぐに溶かされてしまうだろう。

ならば。

僕は、右腕の剣を下ろし、残された左腕を空へと真っ直ぐに突き出した。

魂の奥底、あの暗闇の世界で僕に手を差し伸べてくれた、あの「幻影の男」の言葉を思い出す。

『君の内側には今、魔王と契約したことによる強大な闇の力が渦巻いている。だが、君の魂の底には、千年に一度顕現する光の力が、まだ眠ったまま残されている』

あの猛吹雪の夜、僕が魔王の空間(ALICE)を内側から粉砕した時に溢れ出した、あの温かい光。

古文書院で読んだ伝承。千年に一度、星の意思が人の形をとって現れる真の英雄。魔を祓う黄金の瞳と、すべてを浄化する退魔の光。

そして、精神世界の最深部で僕に語りかけてきた、あの純白の甲冑を纏った男の姿。

点と点が、僕の中で完全に線となって繋がった。

あの男の気配。あの男の放っていた光。

それは、他の誰のものでもない。僕の血脈に、僕の魂の最も深い場所に何世代にもわたって受け継がれてきた、僕自身の「光」だ。

僕は、左半身に意識を集中させた。

「出ろ……!!」

声なき叫びと共に、僕の左手からプロミネンスのような強烈な『黄金の光』が爆発的に噴き出した。

ズガガガガガガガンッ!!!!!

僕の頭上に降り注いでいたアリスの光の槍が、僕の左手から放たれた黄金の光と激突し、空中で凄まじいエネルギーの奔流となって相殺されていく。

それは、魔法の防壁ではない。光と光がぶつかり合い、互いの質量を喰い破り合う、純粋な力の拮抗。

『……やはり、その光。貴様の中に眠るのは、かつて私が切り離した権能の片割れ……』

上空のアリスが、僕の放つ光を見て、僅かにヴェールの奥の瞳を細めた。

僕の左半身を包む黄金の光は、魔王の右腕から発せられる紫色の瘴気と混ざり合うことはなかった。身体の中心を境にして、完全な光と完全な闇が、互いに反発することなく独立して燃え盛っている。

身体が真っ二つに引き裂かれそうなほどの凄まじい負荷が、僕の魔力回路を悲鳴を上げさせていた。

「すごいじゃないか、エミール」

光の雨を防ぎきったラングルドが、横目で僕を見て、薄く微笑んだ。

「まさか、魔王の呪いをその身に宿しながら、同時に英雄としての『光』の権能まで完全に引き出してしまうとはね。……ふふっ、本当に君は、僕の想像をはるかに超える最高のイレギュラーだ」

僕は、ラングルドの称賛を無視し、無言のまま瓦礫を蹴った。

防御しているだけでは、ジリ貧だ。あの光の雨を降らせているアリスの意識を断ち切らなければ、マーシャを取り戻すことはできない。

僕は、右腕の魔王の力で超人的な脚力を生み出し、崩れかけた病院の壁を蹴って、上空に浮かぶアリスに向かって一直線に跳躍した。

「落ちろォォォッ!!」

左手に黄金の光を、右手に魔王の瘴気を纏わせた大剣を振りかぶり、アリスの光のヴェールに向かって渾身の十字斬りを放つ。

だが。

『――届かぬよ』

アリスが、白く透き通る指先を、ほんの僅かに動かした。

それだけで、僕の目の前の空間が「ガラス」のように硬質化し、目に見えない絶対的な断層が形成された。

ガキィィィィィンッ!!!!

僕の光と闇を乗せた刃が空間の断層に激突し、火花を散らすが、アリスには傷一つ、髪の毛一本触れることができない。

『調律者とは、理そのもの。世界という箱庭の法則を書き換える私に、物理的な刃が届く道理はない』

アリスの目が、冷酷に僕を見下ろす。

彼女の背後に、太陽のように輝く巨大な魔法陣が三つ、瞬時に展開された。そこから放たれるのは、先ほどの雨とは比較にならない、一撃で山を吹き飛ばすほどの極太の光線。

空中で逃げ場を失った僕の身体に、致死の光が直撃する。

そう覚悟した瞬間だった。

「僕を置いていくなんて、つれないな」

僕の背後の空間が歪み、純白の外套がふわりと舞った。

ラングルドだ。彼は空間転移の魔法を使い、空中にいる僕の真後ろに現れたのだ。

彼は聖剣を構え、アリスの放った三本の極太の光線に向かって、神速の突きを放った。

「自己流剣技……"星砕き"」

ラングルドの聖剣から放たれた光の波動が、アリスの光線を真っ向から貫き、空中で大爆発を引き起こした。

凄まじい爆風が僕たちの身体を吹き飛ばし、僕とラングルドは地上へと着地した。

「……余計な真似を」

僕は、着地の衝撃を殺しながら、低い声で吐き捨てた。

「おやおや。助けてあげたのに、冷たいな。今のは君一人では防げなかっただろう?」

ラングルドは、悪びれる様子もなく肩をすくめる。

腹立たしいほどに、息が合っていた。

お互いに一切の言葉を交わさず、目配せすらしなかったにも関わらず、僕が特攻してアリスの注意を引き、その隙を突いてラングルドが防御と反撃を同時に行う。

まるで、何年も共に戦ってきた相棒のように、寸分の狂いもない連携が成立してしまったのだ。

それが、僕たち二人が同じ「英雄の系譜」を継ぐ者だからこその皮肉なのか、それとも、この男の戦闘センスが常軌を逸しているだけなのか。

どちらにせよ、虫唾が走る。

『……愚かな。理に抗うバグが、二つ束になったところで結果は同じだ』

上空のアリスが、さらに膨大な魔力を収束させ始める。

『ガアアアアッ……!! アリスゥゥゥッ!!!』

そこに、全身を光の槍で串刺しにされ、黒い血を流しながらも執念で立ち上がった魔王が、憎悪のままに特大の瘴気の塊をアリスに向かって放った。

神。勇者。英雄。そして魔王。

この世界の因果を背負った四つの特異点が、崩壊した廃墟の空間で、一歩も退くことなく激突しようとしていた。

僕の視線は、ただ真っ直ぐに、アリスのヴェールの奥に眠るマーシャの存在だけを捉え続けていた。

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