2章「結城凛候補生」
第十九話「結城凛候補生」
朝食は摂った。
栄養ゼリーを一本。
咲夜は、それを朝食と認めない。
「凛。またそれだけ?」
外縁艦隊司令部直下、宇宙軍士官学校教導隊。
寮区画から訓練棟へ向かう連絡通路で、咲夜が私の手元を見た。
空になった容器。
以上。
「必要な栄養は入ってるよ」
「人間は成分表だけで生きてないの」
「ちゃんと生きてる」
「今のところはね」
ひどい言い方だった。
咲夜の長い髪が揺れた。制服のポケットから、小さな包みを取り出した。
「蒸しパン。半分あげる」
「咲夜の朝食」
「私は食堂でちゃんと食べたから」
「じゃあ、これは」
「二回目の朝食」
理解できない。
でも、差し出されたので受け取った。
「素直でよろしい」
「食べ物に罪はない」
「凛が言うと、なんか重いなあ」
包みを開く。
白くて丸い。
教導隊売店の蒸しパン。味は普通。悪くない。
一口食べる。
少し甘い。
「今、ちょっと嬉しそう」
「気のせい」
「そういうことにしとく」
「明日も持ってくる?」
「必要ない」
「じゃあ、持ってくる」
「聞いてた?」
「聞いた」
咲夜は笑った。
周囲を歩く候補生たちは、私たちの横を少しだけ広く避けていく。
いつものことだった。
私は怖いらしい。
何が怖いのかは、よく分からない。
以前、咲夜に聞いたことがある。
『黙ってる時の凛、相手のどこを折るか考えてそうなんだよ』
考えていない。
少なくとも、普段は。
*
一限目の講義には、前夜から全員出席厳守の通達が出ていた。
座学は、だいたい二種類。
退屈か。
重いか。
「どっちだと思う?」
隣の席へ座った咲夜が、小声で聞いた。
「重い方」
「だよねえ」
「通達の文面が重かった」
「分かる。『理由の如何を問わず』って入ってる時、だいたい良くない話だよね」
前方扉が開いた。
教官が入ってきた。
榊原栄治中佐。
元は現場。飾った言い方をしない。それで有名だった。
候補生を褒める時も、せいぜい、
『死ににくい動きだった』
くらいしか言わない。
榊原中佐は教壇へ立って、すぐ表示板を起動した。
「復習する」
外縁宙域の立体戦域図が開く。
補給航路。
中継拠点。
警戒線。
外縁艦隊を主軸に、それを支える周辺防衛戦力とセリス、セドナ方面の運用圏。
色の違う線が、暗い空間に何本も走った。
図が、さらに引いた。
外縁から外太陽系へ。
土星圏、木星圏、小惑星帯、火星、月、地球。
太陽系全体へ、宇宙軍の艦隊章が浮かび上がった。
「宇宙軍は、一枚の壁ではない」
榊原中佐が地球側から順に指した。
「地球圏防衛艦隊は、最後の砦だ。月面艦隊は、地球と月の間に多層防衛線を組み、中央主力を動かす。火星圏艦隊は、内太陽系と外側をつなぐ門を守る」
赤い火星軌道の外側へ、さらに艦隊章が続く。
「中間防衛艦隊は、戦力と補給を通す回廊を維持する。外太陽系艦隊は、広すぎる航路を切らさない。そして外縁艦隊は、最初に敵を見つけ、主力が来るまで時間を買う」
外縁艦隊の表示だけが、太陽系の端で小さく光っていた。
「外縁の防衛は、艦隊だけで成立しているわけではない。航路、補給、修理、観測、救難。それを動かす人間まで含めて防衛線だ」
記録端末へ入力する。
次の表示へ切り替わった。
左右に、二隻の艦体断面が並ぶ。
片方は、回収された銀河標準艦の残骸。
もう片方は、地球連邦宇宙軍の駆逐艦だった。
「銀河標準艦の主防御は、外殻シールドだ。光学兵器、粒子兵器、熱、破片を艦体の外で弾く」
敵艦の周囲へ、薄い防御層が表示される。
「地球艦にも外側のMPSFはある。ただし、IMFはシールドではない。加速、衝撃、砲撃反動、艦体へ入った破壊応力を分散し、遅らせ、逃がすための慣性制御場だ」
地球艦の内側へ、骨格に沿う光の線が走った。
「MPSFで守る。装甲で残す。隔壁と応急復旧で被害を閉じ込める。IMFで、傷ついた後も艦を動かす」
