『お隣のゆるふわ美少女が、なぜか俺の部屋でくつろいでいる件 〜「ごはん、まだですか?」って、君は俺の飼い猫かなにか?〜』
ゆうき あきや
第1部:餌付けと日常の侵食
第1話:鍵を失くした天使が、俺の部屋の前にいた
第1話:鍵を失くした天使が、俺の部屋の前にいた
四月。夜の風はまだ少し肌寒い。
大学の講義と、その後のスーパーでの熾烈なタイムセール争奪戦を終えた俺、佐倉湊(さくらみなと)は、両手にずっしりと重いエコバッグを抱えて帰路についていた。
一人暮らし歴も三年目ともなれば、生活の知恵も身についてくる。特に自炊に関しては、もはや趣味の領域に達していると自負していた。
今日の戦利品は、半額シールが輝く鶏もも肉と、タイムサービスで手に入れた特売の卵。
家計をやりくりしながら、これで何を作ろうかと頭の中でレシピを組み立てる時間が、俺にとってのささやかな癒やしであり、一日の疲れをリセットする儀式のようなものだった。
住み慣れたアパートの階段を上り、自分の部屋である二〇二号室へと向かう。
築年数はそれなりに経っているが、防音性だけは無駄に高いこのアパートは、静かに暮らしたい俺のような学生にとっては非常にありがたい物件だ。
いつも通り、暗い廊下を歩いて自室のドアノブに手を掛けようとした――その時。
俺の部屋のすぐ隣、二〇一号室のドアの前に、小さな影がうずくまっているのが見えた。
「……なんだ?」
一瞬、不審者かと思って身構えたが、どうも様子がおかしい。
廊下の無機質な蛍光灯に照らし出されたその影は、丸まって小刻みに震えている女の子だった。
色素の薄い、さらさらとしたふわふわの髪。
華奢な肩を包む、少し大きめの白いカーディガン。
膝を抱え、顔をうずめているその姿は、まるで雨の日に段ボールに入れられて捨てられた、血統書付きの仔猫のようだ。
俺の足音に気づいたのか、彼女がビクッと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げる。
「あ……」
目が合った瞬間、俺は思わず息を呑み、足の動きを止めてしまった。
涙で潤んだ大きな瞳、血色の良い桜色の唇、まるで精巧なビスクドールのように整った顔立ち。
間違いない。同じ大学に通う同級生であり、一部の男子学生たちから『文学部の天使』なんていう大層な二つ名で崇められている、白雪ひより(しらゆきひより)だ。
俺のような、サークルにも入らず自炊ばかりしている冴えない苦労人とは、住む世界が全く違う高嶺の花。
そんな圧倒的な美少女が、なぜ俺の隣の部屋の前にうずくまっているのか。いや、そもそも彼女がこのボロアパートに住んでいたこと自体が初耳だ。
「あの、どうかしましたか?」
関わらない方がいい。絶対に面倒なことになると、俺の脳内コンピューターがけたたましい警告音を鳴らしている。
だが、こんな夜更けに、しかも今にも泣き出しそうな顔をしている女の子を放置して、自分だけ温かい部屋に入れるほど、俺の神経は図太くない。
持ち前の、隠れお節介な性格を心の中で呪いつつ声をかけると、白雪さんは弾かれたように顔を上げた。
「あ、うぇっ……?」
涙声の混じった、変な悲鳴。
どうやら気のせいではなく、本当に泣いていたらしい。よく見ると、目元がほんのりと赤く染まっている。
「えっと、隣の部屋の佐倉ですけど。気分でも悪いんですか? それとも、何かトラブルですか?」
俺が両手のエコバッグを少し持ち上げて、ただの隣人であることをアピールすると、彼女は警戒心を解いたのか、ふにゃりと表情を緩めた。
「あ……お隣の、佐倉くん……。ごめんなさい、急に声を出して驚かせちゃって……」
「いえ、俺は別にいいんですけど。こんなところで座り込んで、何してるんですか? 四月の夜はまだ冷えますよ」
俺が問いかけると、白雪さんはシュンと分かりやすく肩を落とし、消え入りそうな小さな声で答えた。
「……鍵を、失くしてしまって」
「鍵? 部屋のですか?」
「はい……。大学で落としたのか、カバンの中をいくら探してもなくて……。大家さんに連絡して開けてもらおうと思ったんですけど、スマホの充電も切れてしまって、どうしようもなくて……」
それはまた、見事なまでの不運のコンボだ。
「なるほど。実家のお母さんやご家族に連絡する手段もない、と」
「はい……親が合鍵を持ってるんですけど、今日は仕事で遅くなるって言っていて……」
ぐすっ、と小さく鼻をすする白雪さん。
なるほど、事情は分かった。
しかし、このまま彼女を外の冷たい廊下で待たせるわけにはいかない。
夜の冷え込みは、薄着の彼女には酷すぎる。明日にでも風邪を引いてしまうだろう。
かといって、年頃の男の部屋に、こんな無防備な美少女をホイホイと招き入れるのも倫理的にどうなのか。
