第四十七話「湯を沸かせ」


 真壁巴中将の任官辞令が届いてから、まだ半日も経っていなかった。


 セドナ要塞艦隊司令部主席幕僚補佐官、三枝宗一郎は、それをよく覚えている。


 なにしろ自分で読んだ。

 中央から届いた国家戦時特別任官。少将から中将へ。セドナ要塞艦隊副司令を引き続き命ずる。


 異論はない。


 むしろ遅いくらいだと、三枝は思う。


 だからこそ。


「巴!!」


 司令卓の向こうで、湯當兵之助大将が吠えた瞬間。

 三枝は、嫌な予感がした。


「はい」


 呼ばれた真壁は、いつも通り静かだった。


「貴様の直率艦隊をまとめろ!!」


「兵力はいかほど、お預けいただけますか」


「全部だ!!」


 三枝は額へ手をやった。

 やはり嫌な予感というものは、当たる時だけ妙に精度が高い。


「閣下。全部、と申されましても」


「虎の子だ!! 意味は分かるであろう!!」


「意味は分かります。軍令として曖昧だと申し上げています」


 湯當は戦域図を指した。


 まだ、敵主力の進出先は確定していない。


 ヘリオシース外縁から届く監視情報。航路監視基盤が拾った異常。通信量の変化。断続的な大質量反応。


 赤い推定線はいくつも伸びている。

 だが、それだけだった。


「セリスが重い」


 低かった。


 三枝は黙る。


 湯當が静かな声を出す時は、たいてい冗談では済まない。


「敵が外縁を割るつもりなら、ただ押すだけでは足らん。要を折る」


 太い指が、セリス基地を示した。


「主攻はここだと、わしは見る」


「……閣下。中央は、主攻正面をまだ断定するなと」


「知っておる!!」


「では、今の御発言は」


「断定はしておらん!! わしがそう読んでおるだけだ!!」


 三枝は一瞬、言葉を止める。


 湯當の太い指は、まだセリスを指したまま。


「主攻を正式に判定するのは統幕であろう!! わしはセドナの手元にある予備を、どこへ置くか決める!! 違うか!!」


「……違いません」


「なら送る!!」


「もし外れれば」


「呼び戻す!! 分かってから出して間に合わぬ方が、よほど困るわ!!」


 声量が戻る。


「もう一点。以前の御発言との整合を確認します」


「なんだ!!」


「セリスへの増援は不要。木緑大将が守ると言うなら任せろ。われらが横から手を突っ込む方が邪魔だ、と」


「言った!!」


「では、今回の措置は」


「今も同じだ!!」


 湯當の掌が、セドナから総隊を経てセリスへ続く指揮線を叩いた。


「横から手など出さん!! 総隊に通し、指定集結点への進入をもって木緑の指揮下へ入れる!! 使い方を決めるのは木緑だ!!」


 一拍置き、さらに吠える。


「あやつの盤面へ手を突っ込むのと、あやつへ使える札を渡すのは別だ!! 敵より先に届けて、何が邪魔になる!!」


 三枝は戦域図の指揮線を見た。


 確かに、違う。


 湯當は木緑の代わりに戦おうとしているのではない。

 木緑が戦うための札を、敵より先に届けようとしている。


 三枝は小さく息を吐いた。

 命令の線は越えていない。

 中央の判断を上書きしたわけでもない。

 全軍の主攻を勝手に決めたわけでもない。


 ただ、自分の責任で預かっている戦域予備を、最も危険になると読んだ場所へ先に置く。


 それだけだ。

 そして、その「それだけ」が一番重い。

 腹立たしいことに、正しい。


 敵主力がセリス正面へ姿を現してから増援を発令しても、その時にはもう戦争が始まっている。


「真壁中将!!」


「はい」


「直率機動予備を率い、セリスへ急行せよ!! 指定集結点への進入をもって、木緑大将の指揮下へ入れ!!」


