第四十七話「湯を沸かせ」
真壁巴中将の任官辞令が届いてから、まだ半日も経っていなかった。
セドナ要塞艦隊司令部主席幕僚補佐官、三枝宗一郎は、それをよく覚えている。
なにしろ自分で読んだ。
中央から届いた国家戦時特別任官。少将から中将へ。セドナ要塞艦隊副司令を引き続き命ずる。
異論はない。
むしろ遅いくらいだと、三枝は思う。
だからこそ。
「巴!!」
司令卓の向こうで、湯當兵之助大将が吠えた瞬間。
三枝は、嫌な予感がした。
「はい」
呼ばれた真壁は、いつも通り静かだった。
「貴様の直率艦隊をまとめろ!!」
「兵力はいかほど、お預けいただけますか」
「全部だ!!」
三枝は額へ手をやった。
やはり嫌な予感というものは、当たる時だけ妙に精度が高い。
「閣下。全部、と申されましても」
「虎の子だ!! 意味は分かるであろう!!」
「意味は分かります。軍令として曖昧だと申し上げています」
湯當は戦域図を指した。
まだ、敵主力の進出先は確定していない。
ヘリオシース外縁から届く監視情報。航路監視基盤が拾った異常。通信量の変化。断続的な大質量反応。
赤い推定線はいくつも伸びている。
だが、それだけだった。
「セリスが重い」
低かった。
三枝は黙る。
湯當が静かな声を出す時は、たいてい冗談では済まない。
「敵が外縁を割るつもりなら、ただ押すだけでは足らん。要を折る」
太い指が、セリス基地を示した。
「主攻はここだと、わしは見る」
「……閣下。中央は、主攻正面をまだ断定するなと」
「知っておる!!」
「では、今の御発言は」
「断定はしておらん!! わしがそう読んでおるだけだ!!」
三枝は一瞬、言葉を止める。
湯當の太い指は、まだセリスを指したまま。
「主攻を正式に判定するのは統幕であろう!! わしはセドナの手元にある予備を、どこへ置くか決める!! 違うか!!」
「……違いません」
「なら送る!!」
「もし外れれば」
「呼び戻す!! 分かってから出して間に合わぬ方が、よほど困るわ!!」
声量が戻る。
「もう一点。以前の御発言との整合を確認します」
「なんだ!!」
「セリスへの増援は不要。木緑大将が守ると言うなら任せろ。われらが横から手を突っ込む方が邪魔だ、と」
「言った!!」
「では、今回の措置は」
「今も同じだ!!」
湯當の掌が、セドナから総隊を経てセリスへ続く指揮線を叩いた。
「横から手など出さん!! 総隊に通し、指定集結点への進入をもって木緑の指揮下へ入れる!! 使い方を決めるのは木緑だ!!」
一拍置き、さらに吠える。
「あやつの盤面へ手を突っ込むのと、あやつへ使える札を渡すのは別だ!! 敵より先に届けて、何が邪魔になる!!」
三枝は戦域図の指揮線を見た。
確かに、違う。
湯當は木緑の代わりに戦おうとしているのではない。
木緑が戦うための札を、敵より先に届けようとしている。
三枝は小さく息を吐いた。
命令の線は越えていない。
中央の判断を上書きしたわけでもない。
全軍の主攻を勝手に決めたわけでもない。
ただ、自分の責任で預かっている戦域予備を、最も危険になると読んだ場所へ先に置く。
それだけだ。
そして、その「それだけ」が一番重い。
腹立たしいことに、正しい。
敵主力がセリス正面へ姿を現してから増援を発令しても、その時にはもう戦争が始まっている。
「真壁中将!!」
「はい」
「直率機動予備を率い、セリスへ急行せよ!! 指定集結点への進入をもって、木緑大将の指揮下へ入れ!!」
真壁は、すぐには答えなかった。
三枝が横を見る。
珍しい。
命令を受けてから返答まで、真壁巴がこれほど間を置くことは滅多にない。
「……閣下」
「なんだ!!」
「我が直率、すべてを、でありますか」
「そう言っておる!!」
「セドナ正面への来敵可能性は」
「ある!!」
湯當は否定しなかった。
「それでも、でありますか」
「だから貴様を行かせる」
真壁の目が、わずかに細くなった。
セドナが自分のために抱えておきたい戦力。
