1-9
――僕は最低だ。
キェルキは藪の中で身体を抱えるようにして蹲りながら呟く。
自分たちの村を守りたいという意志は誰よりも強く持っていたつもりだった。
彼はトンカ村で代々続く猟師の家系に生まれた。
幼い頃はよく余った獲物を配り歩かされていたおかげで、村中の人から可愛がられていた。大人になってからは、その人懐っこい愛嬌と少し頼りない気弱さで、周囲から常に目をかけられる末っ子的な扱いを受け、ある意味でのムードメーカーの役割を担っていた。
そんな風に村から愛されていた彼は、同じくらい村を愛していた。狩りに出掛ける森の先へは行ったことがなく、村の外の世界は全く知らなかった。彼にとっては村と森が世界のすべてで、その小さな世界に十分すぎるほど満足していた。
だから、魔族が攻め込んでくることを知って、彼は命を賭してでもこの村を守らなくてはいけないと思った。愛する家族、共に生まれ育った友人、助け合ってきた村人、恵みをもたらしてくれた自然と、命を分け与えてくれた動物たち。そのすべてが何よりも大切で、魔族などに侵されてはならない。
ヤッカが村に残って戦うと言った時も、何の迷いもなくその後ろに続いた。祖父の代から受け継いできた水平二連の猟銃がこれまでにないほど手に馴染んだ。まるでこうして正しい役割を与えられることを待っていたような高揚感すらあった。
しかし、田舎の小さな村だけで暮らしてきた彼には想像もできないほど、この世界は残酷だった。
目を瞑ると、あの光景がコラージュのように何重にも頭の中を覆い尽くす。悲鳴、赤い飛沫、嘲笑う声、おぞましい化け物、震える手、逃げ惑う鳥の羽音、むせ返る血の匂い。家は壊され、畑は踏み荒らされ、家畜は意味もなく剣を突き立てられる。腱が千切れ、骨が砕け、肉が潰れる音がする。大きくなった鼓動が耳を塞ぎ、荒い呼吸音だけが脳内でどんどんと増幅していく。
キェルキは悪夢を追い払うように、慌てて顔を上げる。何度もそれを繰り返すうちに、目を瞑るのが恐ろしくなって、しばらく瞬きもせずにただ茫然と風に揺れる葉を見ていた。
無我夢中で逃げてきた彼は、もはや自分がどこにいるのかもわからない。
子どもの頃から森と戯れ、あんなにも慣れ親しんでいたはずなのに、今はこの木々は落とす影が得体の知れない化け物のように感じる。風が吹いて葉擦れの音が聞こえる度に、彼は息を止めてぐっと身体を強張らせた。
彼はずいぶん昔にもこうして森の中で蹲っていたことがあったのを思い出す。
その時はまだ父の使う猟銃と変わらないくらいの身長だったというのに、自分も早く一人前の大人になりたくて、いつも猟に連れていってほしいと父に駄々をこねていた。しかし、当然そんな子どもを仕事に連れていくはずもなく、結局痺れを切らした彼は一人でこっそりと森へ入ることにした。
木で作った偽物の銃を背負って、意気揚々と森を奥へと進んでいく。時折木の上に鳥を見つけると、銃を構えて撃つふりをしてみたりもした。
しばらく歩いていると代り映えのしない景色に飽きてきて、森に踏み入れた瞬間の高揚感はあっという間に薄れてしまった。疲労が溜まった足はどんどん重たくなり、もう村へ帰ろうと思った頃には来た方向がわからなくなっていた。
背中の銃を下ろして地面を引きずりながら、帰り道を探して闇雲に歩き続ける。そんな彼を嘲笑うかのように、日は沈んで森は暗くなっていった。
いよいよ気力が尽きて立ち止まった彼は、初めて肌で感じる夜の冷たい空気に怯えながら、ちょうど今と同じように木の幹に寄りかかって蹲っていた。
あれから時間が経って、彼はすっかり大人になったつもりだったが、実際はたいして変わっていなかった。村の中しか知らなかった少年が周囲の森まで出れるようになったくらいで、もっと外側の、それも魔族がいる恐ろしい世界は未だに知らないままだった。
目の前の草むらががさごそと動く音がして、彼は思わずそちらに目を向ける。
――そうだ、あの時は父さんが迎えに来てくれたんだった。
