第69話:交差する不安と心地よさ。このままの二人でいたい、けれど。
第69話:交差する不安と心地よさ。このままの二人でいたい、けれど。
窓を叩く、不規則な雨の音が部屋に響いている。
夏休みも中盤に差し掛かったある日の夜。
外は少し肌寒いほどの通り雨が降っていたが、俺の部屋、202号室の中は、エアコンの微風と、二人分の体温によって、ひどく穏やかで温かい空気に満たされていた。
「にゃあ……」
リビングの中央に置かれた淡いグレーの二人掛けソファ。
その上で、愛猫のヨモが丸くなって心地よさそうに眠っている。
そして、そのヨモを抱きかかえるようにして、白雪ひよりが静かな寝息を立てていた。
俺はキッチンに立ち、明日の朝食のための玄米を水に浸しながら、ソファで微睡む彼女の横顔をぼんやりと眺めていた。
先日、俺は彼女に向かって「この壁は俺が絶対に壊すから、待ってろ」と宣言した。
その言葉の通り、俺たちの曖昧な『恋人未満』の関係に終止符を打ち、正式な恋人同士になるための覚悟は、もう俺の中で完全に固まっている。
あとは、いつ、どうやって伝えるか。
それだけのはずなのに、俺の心の中には、確かな『不安』が渦巻いていた。
「……このままでも、十分幸せなんだよな」
俺は誰に聞こえるわけでもなく、小さく呟いた。
今の俺たちは、付き合っていないという事実を除けば、完全に夫婦と同じだ。
一緒にご飯を食べ、一緒にテレビを見て、お互いの存在が生活の一部として完全に溶け合っている。
この『ただのお隣さん』という都合のいい建前が、俺たちを守る絶対的な防空壕として機能していたのも事実だ。
もしも、俺が告白をして、正式な恋人同士になったら。
この完璧で、完成されすぎた『日常』のバランスが、少しでも崩れてしまうのではないか?
恋人という明確なラベルを貼ることで、相手に対する期待や束縛が生まれ、今までのような無防備で心地よい関係が、どこか窮屈なものに変わってしまうのではないか。
そんな、男の情けなくて臆病な不安が、俺の足を重くさせていた。
「……湊、くん……」
不意に、ソファの方から微かな声が聞こえた。
振り返ると、ひよりがゆっくりと身を起こし、眠たげに目をこすりながらこちらを見ていた。
「悪い、起こしたか?」
「ううん。……雨の音で、目が覚めちゃっただけです」
ひよりはヨモをそっとソファに残し、トコトコとキッチンの方へ歩いてきた。
そして、俺の背中にぴたりと身を寄せ、腰に両腕を回してぎゅっと抱きついてきた。
「……どうした。甘えん坊モードか?」
俺が手を止めて振り返らずに尋ねると、背中に押し付けられた彼女の顔が、ふるふると横に揺れるのがわかった。
「……ねえ、湊くん」
「ん?」
「湊くんは……今の私たち、どう思いますか?」
その声は、いつもの小悪魔のような余裕や、ぽわぽわとした明るさが消え、ひどく弱々しく、切実な響きを帯びていた。
「どうって……。毎日一緒にいて、ヨモも懐いてて、すごく居心地がいいと思ってるよ」
「私もです。……私、今の湊くんとの生活が、本当に大好きなんです」
ひよりは俺の背中に頬をすりすりと押し付け、俺のシャツを掴む手にきゅっと力を込めた。
「湊くんが作ってくれる玄米のご飯を食べて、ソファで一緒に映画を見て、眠くなるまで隣にいて。……これ以上の幸せなんて、絶対にないって言い切れます」
「……なら、いいじゃないか」
「でも、怖いんです」
彼女の震えるような声が、雨音に混じって俺の耳に届く。
「この幸せが、いつか壊れちゃうんじゃないかって。だって私たち、ただの『お隣さん』だから」
彼女の胸の内にも、俺と全く同じ不安が交差していたのだ。
このままでいたいという、圧倒的な心地よさ。
でも、このまま(恋人未満)ではいられないという、明確なタイムリミットへの恐怖。
「付き合ってないから、いつ湊くんが他の誰かを好きになっても、私には止める権利がない。もし明日、湊くんが『もう部屋に来るな』って言ったら、私は自分の部屋で一人ぼっちになっちゃう……。それが、すごく怖いんです」
彼女の小さな体が、俺の背中で小刻みに震えているのが伝わってきた。
誰よりも俺を独占しようとしてきた彼女の、隠された最大の弱音。
俺は静かに息を吐き、濡れた手をタオルで拭うと、ゆっくりと振り返った。
「……ひより」
俺は彼女の小さな肩を両手で掴み、真っ直ぐにその瞳を見つめ下ろした。
潤んだ大きな瞳が、不安げに俺を見つめ返してくる。
「俺が、お前を一人にするわけないだろ。お前が俺の部屋からいなくなったら、俺が困るんだよ。パジャマも、化粧水も、赤いマグカップも、お揃いのキーケースも……全部置きっぱなしにして、どこに行くつもりだよ」
「……湊くん」
「お前がこの心地よさを失うのが怖いように、俺だって怖いんだ。この関係が壊れるのが怖いから、今まで『ただの隣人だ』って言い訳して、逃げてきたんだからな」
俺は自嘲気味に笑い、彼女の頬を指先でそっと撫でた。
「でも、もう逃げないって決めたんだ。……お前が不安にならないように、絶対に壊れない場所に、お前を連れて行くから」
その言葉の意味を理解したのか、ひよりの瞳からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……はいっ……。私、待ってます……ずっと、待ってますから……」
ひよりは泣き笑いのような顔をして、今度は正面から俺の胸に強く抱きついてきた。
俺も、彼女の柔らかな背中に腕を回し、その温もりを確かなものにするように、強く抱きしめ返す。
窓の外では、雨がまだ静かに降り続いている。
だが、俺たちの間にあった迷いや空回りは、この互いの本音をぶつけ合ったことで、完全に洗い流されていた。
心地よさと不安が交差する、この焦れったすぎる長い夜の終わり。
俺たちの関係が、いよいよ本当の意味で『新しい名前』を持つ日は、もう目と鼻の先まで迫っていたのだった。
------------------------
本日もお読みいただき、ありがとうございました!
「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、
ページ下部にある【★】での応援や、作品フォローをお願いいたします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます