第2話

ようやくまぶしい感じが落ち着いたので、そろそろ目を開けようかと考えたとき、今度は逆に人影のようなものをまぶた越しに感じました。それから、ぺたぺたと、まるでお風呂上がりの濡れた足でフローリングを歩いた時みたいな、水気のある足音が聞こえてきたんです。わたしは目を閉じたまま身構えました。体操座りとヨガのなんかのポーズの間みたいな、またずいぶん間抜けな姿勢をしていたと思います。その間もわたしの近くで何かが、ぺたぺたと足音を立てながら歩き回っていて、おまけにそれは次第にこちらに近づいているようで、わたしはホラー映画の登場人物のような気持ちで震えていました。時折、呼吸みたいなわずかな風を感じて、わたしはそのたびにピクリと肩を震わせました。ただ、それ以上に何かをされるということはなくて、そのままだいたい1分ぐらい経ったと思います。とうとうわたしは観念して、恐る恐る目を開けました。


わたしの目の前には、女の子が一人、立っていました。その子は何故か、わたしの中学校の制服を着ていて、全身がびしょ濡れでした。それに裸足で、床にはいくつか濡れた足跡がついていました。いくら夏で暑いからって、これはやり過ぎだと思いました。ただ、そんなことよりもっと特徴的なところがその子にはありました。わたしのことをじっと見ている、その子の顔にはエラがあるのです。顔の形のことじゃなくて、本物のエラです。熱帯魚みたいな鮮やかな色の、ちょっとギザギザした、エラ(……もしかしたらヒレかもしれないけど、エラと呼ぶことにします)が付いていて、時々パタパタと動いています。それだけじゃなくて、その子の腕や足にはウロコがあって、店内の照明の光で緑色とか青色に照り返ってキラキラしています。手足の指はちょっと長めで、それぞれの指の間には半透明の膜が張っていて、水かきのようになっていました。つまり、およそ普通の人間ではありませんでした。ちょっとだけ人間寄りの、人魚といったところです。


……と、そのときはこんな風に冷静に分析する余裕なんて無くて、確か、わたしは「きゃああああ!」とか「ひゃああああ!」とか叫びながらバタバタと後ずさりして、後ろの筐体に頭をぶつけてしまいました。三度目です、そろそろたんこぶができそうでした。そんなわたしを、その子はずっと不思議そうに見ていたのですが、突然、ずいとわたしの方に近づいてから、少しかがんで、わたしの両手を握って言いました。


「ねぇねぇ、名前は何ていうの?ここがどこか、知ってる?」


二重のぱっちりした両目をぱちくりさせながら、それとエラをパタパタさせながら、わたしをじっと見ていました。その子の声はよく通るはっきりした声で、顔つきのせいか、ちょっぴり幼く聞こえました。どうやら敵意は無いみたいで、わたしは内心ほっとしていたのですが、黙っているわけにもいかないので、おどおどと答えました。


「わ、わ、わたし、新宮詩歩、中学生」


わたしの声は震えていました。驚いたせいもありますが、わたしは人見知りで、初対面の相手にはだいたいこんな感じなんです。


「わぁ、めずらしい、すっごく長い名前なんだね!」

「そ、そうかな、わりと普通だと思うよ?」

「そうなの?だって、シングウシホチュウガクセイって名前、すっごく長いよ」

「あ、違う、違う、その……ま、間違ってる、名前は詩歩っていうの、詩歩」


わたしは慌てて訂正しました。すると、その子は確認するように聞き返してきました。


「シホ、っていう名前なの?」

「うん」

「シホ、シホっていうんだね!」

「……そうだよ?」


わたしがそう答えると、その子は満足そうにしていました。エラをパタパタさせて、少し薄めの唇をした口元がほころんでいました。何度もその子が詩歩、詩歩と名前で呼ぶので、わたしは少し照れくさい気分になっていました。普段学校では苗字で呼ばれたり、「ぐーちゃん」なんて言われていて、両親以外から名前で呼ばれるのは慣れていないので、顔が熱くなりました。耳が真っ赤になってるんじゃないかと、ちょっとだけ心配になりました。


「……あ、あなたこそ、名前、なんていうの?」


わたしは、ごまかすようなつもりで、聞きました。


「エミ」


さらっと、あっさりとその子が答えたので、わたしは固まってしまって、そうしているとエミというその子はもう一度、大きく口を開いて、エ、ミ、とゆっくり言いました。わたしは言葉にならない相槌を打って、名前が分かったことをアピールしました。漢字はどうやって書くの、とか野暮ったいことを聞こうかとも思いましたが、それより先にエミの方から尋ねてきました。


「シホ、ここはどこか知ってる?」

「ええと、ここはF県のF市、T街の駅近くの商店街……」


わたしはそこまで続けて、しまったと思いました。エミを見ると、きょとんとした表情をしています。たぶん、”F県“のあたりでもうダメだった気がします。そもそも、おそらく”中学生“すらピンと来ていない相手に、どう伝えたものか分かりませんでした。


「まぁいいや、外に出てみようよ!」

「え?」

「ほら、一緒に行こう!」

「え、あっ、ちょっと、と、とと」


エミはそう言って、すっと立ち上がって、私の手を引いて店の外へと歩いて行きました。わたしは慌てて立ちあがって、ぺたぺたと足音を鳴らしながらエミが歩くのについていって、商店街に出ました。そして、わたしはすぐに異変に気づきました。いくらなんでも、静かすぎるのです。サー、とか、ザー、とか、よく分からない環境音は聞こえるのですが、人の話し声とか足音とかそういうものが、全くありません。他の店の中を見てみても、お客さんどころか店員さんすら、一人もいません。どの店を見てもそんな感じで、コンビニすら無人だったので、いよいよ怪しくなりました。わたしはまるで静止画を見ているような気分になっていました。


そして、わたしはいやな発想をしてしまいました。ちょうど最近見た映画で、ラストシーンのあたり、時間が止まってモノクロになった世界を歩いているシーンがあったのを思い出したのです。さいわい、ここはモノクロでは無いけれど……時間は?駅に着いた頃は、もうすぐ午後2時になろうかというぐらいでした……今は?わたしは携帯を見るのが怖くなって、エミの手を引っぱりながら商店街の機械仕掛けの大時計を探しました。


そして、大時計の前まで来たとき、エミのぺたぺたとした足音は止まり、わたしは思わず手を振り払ってしまいました。大時計はちょうど2時を指したまま、人形が踊りの途中でぴたりと止まっているのです。もちろん、チャイムも鳴っていません。じっと、じぃーっと、穴が開きそうなくらいに大時計を見つめてみても、人形が動き出す気配はありませんでした。


それからわたしは、ようやく携帯を開きました。14:00と表示された画面は、印刷した紙を貼り付けたみたいに、いつまでたっても消えません。14と00の間の”:”が、一度も点滅しません。この世界の時間は、ぴたりと止まってしまったのです。そのことを確信するためにかかった時間を、確かめる術はありませんでした。

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