そんな淡い記憶が蘇るが、彼の父は数年前に病気で亡くなっていた。だから、当然彼を助けに来ることもない。
代わりに彼の前に現れたのは、先ほど彼の銃弾をはじいた獣人型の魔族兵だった。
「ぁあ……」
彼は慌てて周囲をまさぐって猟銃を探す。しかし、逃げてくる途中で無意識に投げ捨ててしまっていて、この場にはもうなかった。他に武器らしいものは持っておらず、腰を抜かしたままじりじりと後ずさりをすることしかできない。
その魔族兵はクジラを二足歩行にしたようなずんぐりと大きな身体で、裂けるように開いた口には薄汚れた鋭い牙が不揃いに突き出していた。粘性の高い唾液が糸を引きながら地面に垂れ、呼吸をするたびに血と肉が腐ったようなひどい臭気をまき散らす。
相手は知能が低く愚鈍なタイプだったため、キェルキが本気で逃げようとすれば逃げ切れる可能性は高かった。実際、一度目を付けられたにもかかわらずここまで逃げてこられたのはそれが理由だった。
魔族兵は口を大きく開き、そんな彼を丸呑みしようと近付く。腐った沼のような緑色の口腔が彼の視界を覆い尽くした。キェルキは恐怖と絶望に支配されて、逃げようと考えることすらできなくなっていた。身体が動かず、その場に固まって悲鳴にもならない鈍い声を上げる。
キェルキが死を覚悟したその瞬間、頭上から途轍もない速度で何かが降ってきた。ちょうど魔族兵を踏み潰すように着地すると、巨体はゴムボールのようにひしゃげて地面にめり込み、その衝撃でキェルキは身体を思い切り吹き飛ばされた。
風に流されて薄くなっていく土埃の奥で、それを追いかけるように魔族兵の身体が魔素となって空中に霧散していく。キェルキが霞む目をしばたいてそちらを見つめると、その中には人の影らしき姿が見えた。
「助かった……」
キェルキはその姿を騎士団の人間だと理解した。魔族兵をいとも簡単に屠ってしまえるのは、普通の人間ではありえない。
本来ならば、こんなにも早く助けが来るはずはないが、偶然近くにいた騎士団員が異変に気付いて駆けつけてくれたのだろう。これでもう安心だ、と張り詰めていた気持ちが一気に緩んで、堰を切ったように涙があふれだした。
「違う、まだだ」
そこでようやく冷静さを取り戻した彼は、あの魔族兵を倒して終わりではないと思い直す。村で出くわしただけでも、魔族兵は十体以上いた。もしも、そのうち一体でも洞窟へ辿り着いてしまえば、村人たちは全滅を免れない。
状況を騎士団員に伝えようと、キェルキは何とか身体を起こす。
しかし、土埃が晴れて完全に姿を表したその人影を見て、彼は違和感に気付いた。
その姿はおよそ騎士団員には見えない、まさにどこにでもいそうな人間だった。背丈はキェルキよりも少し小さい痩せぎすの青年で、トンカ村の人間と変わらないような着古した麻の服を着て、武器らしきものも持っていない。
唯一異質だったのは、その青年が角を生やしていたことだった。こめかみの少し上辺りから左右対称に伸びる鹿のような長い角は、禍々しく黒ずんだ色をしていて、明らかに彼が人間ではないことを証明していた。
青年はキェルキに気付いてほんのわずかに顔を向ける。
「シエト?」
不気味な角を生やし、目は血を差したように赤く染まり、毛先が薄っすらと紫がかった銀色の髪はこの世のものとは思えないほど艶めかしく輝いている。その異様な姿は人間よりも魔族を思わせる者だった。
それなのに、キェルキはその青年にありえない既視感を覚えてしまう。何故か、村で共に暮らしていた素朴で優しい青年の顔が重なった。
「待ッ……!」
その青年はすぐにキェルキから視線を外すと、地面を蹴って人間離れした跳躍力で森の奥へと去っていってしまう。キェルキは何が起こったのかまるで理解できないまま、ただ茫然と彼が消えていった空を眺めることしかできなかった。
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