不器用すぎる個性って、回れない歯車に似ているのかもしれない。
歯車に素数のイメージってあまりなかったんですけど、均等に嚙合わせるなら消耗は均等なんでしょうね、多分。
その理屈にはもう全面的に納得させられるしかないんですけど、歯車というメタファーに基づく、感情や会話の構成され方のうまいのなんのって。
どこまで読み取るべきか考えるべきか。読者に委ねられたこの手法は、不親切とも言えて、思わず目を凝らして見なおしました。
歯車と言っても、形が違えば回り方は変わる。噛み合うものと噛み合わないものもある。それって、現実も同じこと。多分。
でも、一緒に回ることはできる。大きさも幅も速度も違っていたとしても。
だから、大丈夫なんだ。
不器用な強がりで言い放つ――ノープロブレム。
成人式でひとりひとりに付与される歯車は、経費削減のあおりをうけて、今やすべて同じ材質です。新成人たちの「志は同じうして」を体現しているそうですが、それでいて歯車のモジュールや端数やピッチはばらばら。まあ、お上の考えることなんて、そんなものですよね。そこは、尊重されるべき個性なのだとか。ちなみに、どんな歯車が当たるかには、人生の禍福のように納得しがたくも受け入れざるを得ない理不尽さがあります。
いったい、その歯車、誰が作っているのでしょう。大量生産してしまえば簡単なのに、何を考えて、さまざまな歯車を作っているのでしょう。
歯車はひとつでは役に立ちません。しかるべき相手があって初めて意味を成します。しかも、自分たちが回転することが目的なのではなく、それらの動きを介して動力が伝わっていくことが重要なのです。回転のトルクを変え、向きを変え、精密正確に位置を伝え、動きが巧みに伝わっていく。この歯車も、それが与えられた人間たちを精密に組み合わせ制御する目的があったのでしょうか?
人間が抱える複雑な悩みをすべて歯車に押し付けられるなら、気楽なのかもしれません。歯車のモジュールが合わないから採用試験に落ちた。端数24だから恋人ができない。組織内のいくつかの歯車の組み合わせが互いに素でないから滑り始めた。そう言ってみんながぼやいている世界を想像すると滑稽に思えてきます。
いや、本当にそうでしょうか?
「僕」は歯車が合わなくったって強引に同じ向きに回す方法をヒガピンさんに叫びました。これは素敵です。同じ向きにこだわることにはいささか疑問が残りますが、この強引さが重要です。合っていなくったって、欠けていたって、古くなったって、くすんじゃったって、何とでもなるものです。たとえば、ふたたび放り込まれた歯車が、当たり前のようにはまり込んで、何食わぬ顔で回ってくれるなら、みんながハッピーになれるのだと思っています。世の中には、それを受け入れるくらいの「遊び」があるんじゃないでしょうか。