 真壁は、すぐには答えなかった。

 三枝が横を見る。


 珍しい。


 命令を受けてから返答まで、真壁巴がこれほど間を置くことは滅多にない。


「……閣下」


「なんだ!!」


「我が直率、すべてを、でありますか」


「そう言っておる!!」


「セドナ正面への来敵可能性は」


「ある!!」


 湯當は否定しなかった。


「それでも、でありますか」


「だから貴様を行かせる」


 真壁の目が、わずかに細くなった。


 セドナが自分のために抱えておきたい戦力。

 何かあった時、最後に切るための機動予備。

 その指揮官ごと。


 まだ敵情の全貌すら見えていない今、湯當は最も惜しい札から手放そうとしている。


 真壁は戦域図を見た。


 セリス。

 それから湯當を見る。

 ほんの一瞬だけ、表情が崩れたように三枝には見えた。

 感動している。

 この女は。


 中将に上がったばかりのセドナ副司令が、自分をセドナから追い出そうとしている上官の戦略眼に、ひとり静かに感動している。


 セドナは今日も正常だった。


「……畏まりました」


 真壁は一礼した。


「この真壁巴、直率艦隊を必ずセリスへ届けてみせます」


「うむ!!」


「戦艦も持っていけ!! 補給も工作も救難もだ!! 戦闘艦だけ送って戦争になると思うな!!」


「承知いたしました」


「……そういうことですか!!」


 今度は別の方向から声が上がる。

 見なくても、誰かは分かった。


「榊原准将。静かに」


 戦務部長、榊原征士郎准将は戦域図へ身を乗り出していた。


「閣下は単にセリスへ増援を送るのではありませんな!!」


「声を落としてください」


「敵主力の展開前に、こちらの戦域予備を先回りさせる!! しかもセドナ正面への来敵を承知した上で、最も即応性の高い戦力を切る!!」


「榊原准将」


「敵が兵力配分を完了する前に、こちらはもう戦域配分を終える!!」


「榊原」


「まさしく大将の戦!! 御見事であります!!!」


「うるさいです」


「はいッ!!」


 三枝は湯當を見る。

 湯當は褒め言葉に何も返さず、次の表示を開いていた。


 そこがまた腹立たしい。


「榊原ァ!!」


「はいッ!!」


「巴が出た後、固定司令部は貴様が預かれ!! わしは機動指揮班を率いる!!」


「承知しましたッ!!」


「待ってください」


 三枝は割り込んだ。


「榊原准将へ固定司令部統括権限を移すなら、戦時委任手続が必要です」


「何分だ!!」


「十五分」


「十分でやりますッ!!」


「貴方ではありません。私がやるんです」


 榊原が黙った。

 三秒だけ。


「では十分でお願いしますッ!!」


「十五分です」


 真壁はそのやり取りを待たなかった。

 すでに端末へ命令を流している。


 直率艦隊、戦闘準備。

 補給状態確認。

 乗員収容。

 機関即応。

 随伴支援群接続。

 出撃序列確定。


 次々と状態表示が緑へ変わる。

 真壁は最後に湯當へ向き直った。


「閣下」


「なんだ」


「セドナは、お任せいたします」


「任された!!」


 少しだけ真壁の口元が緩んだ。


「では、行って参ります」


「行け!!」


 それだけだった。

 驚くほどあっさりと。


 セドナが長く抱えてきた虎の子の艦隊は、出撃準備へ入った。


 副司令に任じられたばかりの中将を、最精鋭の機動予備ごと。

 本当に、送り出すのだ。


 戦時動員が、地図の上だけの話ではなくなった。



   ◇



 真壁が出撃準備へ入る間にも、マリア・ロズゥエル参謀長は、総隊司令部とセリス双方へ先行配置案を回していた。


