出来事だけを並べたプロットなら、きっと数行で終わってしまう話が、四千字に膨れ上がっています。それ自体は、実力派の作家さんなら(羨ましいものの)驚きはありません。ですが、本作はその濃淡の付け方が特徴的です。表現力を見せつけるような鋭い切り結びに終始するのではなく、硬さや痛々しさに、それと対になるような(ぶよっとした)柔らかさや鈍さが曖昧に混ぜ込まれています。これによって私は、深海魚のイメージを経由しながら、爪床を思い浮かべました。爪が剥がれた時に見えるアレですね。目を背けたくなるような、見た目と感触。爪によって隔てられていた本来の境界が曖昧になるあの領域。一作を通してそんな一つのイメージが浮かび上がってくるところに、文章表現の深さを感じました。稀有な読書体験でした。
余談ですが、なつきとりょうという名前や深海魚のセレクトにこだわり(というより遊び心?)があって、そういうところに思いを巡らせるのも楽しかったです。素敵な時間をありがとうございました。
二人で暮らす部屋の中は、無機質な空間で
その日常もまた、細々とした生活の微細な
記録でしかないのだろう。遠く聞こえる
シャワーの水音、乱暴に手に取られた鍵束と
青いマグカップ。
起きがけに、彼女のいない土曜日を識るが。
それは、もう既に生活のルーティーンとなり
図書館、百均、書店にアジア食材の店。
フードコートでカツサンドを食べてから
買い物をして帰宅する。
ぼっかりと溟い口を開けた 深海 が。
ルーティーンを無限ループにする。
図書館で見た『深海魚の写真集』は、彼を
幻の現実へと誘う。
作者の、リアルな表現はあくまでも現実を
生々しく目の当たりに展開して行くが、
それは同時に何処か幻想的で、あたかも深く
溟い海の底を揺蕩う様に。
深海魚の発光器一つの心頼りで読み進む。
ラストの主人公の心象に
鳥肌が立つ。
それも又、深く溟い深海へと静かに
落ちては降り積もって行く。
金曜日の夜にやってきてベッドの上でいつもパートナーの体じゅうに爪を立て、ひたすらきつく抱きしめる【なつき】
磨き上げられたなつきの爪が、衣服ごしに背中や二の腕や尻に食い込み輪郭をかしめていくのを、息をひそめて受け止める【りょう】
【なつき】と【りょう】のふたりの印象的なシーンです。
爪は人間の身体の表面上でもっとも鋭い組織です。
それを意図して相手の身体に刻みつける行為は、ときに流血をもたらし、その先に至る感慨へとふけるためにあるのでしょうか。
五感を通じ、感情に訴えかける描写は多くの作者様が得意とされています。
しかし、本作はそれだけにとどまらない。
そこから派生した筆舌に尽くしがたい心理を突いた筆致が、得もいわれぬ読後感を味わわせてくれるのです。
深いです。
爪を立てれば痕がつく。
その痕には何の意味が込められているのか。
刺さった爪を抜いてできた赤いしずくがどこまでも赤い。
刻まれた記憶とともに、心が痛みを超えていく。
瞼の裏からきえない爪痕をのこすように。
忘れられない短編とはこういうことをいうのだろう。