鯖の缶詰、練炭入り。

アンビィ・Va・レンス

第1話

 今日、死のう。



 休日の昼過ぎ、ムクリとヨレヨレな敷布団から起き上がったバツイチのくたびれた男は、ふと思い立った。

 この男、何かに絶望した訳ではなかった。社内の人間関係は良好、借金もなく、酷い残業やパワハラもなく。嫁には逃げられたが、さして未練がある訳でもなかった。

 それでは何故死ぬのか。何故この男は死のうと思ったのか。

 理由は男にも分からなかった。ただ、死のうと思った。それだけである。

 しかしてその突発的な自殺衝動は男には抑えられず、不思議にも無気力だった体に目標が出来たからなのか活力が湧き上がった。男はまるで懇意の女性とのデートの約束を取り付けたかの如く動き出す。

 さぁ死のう、どう死のう。しかしなぁ、けどなぁ。

 なんとまぁ、この男、死のうと思う突飛さはあれど死ぬ蛮勇は持ち合わせておらず、心臓を突き刺したら痛いだろうな、飛び降りも怖いしな、人身事故は迷惑がな……と堂々巡りも良い所だ。

 だがもはや死ぬことは決定事項であるのか、とうとう自殺について調べ始めてしまった。スマートフォンで自殺について調べると、必ず自殺防止の番号が頭に出てくるのだが、その程度の防御壁は今の男の前では無力である。

 そして辿り着いた答えは練炭であった。苦痛は少なく、眠るように死ねると言うではないか。これはいい、これはいい。

 即決即断即行動とはこの事、男は早速ホームセンターまで足速に走り歩き、即座に練炭を購入した。値段は5000円程であり、これから死ぬのにも関わらず、高いなと思ってしまった。

 店を出て、さぁ早く帰ろう、その時である。もう死ぬのだ、折角であれば帰り道を楽しもうじゃないか。顔を上げ、清々しさと共にいつの間にか傾いた陽が街を橙に染める様子を楽しもうとした。

 しかしどうしたのだろう、先程までの清々しさが陰り、鬱屈とした雲が男の心に掛かっていく。

 下校する子供の笑い声も、射す夕焼けの斜陽も、前を横切る猫すらも、男の目には耐え難く憂鬱に映った。これが死ぬ間際の拒絶反応なのか、はたまた何も関係の無いものなのか。何れにせよ男はひどく憂鬱で、かつ孤独であった。

 ささやかな街の喧騒の中、男はぽつんと独りであった。買い出しをする誰かの母親の声が、遊ぶ子供の声が、夕焼けに釣られた鴉が、騒めく葉が、風が、どうしようもない疎外感を醸し出した。どうやら、この街に死人の居場所は無いようだ。

 そんな見えもしない目線に駆られ、そこから逃げるように彷徨い歩かなければならなかった。居もしない誰かが男を追い立てた。この感情を何と言うのか、あぁ、居た堪れないだ。など考えながらトボトボと帰路についた。

 たかが十分かそこらの帰り道が、まるで何千里も離れたところのように感じる。足が重く、一歩一歩に何倍もの重力が掛かっているようだった。

 幾百里歩いただろうか、男は空腹に喘いでいた。いや、空腹を想い孤独を薄れさせようとしていた。

 「夕飯なににしようかな」

 そこにはいつものスーパーがあった。実際にはホームセンターから5分も歩いていない。色とりどりの果実やタイムセールの惣菜を眺め、更に空腹が加速したころ、男はとある願望に支配されていた。

 「鯖缶が食べたい」

 それまでの孤独も憂鬱も疲労も忘れ、脳はただ鯖缶を求めた。種類の数ある鯖缶、さしてこだわりなどは無いが目についた青い缶が脳に焼きつき、気付けば会計もせずに外に出ていた。

 どうせ死ぬのだ、このくらいどうって事ない。男は無敵だ。先程とは打って変わって足取り軽く、変に盛り上がった気分が出す足を加速させ、しまいには練炭と鯖缶を握りしめて走り出していた。

 後は言うまでもないだろう。そこには鯖の骨が残った空き缶に燻った練炭が一つ。とうに暗くなった窓の外を見つる。燃える練炭は小さいながらも確かな温もりを生み出し、男は深い眠りについた。

 汚らしい庭には焦げ臭く、炭に塗れた七輪が放置されていた。



 明日は、仕事だ。

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鯖の缶詰、練炭入り。 アンビィ・Va・レンス @LuT-f

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