咲夜が、小さな声で言った。
「名前が似てるのに、全然違うんだね」
「向こうは、外で止める」
私は二つの艦影を見比べた。
「地球艦は、止めきれなくても折れない」
榊原中佐がこちらを見た。
「その理解でいい」
咲夜が、さらに声を落とした。
「教官の説明より短い」
「長い説明は忘れる」
「それ、本人の前で言う?」
榊原中佐は、次の表示へ手を伸ばした。
聞こえていたらしい。
銀河標準艦は、盾が割れたら退く。
地球艦は、そこから耐える。
銀河は、割れない盾を作った。
地球は、割れた後も動く艦を作った。
そこまでは、復習だった。
次の表示へ切り替わった。
『外縁宙域秩序回復に関する三国共同声明』
長い文書だった。
地球連邦は外縁宙域を一方的に軍事化した。
既存の航路秩序を破壊した。
周辺諸勢力を武力で圧迫している。
そう書いてある。
「先の主力艦隊撃破を受け、三国政府は停戦ではなく、共同声明を選んだ」
榊原中佐が文書を閉じた。
「これは敗北を認める文書ではない。次の派兵を正当化するための文書だ」
教室の空気が変わった。
「共同派遣軍の編成は、まだ公表されていない。だが三国内では、すでに『地球征伐』という言葉が使われ始めている」
表示板へ、赤い標識が浮かんだ。
戦時体制移行。
「艦隊を沈めれば、戦争が終わるとは限らない。政治が敗北を認めなければ、沈んだ艦隊は次の艦隊を呼ぶ」
教室の空気が、一段だけ重くなった。
「諸君の教育課程は、本日をもって短縮される」
ざわめきが起きた。
榊原中佐は待たなかった。
「理由は単純だ。人が足りない」
今度は静かになった。
「足りないのは砲弾だけではない。艦だけでもない。艦長席、航海席、砲術席、機関管制、通信、被害管制。そこへ座り、判断し、手を動かす人間が足りない」
声は平らだった。
だから、重かった。
「死んだ者がいる。負傷して戻れない者がいる。増えた任務に対して、最初から数が足りていない部署もある」
咲夜の指が止まった。
私も表示板を見たまま、入力だけを続けた。
「残り二か月で、必要課程を終了する。その後、各部隊へ隊附勤務として配属する。名目は実地教育だが、そのまま正式配置へ移る可能性が高い」
二か月。
長いとは思わなかった。
短いとも思わなかった。
決まったなら、終えるだけだ。
「候補生として守られる時間は、今日で終わる。現場は諸君を士官候補生だからと待ってはくれない」
教室の誰かが、小さく息を飲んだ。
咲夜が前を見たまま呟いた。
「きついね」
「うん」
「凛は、平気そう」
「終えるだけ」
「それを平気そうって言うんだよ」
返事はできた。
この時は、まだ。
*
「もう一つ」
終わりだと思った。でも、榊原中佐は端末を閉じなかった。
「残りの時間は戦時教材の視聴に回す。題材は、外縁補給航路における民間船救難および遅滞戦闘事案」
表示板の光が落ちた。
新しい題名が浮かんだ。
『戦時下小艦戦闘例
外縁補給航路武力侵害事案』
教室の後ろで声がした。
「これ、一二二号の件じゃないか?」
「名前のない哨戒艦?」
「若い中尉が艦長だったやつ」
一二二号。
その番号だけは、報道資料で見たことがあった。
民間輸送船団を救助。
敵艦隊の進出を遅滞。
臨時戦隊と後続艦隊の到着まで帰還線を維持。
戦闘継続不能判定後、乗員退艦。
艦は沈没。
戦果欄は埋まっていた。艦名だけ、空白だった。
映像が始まった。
暗い宇宙。
散開した民間輸送船。
救難艇。
その間を動く、小さな哨戒艦。
画面上には、味方を示す青い航跡と、敵を示す赤い艦影が重ねられていた。
最初は、周りと同じところを見ていた。
小艦の機動。
敵前衛への接近。
民間船を逃がすための遅滞。
でも、すぐに違ってきた。
周りから聞こえるのは、戦果の話ばかりだった。
私は、選び方を見ていた。
正面は捨てない。
正面からは撃ち合わない。
射撃面の端へ入る。軸をずらす。