何かあった時、最後に切るための機動予備。
その指揮官ごと。
まだ敵情の全貌すら見えていない今、湯當は最も惜しい札から手放そうとしている。
真壁は戦域図を見た。
セリス。
それから湯當を見る。
ほんの一瞬だけ、表情が崩れたように三枝には見えた。
感動している。
この女は。
中将に上がったばかりのセドナ副司令が、自分をセドナから追い出そうとしている上官の戦略眼に、ひとり静かに感動している。
セドナは今日も正常だった。
「……畏まりました」
真壁は一礼した。
「この真壁巴、直率艦隊を必ずセリスへ届けてみせます」
「うむ!!」
「戦艦も持っていけ!! 補給も工作も救難もだ!! 戦闘艦だけ送って戦争になると思うな!!」
「承知いたしました」
「……そういうことですか!!」
今度は別の方向から声が上がる。
見なくても、誰かは分かった。
「榊原准将。静かに」
戦務部長、榊原征士郎准将は戦域図へ身を乗り出していた。
「閣下は単にセリスへ増援を送るのではありませんな!!」
「声を落としてください」
「敵主力の展開前に、こちらの戦域予備を先回りさせる!! しかもセドナ正面への来敵を承知した上で、最も即応性の高い戦力を切る!!」
「榊原准将」
「敵が兵力配分を完了する前に、こちらはもう戦域配分を終える!!」
「榊原」
「まさしく大将の戦!! 御見事であります!!!」
「うるさいです」
「はいッ!!」
三枝は湯當を見る。
湯當は褒め言葉に何も返さず、次の表示を開いていた。
そこがまた腹立たしい。
「榊原ァ!!」
「はいッ!!」
「巴が出た後、固定司令部は貴様が預かれ!! わしは機動指揮班を率いる!!」
「承知しましたッ!!」
「待ってください」
三枝は割り込んだ。
「榊原准将へ固定司令部統括権限を移すなら、戦時委任手続が必要です」
「何分だ!!」
「十五分」
「十分でやりますッ!!」
「貴方ではありません。私がやるんです」
榊原が黙った。
三秒だけ。
「では十分でお願いしますッ!!」
「十五分です」
真壁はそのやり取りを待たなかった。
すでに端末へ命令を流している。
直率艦隊、戦闘準備。
補給状態確認。
乗員収容。
機関即応。
随伴支援群接続。
出撃序列確定。
次々と状態表示が緑へ変わる。
真壁は最後に湯當へ向き直った。
「閣下」
「なんだ」
「セドナは、お任せいたします」
「任された!!」
少しだけ真壁の口元が緩んだ。
「では、行って参ります」
「行け!!」
それだけだった。
驚くほどあっさりと。
セドナが長く抱えてきた虎の子の艦隊は、出撃準備へ入った。
副司令に任じられたばかりの中将を、最精鋭の機動予備ごと。
本当に、送り出すのだ。
戦時動員が、地図の上だけの話ではなくなった。
◇
真壁が出撃準備へ入る間にも、マリア・ロズゥエル参謀長は、総隊司令部とセリス双方へ先行配置案を回していた。
湯當の傍らで司令部各部を束ねる彼女が、命令が文書になるまで待つはずもない。
三枝の端末へ具申案が回ってきた時には、残っていたのはセドナ側の権限線と文言の確認だけだった。
参謀長が各部を動かし、主席幕僚補佐官である自分が、判断を命令と記録の形へ整える。
艦を動かす時間と、許可を通す時間を重ねる。
このために司令部がある。
『外縁圏防衛総隊司令部へ。セドナ要塞艦隊、戦域予備の一部をセリス方面へ先行配置。指揮官、真壁巴中将。配置変更を具申する』
三枝は権限境界と責任主体を確認し、ロズゥエル参謀長へ返した。
「文面、異議ありません」
彼女の視線が、文面を上から下まで一度だけ走る。
「送って」
具申が総隊へ走った。
ほどなく返信。
『外縁圏防衛総隊司令部。配置変更を受領。セリス方面への戦域予備先行配置、承認』
続いて、もう一文。
『なお、敵主攻正面は現時点で未確定。各正面、単一観測に依拠せず警戒を継続されたし』
「分かっておる!!」
湯當が勝手に返事をした。
三枝は送信回線が閉じていることだけ確認する。
その直後、セリス基地艦隊司令部から受入確認が入った。