 湯當の傍らで司令部各部を束ねる彼女が、命令が文書になるまで待つはずもない。


 三枝の端末へ具申案が回ってきた時には、残っていたのはセドナ側の権限線と文言の確認だけだった。


 参謀長が各部を動かし、主席幕僚補佐官である自分が、判断を命令と記録の形へ整える。


 艦を動かす時間と、許可を通す時間を重ねる。

 このために司令部がある。


『外縁圏防衛総隊司令部へ。セドナ要塞艦隊、戦域予備の一部をセリス方面へ先行配置。指揮官、真壁巴中将。配置変更を具申する』


 三枝は権限境界と責任主体を確認し、ロズゥエル参謀長へ返した。


「文面、異議ありません」


 彼女の視線が、文面を上から下まで一度だけ走る。


「送って」


 具申が総隊へ走った。

 ほどなく返信。


『外縁圏防衛総隊司令部。配置変更を受領。セリス方面への戦域予備先行配置、承認』


 続いて、もう一文。


『なお、敵主攻正面は現時点で未確定。各正面、単一観測に依拠せず警戒を継続されたし』


「分かっておる!!」


 湯當が勝手に返事をした。


 三枝は送信回線が閉じていることだけ確認する。

 その直後、セリス基地艦隊司令部から受入確認が入った。


『真壁中将指揮下機動予備の受入準備完了。進出中の作戦連絡は総隊指揮系統、指定集結点進入をもって木緑大将の指揮下へ移行する』


 これで、命令の線はつながる。


 ほどなく、真壁艦隊がセドナ防衛圏を離れていく。


 戦術表示の青い光点が、一群ずつ基地から遠ざかっていく。三枝はそれを黙って見送る。


 榊原へ固定司令部統括権限を移す。


 在泊艦の即応序列を組み直す。


 要塞砲群は待機段階を一つ引き上げる。


 弾薬庫から前方集積所へ砲弾が動き、補給群は出撃艦向けの積載計画を更新する。


 救難隊は曳航艇を前進配置。


 医療区画では受入床数が増やされ、後送経路が再確認される。


 セドナ要塞艦隊所属艦艇、総数二千三百隻。


 そのうち、真壁の直率機動予備は、戦闘艦に補給艦、工作艦、救難艦まで含めて三百五十隻。


 それが、丸ごと抜けた。

 残る一千九百五十隻。


 湯當直率特戦分艦隊、二百。司令部直率三個分艦隊、二百四十。各群艦隊および基地防衛艦隊、一千五百十。


 打撃力だけなら、薄くはない。


 だが、真壁の三百五十隻は、どこへでも即応できるよう整えられた虎の子だった。


 艦数以上に大きな穴になる。

 その穴を、残った艦と人間で埋め直す。

 誰も走り回ってはいない。

 怒鳴っているのは、主に湯當と榊原だけ。

 それでも、セドナという巨大な軍事機構は確実に戦時へ姿を変えていく。


 三枝が三件目の権限移譲文書を閉じた、その時。


「総隊戦域情報系統、緊急」


 司令部の空気が変わる。


 共通回線へ、外縁圏防衛総隊司令部の情報幕僚が入った。


『ヘリオシース圏観測衛星群より続報。外縁観測層において、既知事例と同型の局所非連続を複数確認』


 三枝の視線が、戦域図へ戻る。

 今度は、誰も「何だ」とは聞かない。


 前例がある。


 それが何を意味するのかも、すでに分かっている。


『非連続域、増加中。分布軸を解析します』


「敵進出群との照合は」


『統合作戦情報から受領済み。敵総兵力、約八万。現時点で大規模な増減を示す情報なし』


 八万。


 数は、もう分かっている。

 問題は、どこへ来るかだった。

 戦域図の外縁部に、赤い帯が浮かび始める。

 一つではない。


『非連続域、進出軸ごとに収束傾向』


 一本がセリスへ。

 もう一本が、セドナ正面へ。

 さらにもう一本が、バスティオン正面へ。


『第一群、セリス方面への進出を確認』


