第27話:「私の前で、緊張してますか?」〜小悪魔な天使の追撃〜


生姜焼きのタレに塩をぶち込みそうになった、あのポンコツな失態から数日後。

七月の蒸し暑い夜。俺の部屋のリビングには、唐揚げの香ばしい匂いが漂っていた。


「ん〜〜〜っ! サックサクでジューシーです! 湊くんの唐揚げ、やっぱり最高ですっ!」


ローテーブルの向かい側。

白雪ひよりは、今日も見事なまでの蕩け顔で、揚げたての唐揚げを口いっぱいに頬張っていた。


「……おう。そりゃよかったな」


俺は、自分の取り分のお茶碗を持ったまま、なるべく彼女の顔を見ないように視線を斜め下に固定して答えた。


あの日、『私以外の女の人にご飯作っちゃダメですよ』という独占欲宣言と、『私を意識してドキドキしてましたか?』という名探偵ばりの指摘を受けて以来。

俺の自炊ガチ勢としての冷静なプライドは、完全に崩壊しつつあった。


ただの「ご飯を食べに来る天然なお隣さん」だったはずなのに。

今や彼女は、俺が自分を意識していることを完全に理解した上で、その状況を楽しんでいる節がある。


「……モグモグ……ん? あれ?」


ひよりがふと咀嚼の手を止め、小首を傾げた。


「どうした。揚げすぎたか?」


「いえ、すっごく美味しいんですけど……」


ひよりは箸を口元に当てたまま、じっと俺の顔を観察し始めた。


「……湊くん、やっぱりなんだか変ですよ?」


「へ、変じゃない。普通だ」


「さっきから全然目を見てくれないし、お口もムスッてしてるし……」


ひよりの大きな瞳が、俺の顔のパーツを一つ一つ確かめるように動く。


「それに……お耳が、すっごく真っ赤です。お料理の熱気、まだ引いてないんですか?」


「そ、そうだよ! 揚げ物したばっかだからな! 部屋が暑いだけだ!」


俺は必死に言い訳を並べ立て、手でパタパタと顔を扇ぐふりをした。

だが、そんな俺の不自然すぎる態度を見て、ひよりはふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


(……やばい)


俺は直感した。

この数日で完全に味を占めた彼女の、小悪魔モードのスイッチが入った音だ。


俺は耐えきれず、完全に視線をそらして冷たい麦茶を胃に流し込んだ。

この気まずい時間をどうやってやり過ごせばいいのか、必死に頭をフル回転させる。


だが、数秒の沈黙の後、俺が恐る恐る視線を戻すと。

ひよりはそっと自分の箸を箸置きに並べ、ローテーブルの上に両手をついて、よいしょ、と身を乗り出してきていた。


「お、おい……ひより?」


「湊くん」


彼女の顔が、テーブルを越えて、俺の顔のすぐ目の前まで迫ってくる。

距離にして、わずか数十センチ。


いつもなら「近すぎるぞ」とツッコミを入れて引き剥がすところだが、今の俺にはそんな余裕すら残されていなかった。


彼女が動くたびに、お風呂上がりのような、フローラル系の甘いシャンプーの匂いがふわりと漂ってくる。

俺が熱を出した夜、俺の右手を握りしめながら頬をすり寄せてきた彼女の体温の記憶がフラッシュバックして、俺の脳を激しくかき乱す。


「なんだよ……近いぞ……」


俺がソファの背もたれに体を押し付けて逃げようとすると、ひよりはさらに身を乗り出し、俺の逃げ道を完全に塞いだ。


天然で、ポンコツで、いつも俺に甘えてばかりの彼女。

だが今の彼女の瞳には、明らかに「女の子」としての優位を自覚した、小悪魔のような光が宿っていた。


あの「佐倉湊」が、自分のせいでここまでボロボロに動揺しているという事実が、彼女の中でとてつもなく大きな喜びへと変換されているらしい。


「……ねえ、湊くん」


ひよりは、上目遣いで俺の瞳を真っ直ぐに射抜き、甘く、とろけるような声で囁いた。


「もしかして今、私の前で緊張してますか?」


ドクンッ!!!!


俺の心臓が、本日最大級の、肋骨を突き破らんばかりの特大の音を立てた。


「き、緊張なんて……してねぇよ!」


「ほんとですかぁ? 目、すっごく泳いでますよ?」


「泳いでない! お前が近すぎるから……!」


「私が近いと、ドキドキしちゃいますか?」


「〜〜〜〜っ!!」


逃げ場のないローテーブルの上の攻防。

からかい半分、嬉しさ半分の、彼女の圧倒的な追撃。


シャンプーの甘い香りと、目の前にある無防備な桜色の唇、そして、俺をからかうように細められた大きな瞳。


こんなの、男としての理性が保てるわけがない。

俺は顔から火が出るほどの熱を感じながら、完全に白旗を上げるしかなかった。


「……わかった。わかったから、とりあえず離れろ。飯が冷める」


俺が真っ赤な顔で顔を背けると、ひよりは「えへへ」と満足そうに笑い、ようやく自分の定位置へと戻っていった。


「湊くんの唐揚げ、やっぱりすっごく美味しいです。最高ですっ」


わざとらしく言葉を強調しながら、再びご飯を頬張り始める天使。

その顔は、ただの食いしん坊な隣人ではなく、明らかに俺の心を弄ぶ「女の子」の顔をしていた。


俺は、もう反論する気力すら湧かず、ただ黙って冷たい麦茶を飲み干した。


ただの「ご飯の契約」だったはずの関係が、音を立てて崩れ去り、全く新しい形へと作り変えられていく。

この距離感のバグは、もう、どうやっても修正不可能だ。


俺の平穏な一人暮らしは、この小悪魔な天使の前に、完全に陥落してしまったのだと、思い知らされる夜だった。


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