『真壁中将指揮下機動予備の受入準備完了。進出中の作戦連絡は総隊指揮系統、指定集結点進入をもって木緑大将の指揮下へ移行する』
これで、命令の線はつながる。
ほどなく、真壁艦隊がセドナ防衛圏を離れていく。
戦術表示の青い光点が、一群ずつ基地から遠ざかっていく。三枝はそれを黙って見送る。
榊原へ固定司令部統括権限を移す。
在泊艦の即応序列を組み直す。
要塞砲群は待機段階を一つ引き上げる。
弾薬庫から前方集積所へ砲弾が動き、補給群は出撃艦向けの積載計画を更新する。
救難隊は曳航艇を前進配置。
医療区画では受入床数が増やされ、後送経路が再確認される。
セドナ要塞艦隊所属艦艇、総数二千三百隻。
そのうち、真壁の直率機動予備は、戦闘艦に補給艦、工作艦、救難艦まで含めて三百五十隻。
それが、丸ごと抜けた。
残る一千九百五十隻。
湯當直率特戦分艦隊、二百。司令部直率三個分艦隊、二百四十。各群艦隊および基地防衛艦隊、一千五百十。
打撃力だけなら、薄くはない。
だが、真壁の三百五十隻は、どこへでも即応できるよう整えられた虎の子だった。
艦数以上に大きな穴になる。
その穴を、残った艦と人間で埋め直す。
誰も走り回ってはいない。
怒鳴っているのは、主に湯當と榊原だけ。
それでも、セドナという巨大な軍事機構は確実に戦時へ姿を変えていく。
三枝が三件目の権限移譲文書を閉じた、その時。
「総隊戦域情報系統、緊急」
司令部の空気が変わる。
共通回線へ、外縁圏防衛総隊司令部の情報幕僚が入った。
『ヘリオシース圏観測衛星群より続報。外縁観測層において、既知事例と同型の局所非連続を複数確認』
三枝の視線が、戦域図へ戻る。
今度は、誰も「何だ」とは聞かない。
前例がある。
それが何を意味するのかも、すでに分かっている。
『非連続域、増加中。分布軸を解析します』
「敵進出群との照合は」
『統合作戦情報から受領済み。敵総兵力、約八万。現時点で大規模な増減を示す情報なし』
八万。
数は、もう分かっている。
問題は、どこへ来るかだった。
戦域図の外縁部に、赤い帯が浮かび始める。
一つではない。
『非連続域、進出軸ごとに収束傾向』
一本がセリスへ。
もう一本が、セドナ正面へ。
さらにもう一本が、バスティオン正面へ。
『第一群、セリス方面への進出を確認』
「規模」
『推定六万』
司令部の空気が、さらに一段張り詰める。
『第二群、セドナ正面』
「規模は」
『推定一万』
セドナに残る一千九百五十隻の、五倍を超える。
『第三群、バスティオン正面』
『推定一万』
短い待ち時間の後、統合幕僚監部の判定が重なった。
『戦略判定更新。セリス正面を主攻、セドナおよびバスティオン正面を助攻と認定』
八万。
これで、すべてだ。
六万がセリスへ。
一万がセドナへ。
一万がバスティオンへ。
三枝は戦域図を見た。
敵は、もはや八万という一塊ではない。
三つの進出軸。
そして最も太い六万の線が、セリスへ伸びる。
湯當兵之助が、真壁巴を送り出した場所へ。
三枝は、ゆっくり湯當を見る。
大将は腕を組んだまま。
驚いた様子はない。
真壁はもういない。
虎の子も、もうセリスへ向かっている。
隣では、榊原がしばらく戦術図を見つめている。
先ほどまでの騒音が嘘のような静けさ。
「……閣下」
「なんだ」
榊原が姿勢を正す。
「お見事であります」
今度は叫ばなかった。
湯當が鼻を鳴らす。
三枝も戦域図へ目を戻した。
この人は当てたのではない。
読んだのだ。
敵が何を欲し、どこを折れば外縁全体が苦しくなるのか。
そのために自分ならどこへ最も大きな兵力を置くか。
そして答えが出る前に、自分の最も大切な戦力をそこへ送り出した。
大将。
その階級章が、今日は妙に重く見えた。
「閣下」
「なんだ」
「真壁艦隊を呼び戻しますか」
湯當が眉を寄せる。
本気で意味が分からないらしい。
「なぜだ? 外れたら呼び戻すと言うた。当たっておる」
「……セドナ正面へ一万です」