「規模」


『推定六万』


 司令部の空気が、さらに一段張り詰める。


『第二群、セドナ正面』


「規模は」


『推定一万』


 セドナに残る一千九百五十隻の、五倍を超える。


『第三群、バスティオン正面』


『推定一万』


 短い待ち時間の後、統合幕僚監部の判定が重なった。


『戦略判定更新。セリス正面を主攻、セドナおよびバスティオン正面を助攻と認定』


 八万。


 これで、すべてだ。


 六万がセリスへ。

 一万がセドナへ。

 一万がバスティオンへ。


 三枝は戦域図を見た。


 敵は、もはや八万という一塊ではない。


 三つの進出軸。


 そして最も太い六万の線が、セリスへ伸びる。

 湯當兵之助が、真壁巴を送り出した場所へ。


 三枝は、ゆっくり湯當を見る。


 大将は腕を組んだまま。


 驚いた様子はない。


 真壁はもういない。

 虎の子も、もうセリスへ向かっている。


 隣では、榊原がしばらく戦術図を見つめている。

 先ほどまでの騒音が嘘のような静けさ。


「……閣下」


「なんだ」


 榊原が姿勢を正す。


「お見事であります」


 今度は叫ばなかった。


 湯當が鼻を鳴らす。


 三枝も戦域図へ目を戻した。

 この人は当てたのではない。


 読んだのだ。


 敵が何を欲し、どこを折れば外縁全体が苦しくなるのか。

 そのために自分ならどこへ最も大きな兵力を置くか。


 そして答えが出る前に、自分の最も大切な戦力をそこへ送り出した。


 大将。


 その階級章が、今日は妙に重く見えた。


「閣下」


「なんだ」


「真壁艦隊を呼び戻しますか」


 湯當が眉を寄せる。

 本気で意味が分からないらしい。


「なぜだ? 外れたら呼び戻すと言うた。当たっておる」


「……セドナ正面へ一万です」


「たかが一万であろう」


 三枝は目を閉じる。


 出た。


「全軍回線を開け!!」


「何をなさるおつもりで」


「挨拶だ!!」


 通信幕僚が一瞬だけ三枝を見る。


 三枝は諦めて頷いた。


「セドナ全軍回線。司令官訓示。最優先で接続してください」


 数秒後。


 セドナ要塞。

 在泊艦隊。

 要塞砲群。

 基地防空。

 整備廠。

 補給施設。

 救難部隊。

 医療区画。


 すべての回線が開く。


 湯當兵之助大将が、一歩前へ出た。


『セドナ全将兵へ告ぐ!!!』


 音量調整機能が仕事を始める。


『セドナ要塞艦隊司令官、湯當兵之助である!!!』


 三枝は通信卓の入力値を一段下げた。


『敵主力の進出方向は確定した!!』


『主攻はセリス!!!』


『奴らは小賢しくも、我がセドナ正面にも一万の敵どもを差し向けてきておる!!!』


 一拍。


『一万である!!!』


 嫌な間だった。


『実に…、愉快であるうう!!!』


 三枝は眉間を押さえた。


『たかが一万!!』


『わずか一万である!!!』


 もう止められない。


『よいか!! 奴らの狙いは我らをここへ縛りつけることだ!!』


『ならば望みどおり、我らはここにいる!!!』


『ただし!!!』


 湯當が拳を戦術卓へ叩きつけた。


『縛られるのは我らだけではない!!!』


『来た一万、すべてをここへ縛りつけろ!!!』


『一隻たりともセリスへ返すな!!!』


『一隻たりとも我らの後ろへ通すな!!!』


『我らの後ろには基地がある!! 補給がある!! 帰りを待つ者がおる!!!』


『ゆえに前へ出る!!!』


『守るために前へ出る!!!』


『艦長諸君!! 部下を連れて帰れ!!!』


『幕僚諸君!! 帰る道を切らすな!!!』