理性と良心が俺の脳内で激しい議論を交わしたが、決着は一瞬でついた。凍えている女の子を見捨てる選択肢なんて、最初からなかった。
「……もしよかったら、俺の部屋で待ちますか?」
「えっ?」
白雪さんが、ぱちりと目を瞬かせる。
「いや、変な意味じゃなくて。スマホの充電もできるし、親御さんと連絡がつくまで、外よりはマシだと思います。暖房もついてますから」
俺がなるべく事務的なトーンでそう言うと、白雪さんはぱぁっと花が咲いたように顔を輝かせた。
「い、いいんですか……? ご迷惑じゃ、ないですか?」
「迷惑ってことはないです。ただ、男の一人暮らしなんで、ちょっと殺風景で散らかってるかもしれませんけど」
「そんな! 助かります……! 本当にありがとうございます、佐倉くん……!」
立ち上がった白雪さんが、ペコリと深く頭を下げる。
その瞬間、ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。
シャンプーだろうか。それとも柔軟剤? フローラル系の、甘くて優しい、春の陽だまりみたいな匂い。
至近距離で嗅いだその匂いに、心臓がトクンと大きく跳ねた。
俺はその動揺を誤魔化すように、逃げるように自分の部屋のドアを開けた。
「どうぞ。適当に座っててください」
「お、お邪魔します……」
遠慮がちに部屋に足を踏み入れる白雪さん。
俺の、男らしさしかない殺風景なワンルームに、突如として『天使』が降臨した瞬間だった。
部屋の明かりをつけると、彼女はキョロキョロと珍しそうに周囲を見回している。
「どうぞ、そこのソファに。充電器、これ使ってください。タイプCで合ってますよね?」
「あ、はい! ありがとうございます……」
ソファの端っこに、ちょこんと縮こまるように座る白雪さん。
その姿がまた、新しい環境に戸惑う飼い主待ちの仔猫みたいで、俺の中の謎の庇護欲を激しくかき立ててくる。
「何か温かいものでも淹れますね。コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
俺が買ってきた食材を冷蔵庫にしまいながら尋ねると、彼女は申し訳なさそうに手を振った。
「あ、お構いなく……! 場所を貸していただいてるだけで、十分ですから……」
「遠慮しないでください。俺も飲むので。じゃあ、無難に紅茶にしておきますね」
そう言いながら、戸棚からマグカップを取り出そうとした、その時だった。
――きゅるるるるぅぅぅ……。
静寂に包まれた部屋に、盛大な腹の虫の音が鳴り響いた。
「…………」
「…………」
振り返ると、白雪さんが顔をゆでダコのように真っ赤にして、自分のお腹を両手で必死に押さえていた。
「あ、あの、これは……! その……! 違って……!」
涙目で慌てふためき、首を横に振る姿は、控えめに言って可愛すぎる。
はい、可愛い。死んだ。今の破壊力、100万ボルトかよ。
脳内の俺がスタンディングオベーションをしているが、表面的にはあくまで冷静を装う。
「……晩ごはん、まだですか?」
俺がわざと呆れたような声で聞くと、彼女は恥ずかしさからか、消え入りそうな声で白状した。
「……はい。お昼から、何も食べてなくて……」
そう言って、へにゃりと八の字に眉を下げる白雪さん。
その瞬間、俺の中の『お節介スイッチ』が、カチリと完全にオンになった。
キッチンカウンターに置いたままの、鶏肉と卵に視線を落とす。
よし、いける。
「……俺、これから晩飯作るんですけど」
「え?」
「余り物でちゃちゃっと作るオムライスでよければ、食べていきますか?」
俺の言葉を聞いた瞬間、白雪さんの瞳に、満天の星が煌めいたように見えた。
「オム、ライス……!」
ごくりと喉を鳴らす音が聞こえそうなほどの、見事な食いつきっぷり。
「い、いいんですか!? 私なんかが、いただいても……!」
「こんな時間までお腹空かせてる子を、手ぶらで帰すわけにはいかないんで。多めに作るんで気にしないでください」
「佐倉くん……! 神様です……!」
大げさに拝むように両手を合わせる彼女を見て、俺は思わず苦笑した。
この時の俺はまだ、全く気づいていなかった。
このたった一皿のオムライスが、俺と彼女の距離感を根本からバグらせる、甘くて危険な『餌付け』の始まりになるなんてことを。
「それじゃ、少し待っててください。すぐ作りますから」
「はいっ! すっごく楽しみに待ってます!」
ソファの上で、期待に胸を膨らませてパタパタと足を揺らす白雪さん。
キッチンに立つ俺の背中越しに伝わってくる、その無防備でゆるふわな気配に、俺は柄にもなく、少しだけ口角を上げていた。
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