「たかが一万であろう」
三枝は目を閉じる。
出た。
「全軍回線を開け!!」
「何をなさるおつもりで」
「挨拶だ!!」
通信幕僚が一瞬だけ三枝を見る。
三枝は諦めて頷いた。
「セドナ全軍回線。司令官訓示。最優先で接続してください」
数秒後。
セドナ要塞。
在泊艦隊。
要塞砲群。
基地防空。
整備廠。
補給施設。
救難部隊。
医療区画。
すべての回線が開く。
湯當兵之助大将が、一歩前へ出た。
『セドナ全将兵へ告ぐ!!!』
音量調整機能が仕事を始める。
『セドナ要塞艦隊司令官、湯當兵之助である!!!』
三枝は通信卓の入力値を一段下げた。
『敵主力の進出方向は確定した!!』
『主攻はセリス!!!』
『奴らは小賢しくも、我がセドナ正面にも一万の敵どもを差し向けてきておる!!!』
一拍。
『一万である!!!』
嫌な間だった。
『実に…、愉快であるうう!!!』
三枝は眉間を押さえた。
『たかが一万!!』
『わずか一万である!!!』
もう止められない。
『よいか!! 奴らの狙いは我らをここへ縛りつけることだ!!』
『ならば望みどおり、我らはここにいる!!!』
『ただし!!!』
湯當が拳を戦術卓へ叩きつけた。
『縛られるのは我らだけではない!!!』
『来た一万、すべてをここへ縛りつけろ!!!』
『一隻たりともセリスへ返すな!!!』
『一隻たりとも我らの後ろへ通すな!!!』
『我らの後ろには基地がある!! 補給がある!! 帰りを待つ者がおる!!!』
『ゆえに前へ出る!!!』
『守るために前へ出る!!!』
『艦長諸君!! 部下を連れて帰れ!!!』
『幕僚諸君!! 帰る道を切らすな!!!』
『整備!! 補給!! 救難!! 医療!!』
『戦列の後ろにいると思うな!!!』
『諸君らまで含めて、セドナである!!!』
回線の向こうから声が返り始めた。
『応!!』
『応ッ!!』
『応!!!』
湯當の声が、さらに乗る。
『我らがセドナ艦隊旗を掲げよ!!!』
司令部信号所が、掲揚序列を全軍へ打ち返す。
最上位、湯當兵之助大将の大将旗。
その直下に、セドナ艦隊旗。
各群旗艦には群旗。各戦隊旗艦には戦隊旗。
外装旗章表示と戦術識別符号が同時に切り替わり、戦域図の指揮線が一本ずつ灯っていく。
誰が、どこから、どの兵力を率いるのか。
将旗も各級部隊旗も、飾りではない。戦時指揮系統そのものだ。
セドナに属するすべての艦と部隊が、いま一つの序列へ結ばれる。
『もう一度言う!!!』
『敵は、たった一万!!!』
『一万の艦が集まろうと、心ひとつでなければ烏合の衆よ!!!』
湯當は笑った。
『対して我らは何者か!!!』
答えは、最初から決まっている。
『我らはセドナだああああああああ!!!!』
『応おおおおおおおおおおおおおおッ!!!!』
通信卓が震える。
湯當は、さらに拳を突き上げる。
『帰ったら風呂だ!!!!』
三枝は一瞬だけ目を閉じた。
そして。
『湯を沸かせええええええええええええええええ!!!!』
『応おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!』
軍事的な意味は、おそらくない。
少なくとも、普通の軍隊なら。
だがセドナでは違った。
帰ったら風呂。
つまり、生きて帰れ。
少なくとも、回線の向こうから返る応声を聞く限り、意味は通じている。
そこへ、三枝の端末がまた震える。
今度は軍回線ではない。
基地自治局からの優先報告だった。
「民間区で何かありましたか」
近くの通信担当が、一度だけ首を傾げた。
「はい。旗が足りないそうです」
「旗?」
「連邦国旗と、セドナ艦隊旗です。全居住区から配布要請が殺到しています。在庫は、先ほど尽きました」
「ほかには」
「真壁中将の中将旗を寄越せ、という申請が二十一件」
「将旗は応援旗ではありません。司令官の所在と指揮権を示すものです。民間区へ配ってはいけません」
「自治局も同じ回答です」
三枝は黙って、自治局が共有してきた公開中継一覧を開く。