『整備!! 補給!! 救難!! 医療!!』


『戦列の後ろにいると思うな!!!』


『諸君らまで含めて、セドナである!!!』


 回線の向こうから声が返り始めた。


『応!!』


『応ッ!!』


『応!!!』


 湯當の声が、さらに乗る。


『我らがセドナ艦隊旗を掲げよ!!!』


 司令部信号所が、掲揚序列を全軍へ打ち返す。


 最上位、湯當兵之助大将の大将旗。

 その直下に、セドナ艦隊旗。

 各群旗艦には群旗。各戦隊旗艦には戦隊旗。


 外装旗章表示と戦術識別符号が同時に切り替わり、戦域図の指揮線が一本ずつ灯っていく。


 誰が、どこから、どの兵力を率いるのか。

 将旗も各級部隊旗も、飾りではない。戦時指揮系統そのものだ。


 セドナに属するすべての艦と部隊が、いま一つの序列へ結ばれる。


『もう一度言う!!!』


『敵は、たった一万!!!』


『一万の艦が集まろうと、心ひとつでなければ烏合の衆よ!!!』


 湯當は笑った。


『対して我らは何者か!!!』


 答えは、最初から決まっている。


『我らはセドナだああああああああ!!!!』


『応おおおおおおおおおおおおおおッ!!!!』


 通信卓が震える。

 湯當は、さらに拳を突き上げる。


『帰ったら風呂だ!!!!』


 三枝は一瞬だけ目を閉じた。


 そして。


『湯を沸かせええええええええええええええええ!!!!』


『応おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!』


 軍事的な意味は、おそらくない。

 少なくとも、普通の軍隊なら。


 だがセドナでは違った。

 帰ったら風呂。


 つまり、生きて帰れ。


 少なくとも、回線の向こうから返る応声を聞く限り、意味は通じている。


 そこへ、三枝の端末がまた震える。


 今度は軍回線ではない。

 基地自治局からの優先報告だった。


「民間区で何かありましたか」


 近くの通信担当が、一度だけ首を傾げた。


「はい。旗が足りないそうです」


「旗?」


「連邦国旗と、セドナ艦隊旗です。全居住区から配布要請が殺到しています。在庫は、先ほど尽きました」


「ほかには」


「真壁中将の中将旗を寄越せ、という申請が二十一件」


「将旗は応援旗ではありません。司令官の所在と指揮権を示すものです。民間区へ配ってはいけません」


「自治局も同じ回答です」


 三枝は黙って、自治局が共有してきた公開中継一覧を開く。


 居住区の放送局、商店主、住民自治会。


 画面に並ぶのは、いずれも発信者自身が全域公開した映像だった。


 居住環の大通り。

 商店街。

 学校区。

 工廠職員の集合住宅。

 食堂も、売店も、入浴施設も。


 ありとあらゆる場所に、連邦国旗とセドナ艦隊旗が並んでいる。

 まだ掲げていない建物の前では、住民たちが資材を持ち寄り、旗を縫っていた。


 避難用の布。

 店の天幕。

 制服の補修材。


 色が合わないと揉めながらも、手は止まらない。


 地域放送の公開音声が、映像へ重なる。


『第三居住区、全区画掲揚完了!』


『第一はまだか!』


『商店街まで終わった! そっちこそ遅いぞ!』


『旗がないなら縫え! 人に遅れて恥をかくな!』


 三枝は額へ指を当てる。

 何を競っているのだ、この人たちは。


 別の中継では、共同浴場のオーナーが入口へ大きな幕を出している。


《出征者家族、本日より入浴無料》


《帰還艦隊員、一番湯確保》


 その下に、さらに大きく。


《武と風呂こそ正義》


 軍の標語ではない。

 自治局の標語でもない。