追えば隊形が崩れる位置。
退けば民間船への道が開く位置。そこへ、自分の艦を置く。
戦うための機動ではなかった。
帰すために、戦わざるを得ない人の動きだった。
『〈重一〉、〈重二〉、〈重三〉を止める』
若い男の声が入った。
少し掠れている。
『帰還線を開ける』
声が少し揺れていた。
緊張している。
怖いんだ。
それでも、命令だけは前へ進んだ。
気づくと、背筋が伸びていた。
映像が進む。
駆逐艦〈あらしお〉の誘導弾斉射。
三隻の重艦が迎撃のために姿勢を変える。
射撃軸の間に、六秒だけの空隙が生まれる。
『推力を落とすな! 六秒で抜ける!』
一二二号が飛び込む。
その右後方へ、《あらしお》が重なる。
砲光が二艦の間を走った。
教室のどこかから、短い感嘆が漏れる。
すごい。
周りの感嘆は、その意味だった。
私も、そう思った。
でも、先に出た言葉は別だった。
きれい。
機動だけじゃない。
この人は、捨てていない。
怖さも。乗員も。民間船も。帰る道も。
全部抱えたまま、決めている。
映像の中で、一二二号が被弾した。
艦橋記録へ切り替わる。
非常灯。
赤い警告表示。
艦長席の右手が、肘掛けを掴んだまま震えている。
『……怖いな』
教室の空気が止まった。
『もう、無理なくらい怖い』
声は、そのまま残っていた。
英雄らしい言葉にも。
勇敢な号令にも。
変えられていない。
若い艦長は、怖いと言った。
限界まで。
なのに、目を閉じなかった。
『測敵。三隻の主砲発射時刻を並べて』
震える手のまま、戦術卓を見る。
発射時刻。
再指向周期。
姿勢変更。
三隻の呼吸が、時間軸へ並んでいく。
『撃った順番を、そのまま道にする』
怖くないから前へ出たのではない。
怖いまま。
自分が壊れそうなまま。
それでも、帰る道を探した。
怖いと言った声が、胸の奥に残った。
まだ、名前はない。
でも、無視できない。
映像が飛ぶ。
帰還線への接続。
二度目の被弾。
戦闘継続不能。
総員退艦。
最後の脱出艇が〈あらしお〉へ固定される。
無人の一二二号が、最後に一度だけ主砲を撃つ。
白い砲光が三本、重なる。
小さな艦影が消えた。
誰も声を出さなかった。
画面に評価が出る。
『任務目的達成』
『民間船三隻、救助艦および全生存乗員の離脱成功』
『敵航路管理状態の成立を阻止』
評価は正しい。
たぶん。
でも、見ていたのはそこじゃない。
最後に、指揮官情報が出た。
『哨戒艦一二二号艦長
神代ゆうし中尉』
神代ゆうし。
初めて知った名前だった。
「以上」
榊原中佐の声で、教室へ戻された。
「感傷で見るな。何を判断し、何を優先し、何を帰したかを見ろ。戦果は結果だ。目的ではない」
表示板が消える。
教室の照明が戻った。
周りが、また喋り始めた。
「哨戒艦で、あれを……」
「戦艦三隻の軸を抜いたのか」
「怖いって言ってたよな」
「それでもやるの、普通じゃないだろ」
咲夜が、私を見た。
「凛?」
「なに」
「さっきから、ほとんど瞬きしてない」
「してた」
「ほんとに?」
「たぶん」
「大丈夫?」
大丈夫。
そう言うつもりだった。
でも、違った。
「もう一度見たい」
咲夜が黙った。
「……今のを?」
「うん」
「教材だよ?」
「分かってる」
分かってる。
あれは戦闘記録だ。
人が死んだ。
艦が沈んだ。
見世物ではない。
それでも、もう一度見たかった。
戦果ではなく。
怖いと言った声を。
震えた手を。
それでも帰る道を探した目を。
確認したかった。
理由は、まだ分からない。
この人を、まだ何も知らない。
でも、一つだけ分かった。
この人は違う。
神代ゆうし。
心の中で、もう一度だけ名前を呼んだ。
呼んだだけだった。
なのに、その日、私の世界に一人分の座標が増えた。
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