第24.5話:今度は俺の番。ポンコツ天使の看病と、お返しの「あーん」


大学の中庭で「夫婦みたいだ」と指摘されてから、二日後のこと。


俺は大学の講義を終え、スーパーで夕飯の買い出しを済ませてアパートに帰ってきていた。


今日のメニューは、ひよりのリクエストである『豚肉の生姜焼き』だ。


だが、約束の午後七時を過ぎても、俺の部屋のチャイムは鳴らなかった。


いつもなら、合鍵を使って『ただいまー!』と元気よく飛び込んでくるか、少し遅れる時は必ずメッセージが入るはずなのに。


「……おかしいな。寝過ごしてるのか?」


スマホを確認しても、ひよりからの連絡はない。


胸の奥にざわざわとした嫌な予感が広がり、俺はエプロンを外して部屋を出た。


隣の部屋、二〇一号室の前に立ち、インターホンを押す。


――ピンポーン。


「……」


返事はない。

もう一度押そうとしたその時、俺のスマホがブブッと震えた。


画面を見ると、ひよりからのメッセージだった。


『湊くん、ごめんなさい……。熱、出ちゃいました……今日の生姜焼き、行けません……』


「っ!」


俺は舌打ちをし、すぐさま自分の部屋に戻って、冷蔵庫から冷却シートとスポーツドリンクを鷲掴みにした。


(数日前の俺の風邪……絶対にあいつにうつったんだ)


もう一度ひよりの部屋の前に戻り、ドアノブをガチャガチャと回す。当然、鍵はかかっている。


「おい、ひより! 俺だ! 開けられるか!?」


ドア越しに声をかけると、数十秒後、ガチャリと鍵が開く音がした。


ドアの隙間から顔を出したひよりは、顔を真っ赤にして、息も絶え絶えだった。


「み、湊、くん……」


「バカ、無理して立つな!」


俺はドアを押し開け、崩れ落ちそうになった彼女の体を咄嗟に抱きとめた。


「あっつ……!」


腕の中にすっぽりと収まった彼女の体は、まるでカイロのように熱かった。


俺はそのまま彼女の体を抱え上げ、玄関で靴を脱ぎ捨てて、彼女の寝室へと向かった。


初めて入る、女子大生の部屋。


フローラル系の甘い香りが充満する部屋のベッドに、俺はひよりをそっと寝かせた。


「ごめんなさい……私、湊くんの風邪、半分こするって言ったのに……全部もらっちゃったみたいで……」


「アホ。だからうつるって言っただろ。……ほら、冷えピタ貼るぞ」


俺は彼女の熱い額に冷却シートを貼り付け、スポーツドリンクのキャップを開けて口元に運んだ。


「少し飲めるか?」


「ん……コクッ……。ありがとうございます……」


ひよりは潤んだ瞳で俺を見上げ、ふにゃりと力なく笑った。


数日前、俺が熱で苦しんでいた時、彼女はこんな気持ちで俺を看病してくれていたのか。


心配で、胸が締め付けられそうで、でも、頼ってくれるのが少しだけ嬉しいような、複雑な感情。


「……腹、減ってないか? 生姜焼きは無理でも、消化のいいものなら」


俺が聞くと、ひよりは小さくコクンと頷いた。


「あのね……湊くんが作る、あったかい雑炊が……食べたいです」


「雑炊だな。わかった、俺の部屋で作って持ってくるから、大人しく寝てろ」


俺はすぐさま自分の部屋に戻り、土鍋で玄米を煮込み始めた。


彼女が作ってくれたレトルトの卵粥も嬉しかったが、俺は自炊ガチ勢だ。出汁を効かせ、生姜をほんの少しだけ隠し味に入れた、栄養満点で胃に優しい特製雑炊を仕上げる。


お盆に乗せてひよりの部屋に戻ると、彼女はベッドの上で上体を起こして待っていた。


「お待たせ。熱いから気をつけてな」


俺が丸椅子を引き寄せてベッドサイドに座ると、ひよりは土鍋から立ち上る出汁の香りに、ふにゃぁっと顔を綻ばせた。


「んん〜、すっごくいい匂いです……。いただきます」


ひよりがスプーンを持とうと手を伸ばした、その時。


俺は彼女の手からスプーンをすっと奪い取った。


「えっ……? 湊くん?」


「……お前、俺が熱出した時、何て言ったか覚えてるか?」


「えっと……?」


「『病人は大人しく甘やかされるのが仕事』だそうだ」


俺はわざとぶっきらぼうにそう言うと、スプーンで雑炊をすくい、フーフーと息を吹きかけた。


「……えっ。ま、まさか……」


ひよりの顔が、熱のせいだけではなく、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。


つい先日『夫婦みたいだ』と指摘されて、お互いに意識しまくっているこの状況で。


「ほら、口開けろ。あーん」


俺は、照れ隠しで少し乱暴な口調になりながらも、彼女の小さな口元へスプーンを差し出した。


「〜〜〜〜っ!」


ひよりは布団を口元まで引き上げ、目を白黒させて激しく動揺している。


「む、無理です! 恥ずかしいですっ! 私、手は動きますからっ!」


「ダメだ。俺もやられたんだから、きっちりお返しさせてもらう。ほら、あーん」


俺が一歩も引かずにスプーンを突きつけると、ひよりは涙目になりながら、観念したように小さく口を開いた。


パクリ。


「……どうだ? 熱くないか?」


「……っ、おいひいです……お出汁、きいてて……すっごく、おいしい……」


もきゅもきゅと咀嚼しながら、ひよりは顔を真っ赤にして俯いてしまった。


「そりゃよかった。ほら、次」


「み、湊くんのいじわるぅ……っ」


抗議しながらも、差し出されたスプーンを素直にパクッと咥える天使。


看病のお返しという大義名分を盾にして、俺は彼女が土鍋を空にするまで、きっちりと「あーん」を完遂した。


その間、俺自身の心臓がどれほど激しく鳴り続けていたかは、絶対に彼女には秘密にしておこうと思う。


熱で潤んだ瞳、少しだけ開いた桜色の唇、そして彼女の部屋という密室のプライベート空間。


こんなの、夫婦どころか、ただの男としての理性を保つ方がどうかしている。


「……ごちそうさまでした。すっごく、元気出ました」


「おう。薬飲んで、今日はもう寝ろ」


俺がお盆を持って立ち上がろうとすると、ひよりが俺のスウェットの裾を、きゅっと弱々しく掴んだ。


「あの……湊くん」


「ん?」


「私……今日、すごく心細かったから。……湊くんが来てくれて、ご飯作ってくれて……『あーん』してくれて、すっごく、嬉しかったです」


上目遣いで、俺を真っ直ぐに見つめるひより。


「だから……その、もうちょっとだけ、ここにいてくれませんか……?」


ドクンッ!!


俺の理性の堤防が、決壊する音が聞こえたような気がした。


「……寝付くまでだぞ。うつったらどうするんだよ」


俺がわざとため息をついて丸椅子に座り直すと、ひよりは「えへへ」と最高に可愛らしい笑顔を浮かべた。


ポンコツ天使の看病は、俺の寿命を確実に縮める、世界で一番甘くて危険な時間だった。


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