 おそらく、ただの店主の信念。


 だが通りかかった者たちは誰も笑わず、親指を立てていく。

 さらに、自治局の公開応援板も、出征する将兵への短文で埋まりつつある。


 送り主は全セドナへの公開を承知の上で、それぞれの宛先と続柄を添えていた。


『妻より。旗は二枚とも出しました。見えるところまで、ちゃんと帰ってきてください』


『配置にはついた? まだ? 人に遅れて恥をかくんじゃないよ。帰ったら湯は張っておくから』


『父より。戦隊旗より前へ出る覚悟は持て。ただし墓になるまで前へ出るな。部下を連れて帰り、最初に報告しろ』


『母より。補給食を抜かないこと。筋肉は装甲ではありません。帰ったら食べさせます』


 嫁も。


 父も。


 母も。


 言い方が違うだけで、伝えていることは同じ。


 行け。

 役目を果たせ。

 それから、必ず帰ってこい。


 公開中継一覧には、食堂主が自分で立ち上げた店内配信まで混じっている。


 戦域表示を見上げる常連たちの声が、そのまま全セドナへ流れていた。


『敵、一万だって?』


『そうらしいな』


『たった一万だろ。何を怖がる』


『こっちはセドナだぞ』


 誰も否定しない。

 それどころか、周囲から笑い声まで上がる。

 セドナに残る艦は一千九百五十隻。

 相手は一万。

 彼らは数字を知らないのではない。


 五倍を超える敵が来ると知った上で、本気でそう言っている。

 どこの異世界だ。


 三枝は一瞬そう思い、すぐに訂正する。


 ここはセドナだ。

 軍人だけではない。

 艦へ乗る者だけでもない。


 送り出す者も、待つ者も、湯を沸かす者も、等しくセドナを名乗っている。

 彼らにとって武とは、帰る場所を守り、仲間を連れ帰るためのもの。

 風呂とは、帰ってきた者を迎え、生きて戻ったと確かめるためのもの。

 だから武と風呂は、最初から同じ側にある。


 これは士気というより、民意。


 しかも、どういうわけか最高潮に達している。

 三枝はようやく理解する。


 湯當が、セドナを奮い立たせたのではない。


 セドナ中の人間が初めから胸の内に抱えていた言葉を、あの男が代表して吠えただけなのだ。


 たったの一万。

 何を怖がる。

 われらはセドナだ。


 三枝は端末を抱え直す。


 ならばもう、それでいい。


 セドナは、戦争を始めた。



   ◇



 湯當の咆哮は、セドナ防衛圏を離れつつある真壁直率艦隊にも届く。


『湯を沸かせええええええええええええええええ!!!!』


 旗艦艦橋の空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。


 誰かが喉の奥で笑う。

 真壁も止めない。


「真壁機動予備よりセドナ要塞艦隊司令部。訓示、確かに拝受した。帰投後の湯は、熱めに願います」


 通信士が振り向く。


「このまま送信しますか」


「そのために言った」


「了解。送信」


 返信が走る。

 真壁は、その着信確認を待たずに正面へ向き直る。


「艦隊各級指揮官へ。出撃序列を解く。現時刻をもって、戦闘航行序列へ移行する」


 笑いの名残が消える。

 艦橋の空気が、一息で軍務へ戻る。


「戦術情報網、全系統同期。通信管制第二級。能動捜索は先導警戒群に限定」


「基準艦、本艦。艦隊基準軸、セリス指定集結点。各群、配布済み機動解を照合せよ」


「先導警戒群、前へ。左右側衛は上下警戒面を閉じろ。後衛群は随伴支援群の外周につけ」


「補給、工作、救難は主隊縦深内を維持。護衛戦隊は支援群から離れるな」


 復唱が、各級司令部を経て返ってくる。


『戦術情報網、全系統同期』