居住区の放送局、商店主、住民自治会。
画面に並ぶのは、いずれも発信者自身が全域公開した映像だった。
居住環の大通り。
商店街。
学校区。
工廠職員の集合住宅。
食堂も、売店も、入浴施設も。
ありとあらゆる場所に、連邦国旗とセドナ艦隊旗が並んでいる。
まだ掲げていない建物の前では、住民たちが資材を持ち寄り、旗を縫っていた。
避難用の布。
店の天幕。
制服の補修材。
色が合わないと揉めながらも、手は止まらない。
地域放送の公開音声が、映像へ重なる。
『第三居住区、全区画掲揚完了!』
『第一はまだか!』
『商店街まで終わった! そっちこそ遅いぞ!』
『旗がないなら縫え! 人に遅れて恥をかくな!』
三枝は額へ指を当てる。
何を競っているのだ、この人たちは。
別の中継では、共同浴場のオーナーが入口へ大きな幕を出している。
《出征者家族、本日より入浴無料》
《帰還艦隊員、一番湯確保》
その下に、さらに大きく。
《武と風呂こそ正義》
軍の標語ではない。
自治局の標語でもない。
おそらく、ただの店主の信念。
だが通りかかった者たちは誰も笑わず、親指を立てていく。
さらに、自治局の公開応援板も、出征する将兵への短文で埋まりつつある。
送り主は全セドナへの公開を承知の上で、それぞれの宛先と続柄を添えていた。
『妻より。旗は二枚とも出しました。見えるところまで、ちゃんと帰ってきてください』
『配置にはついた? まだ? 人に遅れて恥をかくんじゃないよ。帰ったら湯は張っておくから』
『父より。戦隊旗より前へ出る覚悟は持て。ただし墓になるまで前へ出るな。部下を連れて帰り、最初に報告しろ』
『母より。補給食を抜かないこと。筋肉は装甲ではありません。帰ったら食べさせます』
嫁も。
父も。
母も。
言い方が違うだけで、伝えていることは同じ。
行け。
役目を果たせ。
それから、必ず帰ってこい。
公開中継一覧には、食堂主が自分で立ち上げた店内配信まで混じっている。
戦域表示を見上げる常連たちの声が、そのまま全セドナへ流れていた。
『敵、一万だって?』
『そうらしいな』
『たった一万だろ。何を怖がる』
『こっちはセドナだぞ』
誰も否定しない。
それどころか、周囲から笑い声まで上がる。
セドナに残る艦は一千九百五十隻。
相手は一万。
彼らは数字を知らないのではない。
五倍を超える敵が来ると知った上で、本気でそう言っている。
どこの異世界だ。
三枝は一瞬そう思い、すぐに訂正する。
ここはセドナだ。
軍人だけではない。
艦へ乗る者だけでもない。
送り出す者も、待つ者も、湯を沸かす者も、等しくセドナを名乗っている。
彼らにとって武とは、帰る場所を守り、仲間を連れ帰るためのもの。
風呂とは、帰ってきた者を迎え、生きて戻ったと確かめるためのもの。
だから武と風呂は、最初から同じ側にある。
これは士気というより、民意。
しかも、どういうわけか最高潮に達している。
三枝はようやく理解する。
湯當が、セドナを奮い立たせたのではない。
セドナ中の人間が初めから胸の内に抱えていた言葉を、あの男が代表して吠えただけなのだ。
たったの一万。
何を怖がる。
われらはセドナだ。
三枝は端末を抱え直す。
ならばもう、それでいい。
セドナは、戦争を始めた。
◇
湯當の咆哮は、セドナ防衛圏を離れつつある真壁直率艦隊にも届く。
『湯を沸かせええええええええええええええええ!!!!』
旗艦艦橋の空気が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
誰かが喉の奥で笑う。
真壁も止めない。
「真壁機動予備よりセドナ要塞艦隊司令部。訓示、確かに拝受した。帰投後の湯は、熱めに願います」
通信士が振り向く。
「このまま送信しますか」
「そのために言った」
「了解。送信」
返信が走る。
真壁は、その着信確認を待たずに正面へ向き直る。
「艦隊各級指揮官へ。出撃序列を解く。現時刻をもって、戦闘航行序列へ移行する」
笑いの名残が消える。
艦橋の空気が、一息で軍務へ戻る。
「戦術情報網、全系統同期。通信管制第二級。能動捜索は先導警戒群に限定」
「基準艦、本艦。艦隊基準軸、セリス指定集結点。各群、配布済み機動解を照合せよ」
「先導警戒群、前へ。左右側衛は上下警戒面を閉じろ。後衛群は随伴支援群の外周につけ」
「補給、工作、救難は主隊縦深内を維持。護衛戦隊は支援群から離れるな」
復唱が、各級司令部を経て返ってくる。
『戦術情報網、全系統同期』
『先導警戒群、配置移行開始』
『左右側衛、機動解照合。誤差、規定値内』
『後衛群、随伴支援群との接続を確認』
「火器管制、追尾待機。武器安全解除はセドナ防衛圏外縁通過後。射撃許可は別命とする」
『火器管制、追尾待機。射撃許可は別命』
「機動不能艦は救難群へ引き渡せ。所属戦隊は隊形を崩すな」
『了解』
真壁の前で、三百五十隻分の状態表示が次々と切り替わる。
「中将旗、掲揚。真壁艦隊旗、続け」
旗艦の外装旗章表示に、真壁巴の中将旗が上がる。
戦術情報網にも、同じ指揮識別符号が灯る。
中将旗は階級を飾るものではない。真壁がこの旗艦に在り、三百五十隻の指揮権を現に行使していることを全艦へ示す将旗だ。
その直下に真壁艦隊旗。
続いて群旗、戦隊旗、支隊旗。
離れていた三百五十の光点が、指揮系統という一本の骨でつながっていく。
「全艦、第一戦闘配置を維持。艦級別規定加速。終端速度上限、〇・〇五C」
「推力変更は指定秒を厳守。先行も遅延も認めない」
『全艦、機動準備よし』
真壁の視線が、戦域図へ戻る。
セリスまで伸びる進出軸。
その先に、木緑ほのかがいる。
彼女へ渡す三百五十隻がいる。
「機動開始」
『機動開始』
三百五十隻が、一斉に動いたわけではない。
まず、推力余裕の小さい補給艦と工作艦。その後を主戦艦群が追い、高加速の駆逐艦群が最後に間隔を詰める。
各艦は、それぞれ異なる時刻に推力を立ち上げ、異なる弧を描きながら、同じ時刻、同じ速度域へ収束していく。
艦隊運動とは、同じ方向へ並ぶことではない。
質量も、推力も、役目も違う三百五十隻が、同じ意図で次の一秒を共有することだ。
『先導警戒群、基準面へ到達』
『主戦群、進出軸へ収束』
『随伴支援群、護衛圏内。最大相対誤差、規定値以内』
『全群、戦闘航行序列へ移行完了』
無数に伸びていた予測進路が、一本の巨大な矢へ束ねられていく。
「このまま行く」
真壁の声は静かだ。
それで、三百五十隻が前へ出る。
「指定集結点進入まで、全艦第一戦闘配置を維持。木緑大将への指揮権移行に備え、各群司令部は戦闘序列と損耗余力を常時更新せよ」
『了解』
真壁は、背後を振り返らない。
その必要もない。
『任された!!』
湯當は、そう答えた。
ならば、任せればいい。
セドナは傷つくだろう。
外壁は焼ける。艦も沈む。帰らない者も出るかもしれない。
それでも、セドナ基地が無惨に砕かれることだけは、絶対にない。
あそこには湯當兵之助がいる。
榊原が基地を回し、ロズゥエルと三枝が軍務を通す。
残る一千九百五十隻と、要塞砲群がいる。
そして、帰れば湯を沸かして待っている者たちがいる。
あれだけのものを、たかが一万で砕けるものか。
真壁の役目は、セドナを案じることではない。
この三百五十隻を、一隻でも多く、一秒でも早く、木緑ほのかの手へ届けること。
そのために、自分はここにいる。
『艦隊針路、安定。全艦、予定航路上』
「よろしい」
真壁は前だけを見る。
セリス。
木緑大将。
神代ゆうし大尉。
そして、もう一人の名を思い出す。
最初に届いた報告では、神代大尉の傍らにいる候補生だった。
だが、セリスへ着任したその日に十八歳を迎え、いまはもう少尉へ任官しているはずだ。
あの湯當閣下に、一撃を通した娘。
結城凛。
真壁の口元が、ほんの少しだけ上がる。
――会ってみたいぞ。
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