『先導警戒群、配置移行開始』


『左右側衛、機動解照合。誤差、規定値内』


『後衛群、随伴支援群との接続を確認』


「火器管制、追尾待機。武器安全解除はセドナ防衛圏外縁通過後。射撃許可は別命とする」


『火器管制、追尾待機。射撃許可は別命』


「機動不能艦は救難群へ引き渡せ。所属戦隊は隊形を崩すな」


『了解』


 真壁の前で、三百五十隻分の状態表示が次々と切り替わる。


「中将旗、掲揚。真壁艦隊旗、続け」


 旗艦の外装旗章表示に、真壁巴の中将旗が上がる。

 戦術情報網にも、同じ指揮識別符号が灯る。


 中将旗は階級を飾るものではない。真壁がこの旗艦に在り、三百五十隻の指揮権を現に行使していることを全艦へ示す将旗だ。


 その直下に真壁艦隊旗。

 続いて群旗、戦隊旗、支隊旗。

 離れていた三百五十の光点が、指揮系統という一本の骨でつながっていく。


「全艦、第一戦闘配置を維持。艦級別規定加速。終端速度上限、〇・〇五C」


「推力変更は指定秒を厳守。先行も遅延も認めない」


『全艦、機動準備よし』


 真壁の視線が、戦域図へ戻る。

 セリスまで伸びる進出軸。

 その先に、木緑ほのかがいる。

 彼女へ渡す三百五十隻がいる。


「機動開始」


『機動開始』


 三百五十隻が、一斉に動いたわけではない。


 まず、推力余裕の小さい補給艦と工作艦。その後を主戦艦群が追い、高加速の駆逐艦群が最後に間隔を詰める。


 各艦は、それぞれ異なる時刻に推力を立ち上げ、異なる弧を描きながら、同じ時刻、同じ速度域へ収束していく。


 艦隊運動とは、同じ方向へ並ぶことではない。


 質量も、推力も、役目も違う三百五十隻が、同じ意図で次の一秒を共有することだ。


『先導警戒群、基準面へ到達』


『主戦群、進出軸へ収束』


『随伴支援群、護衛圏内。最大相対誤差、規定値以内』


『全群、戦闘航行序列へ移行完了』


 無数に伸びていた予測進路が、一本の巨大な矢へ束ねられていく。


「このまま行く」


 真壁の声は静かだ。

 それで、三百五十隻が前へ出る。


「指定集結点進入まで、全艦第一戦闘配置を維持。木緑大将への指揮権移行に備え、各群司令部は戦闘序列と損耗余力を常時更新せよ」


『了解』


 真壁は、背後を振り返らない。

 その必要もない。


『任された!!』


 湯當は、そう答えた。

 ならば、任せればいい。

 セドナは傷つくだろう。

 外壁は焼ける。艦も沈む。帰らない者も出るかもしれない。

 それでも、セドナ基地が無惨に砕かれることだけは、絶対にない。


 あそこには湯當兵之助がいる。


 榊原が基地を回し、ロズゥエルと三枝が軍務を通す。


 残る一千九百五十隻と、要塞砲群がいる。

 そして、帰れば湯を沸かして待っている者たちがいる。


 あれだけのものを、たかが一万で砕けるものか。

 真壁の役目は、セドナを案じることではない。


 この三百五十隻を、一隻でも多く、一秒でも早く、木緑ほのかの手へ届けること。


 そのために、自分はここにいる。


『艦隊針路、安定。全艦、予定航路上』


「よろしい」


 真壁は前だけを見る。


 セリス。


 木緑大将。


 神代ゆうし大尉。


 そして、もう一人の名を思い出す。

 最初に届いた報告では、神代大尉の傍らにいる候補生だった。


 だが、セリスへ着任したその日に十八歳を迎え、いまはもう少尉へ任官しているはずだ。


 あの湯當閣下に、一撃を通した娘。


 結城凛。


 真壁の口元が、ほんの少しだけ上がる。


 ――会ってみたいぞ。


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